駆け引き
「ジャンケンねえ……」
僕の頼みに、慧悟は皮肉げに笑いながら呟いた。
帰り道。
毛穴という毛穴から魂がドロドロと溶け出すような───気が滅入るような暑さの中。
蝉の声が響く中。まるで世界が、夏色に塗りつぶされてしまったような───そんな錯覚すら描いてしまう夏の日のこと。
空を見上げれば、気が遠くなるほど果てしない群青の空と、気を失うほど遥かなる純白の雲が広がっている。
けれど、僕は下を向きながら慧悟に言った。自分の影に目を落としながら。
「何だよ、何かおかしいか?」
少なくとも慧悟に比べれば、可笑しいことなど何もないはずだ。
けれど慧悟は汗を額に光らせながらも、その皮肉げな笑みを引っ込めなかった。
「いや?ただ珍しいと思ってね。我関せずを旨として、いつだって冷めた目で周りを見てた秤が、そこまでマジになるなんて」
「人聞きの悪い言い方するなよ」
僕は言った。
聞き咎める、というほど強くは言えなかったけれど。
なぜならそれは、間違っているとも言い切れないからだ。
「僕はただ、正しくあろうとしただけだ。それがいわゆる正義じゃないだけで」
「公正、か?まあいいや、あんまりムキになるなよ。測って計って量って諮って図って……天秤を見極めながら生きていたお前が、急にどうしたのかが気になるだけだ」
僕は、朽葉秤は────熱くない。
けれど慧悟が言ったように、さりとて冷めているわけでもない。
熱くも冷たくも────暑くも寒くもない。
どちらかと言うと、褪めている。
「別に」
「そんなに奏先輩が気になるか?まあ確かに美人だけどな、ハハッ………」
どこまでも────軽々しく空々しく、笑ってみせる慧悟。
だからきっと、この笑顔は嘘だ。
「そんな理由じゃないよ」
僕は言う。そんな理由なら少しはマシだっただろうか───そんな事を思いながら。
蝉の声は鳴り響く。うんざりするほど聞き飽きた残響。
その声に掻き消されないように、僕は言う。
「お前の知るいつもの僕と同じだよ。僕には僕の、合理的理由があるんだよ」
少しだけ突き放すような言い方。
そんな言い方を選んだわけではないけれど、改めようとも思わない自分がいる。
僕は顔を上げない。その理由は、決して日差しが強かったからだけではないだろう。
ハハッ。
慧悟は笑う。何を思ったのか、本音のように見える笑みで笑う。
「……お前らしいな。それで?────俺に何を頼みたい?」
「頼みたいのはシンプルなことだよ」
慧悟ヘ目を向ける。ほんの少しだけ見上げるようになってしまうのが屈辱的だが。
「先輩と軽い賭けをする予定なんだ」
「賭け?」
「内容自体は他愛ないことだけどね。何の変哲もない日常程度の」
「青春の1ページってか?笑えるねえ」
「ゲーム内容を聞いたらもっと笑えるぞ。なんと大富豪だ」
面白すぎて笑いも出ねえよ。
僕の言葉に、慧悟はそんなふうに返した。
「そこで、だ。その順番を決めるためにジャンケンをする」
「素晴らしい。古式ゆかしい決め方だな。やはり伝統文化は守るべきだ。」
「お前に協力してもらいたいのは、そこで僕に負けることだ」
「へえ………理由を聞こうか」
案の定、慧悟はそう聞いてきた。
僕は茹だるような暑さの中、用意してきた考えを語る。
「理論上、ジャンケンで勝つ確率は等しい。数学的に言うなら『同様に確からしい』ってやつだ」
「理系の秤らしいな。それで?」
「けれど、それはジャンケンで勝つ確率と負ける確率が等しいってことだ」
「そうだな」
「だったら─────負ける確率をゼロにすればいいんじゃないか?」
一瞬、ほんの一瞬だけ────蝉の鳴き声が止んだかのような錯覚を受けた。
まるで僕の言葉が、蝉の声を掻き消したような。
「どうやって?」
「簡単なことだよ────お前が僕に負けてくれれば良い」
「………ああ────なるほど」
慧悟はまた愉快げに笑う。
どうやら分かったようだ。理解ったようだ。
「理解が速くて助かるよ」
「長い付き合いだからな。いい加減わかってくるさ。それにしても、ろくなこと考えないな。ジャンケンくらいまともにやれよ」
通常、3人以上の人数の場合、あいこの確率は高くなる。その場にグーチョキパーの全てが揃えば、それがどんな人数差でもあいこになるからだ。
ならば、その内2つを揃えておけば、負ける確率はほぼゼロだ。
例えば僕がグーを出す。慧悟がチョキを出す。
別の誰かがパーを出せば、勝負はつかなくなる。
この場合、決着がつくのはその場の全員がグーかチョキを出した場合。
そして、その時点で────グーを出している僕は勝利する。
僕が負ける可能性はゼロ。
あいこの可能性がほとんどだ。
そして僅かに───勝つ確率が存在する。
つまり天秤は傾く────勝利を乗せた方向へ。
遅筆過ぎて遅れてました。申し訳ありません!