暗号は踊る
「まあ、現実的に考えてこの『暗号』がアナグラムだとは思えないよね」
僕らの議論をまとめるように先輩が言った。
カチリ、と秒針が時を刻む。
僕は時計に目を向けた。──18:37
我が式折高校は共学なので暗くなるまで学校を開けない。一体共学だということで何を心配しているのかは知らないが、(教員の労働環境を鑑みて、という説もある)少なくとも図書室を閉める目安は18:45だ。
ちなみに、遅くまで残る部活とかは9時くらいにもなると噂で聞いたことがある。
つまり──
「図書室はあと8分で閉めちゃうよ」
タイムリミットはあと8分。これは僕のタイムリミットではなく、先輩のタイムリミットだ。
先輩があと8分の間にこの暗号を解ければ僕の負け。解けなければ僕の勝ちだ。
「これ、もしかして共通鍵なんじゃないですか?」
「きょうつう…?体調が優れないんですか?それとも、もしや恋ですか?」
「冴月…僕は胸痛のことを言ってない…」
またもや頬を染めて恥ずかしそうに俯く冴月。この人本当に天然なのかな。
「私を笑え!無知な私を笑ってくれ友よ!さて、共通鍵ってのは何だ?恋人同士のあれか?」
「似てそうな字面ではあるけども合鍵では断じてない。そして走れメロスのノリで僕を貶めるな。
──共通鍵暗号っていうのは物凄く簡単に言うと、暗号を作る側も解く側も同じやり方で暗号を解いたり作ったりする暗号のこと」
「つまり、この暗号は暗号の作成者、それからそれを受け取るべき人にしか解けないってことですか?」
冴月の言葉に僕は頷く。
つまり、僕が示したいのは、鍵を持たない──解読方法を知らない僕たちは解読ができないということだ。最終的には解かれなければ僕の勝ち。ならば僕にできることは、この暗号を解かせないことだ。
「少なくとも、僕はそう思う」
「根拠を聞いていい?」
既に何度か言われた言葉だ。当然、そう言われるであろうことは予想していた。
「〈常世の夜〉に書かれたこの暗号は不特定多数の目に触れる可能性があります。なら、顔も知らない誰かに解読されないように当人同士にしか分からない暗号にする方が妥当です」
「ちなみに公開鍵暗号方式っていうのもあるんだよ?
──作る側と解く側で違う方法を使うことだけどね。これじゃないという根拠は?」
「まあどちらでもあまり変わりませんけど。相手に鍵を渡せるんなら直接伝えたほうが早いかな、と」
単にわざわざ暗号化する意味がない、ということだ。
「え〜、ロマンがないねえ」
「それを言ったら犯人の動機もトリックもロマンの一言で片付けられますよ」
「どうき…?あぁ、祭具とかに使われたんですよね」
「冴月…誰も銅器の話はしていない」
やっぱりこれが天然だとは思えない。普通、天然でこんなコテコテのボケになるか?いや、ならない。反語。結論、冴月は普通じゃない。
「つまり秤くんが言いたいのは、当事者でない──解読方法を知らないわたし達がこれを解くのは不可能だってことですか?」
さすがだ冴月。だいぶズレているところもあるけれど、根は優秀だから飲み込みが早い。
「確かにな、公安のバッグアップを受けている俺を以てしても解読方法の分からない暗号は解けないからな」
もう発言が虚言ですらなく空想の類になっている慧悟も僕に賛意を示した。こいつも頭は悪くない。ただ性格が破綻しているだけで。
あとは───
僕は横目で先輩の様子を窺う。〈常世の夜〉目次ページ──そこに書かれた暗号を凝視する先輩を。
──あとは、この人だけだ。
鋭い洞察力、光る推理力、そして輝く想像力。
想像もつかない方法で僕をここまで追い込んだ先輩。
思考のプロセスが、方法が、僕とはまるで違う先輩。僕には理解らない。先輩が何を考えているのか。先輩が何を思っているのか。
──先輩がどんな仮説を、推理を組み立てているのか。
「いや──解けるよ」
「「え?」」
「……………」
慧悟と冴月の驚く声が重なった。
先輩は笑って僕の方を向いた。
なぜだか僕にはその笑みが、期待に目を輝かせているように見えて。
なぜだか、僕に何かを期待しているように見えて。
僕は黙って先輩の笑顔を見つめていた。
僕には今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
先輩の言葉に驚いた顔か、焦った顔か、困惑した顔か。
けれど、僕はなぜだか、今の自分が──
「どうやら…真実が再現できそうだね」
──笑っているように思えた。