桜庭先輩の洞察
「この学校の生徒が書いたのか──『山河』を」
僕は雨上の言葉を繰り返す。
あの未完の小説が。
同年代の高校生によって書かれたという事実を。
「しかもあれの作者が──」
「俺の兄だ」
驚きだ。ならば当然の帰結として、先輩ほど好奇心が強いわけでもない僕にも疑問が浮かぶ。
「どうしてアレが未完で終わったんだ?」
アレとは『図書室の殺人』というミステリー小説のことだ。『山河』に掲載されながら未完で終わった小説で、僕と先輩が初対面のとき、その結末について意見を戦わせた。
「そこだ」
雨上は気障っぽく指を鳴らした。残念ながら高く澄んだ音など鳴るはずもなく、鈍い音が鳴っただけだった。
「いい音だ」
「殺すぞ」
怖っ。こいつも関わっちゃいけない奴かもしれない。
朝のニュースでお目にかかる日が来ないことを陰ながら祈っておこう。
「結論から言おう。俺はその理由を知らない」
「雨上の自宅にあったのか?『山河』が」
「あぁ。だから知ってるんだ。式折に入って、文芸部が廃部になっていて驚いた」
この学校の偏差値は決して低くはないが特筆するほど高くもない。近隣の中学生の多くは検討することもなく式折高校への進学を選ぶ。だから、彼が彼の兄と同じ高校を選んだのはごく普通のことだ。
「お兄さんに聞いてみたら良いじゃないか。絶対に知ってるだろ」
「聞けたらそうしているよ」
「…………?」
なるほど確かにそうかもしれない。つまり彼は今、お兄さんにその理由を訊けない状況なのだろう。けれど、兄に一言理由を尋ねられないとはどんな状況なのだろうか。
「いや、大した理由じゃないんだ。ただ兄が──蒼満が話したがらないだけで」
ただ───と、雨上は続けた。
「この結末、気になるんだ」
なるほど。
『図書室の殺人』は未完で終わっている。それも探偵による謎解きの直前で。
雨上がそれを読んだのなら、その結末が気になるのも至極当然のことだろう。
「なら───」
なら、僕が教えてやるよ。
そう言おうとした。なぜなら僕は過去に、先輩と一緒にその結末を推理したからだ。アレが結末に間違いないと自惚れるつもりはないけれど、少なくとも存在しない結末の代替品くらいにはなる予想だったとは思う。
けれど、僕のそんな言葉は雨上によって遮られた。
「だけどな────桜庭先輩は知っていたんだ」
「………?」
それはそうだろう。僕は先輩とともに『図書室の殺人』の結末を推理したのだから。
だから、僕が疑問符を浮かべたのは別の理由だ。
つまり──どうして雨上は先輩に直接聞かないのか。
先輩が限りなく真実に近いであろう予想を持っていることを僕は知っている。雨上もそれを知っている。なら、雨上は何故それを聞かない?
「先輩に直接聞けばいいじゃないか」
「聞けたらそうしているよ」
───二度目だ。
『聞けたらそうしているよ』。この台詞が出たのは本日で二度目。なら、どうして先輩はそれを言わないのか?
「あの日──先輩に出会った入学式の日に、あの小説を見てもらった。そして、先輩は解答を知っていた。だけど俺には秘密だって──」
「待てよ」
思わず雨上の話を遮る。
「もう一度言ってくれ。──入学式の日って言ってのか?」
「……?そうだが、それがどうかしたのか?」
「…………」
───馬鹿な。
──『知っていた』。
雨上はそう言った。
僕が先輩に初めて出会って『図書室の殺人』の謎を解いたのは、入学後しばらくして、初めての委員会活動の時だ。
しかし雨上の話によると、先輩は入学式の時点で既に『図書室の殺人』の謎を解いていた事になる。
ならばなぜ、解けていないふりをした?
ならばなぜ、違う仮説を話してみせた?
謎と言うなら、この矛盾こそ謎と言うに相応しい。
そして、雨上の話が真実ならば、いくつか説明のつく事実がある。
先輩は2年生だ。
そして、去年から図書委員だった。
ならもっと早い段階で、あの謎に出会っていても不思議ではない────否、出会っていなければ不自然だ。
「あ、そういえば桜庭先輩が言ってたぞ。『この謎は、驚天動地の、トリックだ』───ってな」
謎に七五調なのはともかくとして、一つだけわかったことがある。
本のページに毒を塗りこむ──そんなものが、驚天動地と言えるはずがない。
───どうやら、僕があの日に立てた仮説は、間違っていたようだ。




