常世の夜
「この本を借りた誰かがいる、この認識で間違いないよね?」
先輩は例の本をどけると、その下を指差しながら言った。例の本があった場所には薄っすらと埃が積もっている。
「ということは借りた人が本を戻すときに傾けてしまったってことですね」
僕は汗を滲ませながらそう言った。
僕が奴から頼まれたのはこの本の謎を誰にも気づかせないこと。そしてその謎は本を開くと提示されるイージーゲームだ。つまり僕ができることは──先輩に本を開かせないこと。
「どうしたの?キミ顔色悪いよ」
「そんなにですか」
「うん。初めてホラー映画を見たあと、夜に一人でトイレにいけなくなって必死で我慢してる小学生男子みたい」
「そんなに酷い顔してますか?」
「キミも大概小学生男子に失礼だね」
不安が表情に出てしまっていただろうか。僕は顔を引つらせて笑顔を作ってみせた。
「大丈夫です」
しかし事態は深刻だ。何しろ例の本は先輩の手の中にあるのだから。
「とりあえずその本を書棚に戻しません?ほら、借りる人がいたら困っちゃいますよ。──今までに誰かが借りてただけで、何も不自然なことなんてないですよね?」
「いや、不自然だよ」
「何がですか?」
先輩は本を持ったままカウンターに戻ると、そこから僕を手招きしてくる。
僕が再びカウンターに着くと、先輩は一枚のカードを僕に示した。
「ほら見てよ」
それは図書委員が管理している図書カードだった。これは本一冊ごとに一枚付属しており、借りる際にはこのカードに氏名と借りる日付を記入しなければならない。
4/17 冴月千景 返却済み
4/7 中野美紀 返却済み
7/15 東雲出流 返却済み
「───!」
「フフッ。鳩が豆ミサイル食らったような顔してるね。本を正式な手順で借りた人はみんな返してるはずなんだよ。しかも最後にこの本が借りられたのは一ヶ月くらい前。つまり、あの本を傾けて置いた人は違う人物。──なら一体誰があの本を借りて戻したのかな」
鳩が豆ミサイル?鳩一匹のために辺り一帯焦土にするつもりですか?
いや、そんなことはどうでもいい。
──つまりこういうことだ。図書カードで誰が借りたかは調べることができる。多分奴はそれを恐れて名前を書かなかったのだろう。しかし、その判断がここに来て違和感を生んでしまっている。
「無断で借りたってことだね」
「……そういうことになりますね」
最悪だ。正直、まだ例の本が開かれてないのが奇跡なくらいだ。どうすれば乗り切れる?僕は必死に考えを巡らせた。
「それで、この本の題名は──へぇ〜〈常世の夜〉とは。そそられるタイトルだね」
「常世…っていうのは」
「うーん…簡単に言うと死後の世界みたいなやつかな」
奴が僕に渡した例の本──〈常世の夜〉を興味深げに観察しながら先輩は僕の方を見た。〈常世の夜〉はハードカバーの本で、よく名前を目にする作家が書いた本らしい。夜の公園の写真が表紙となっていて、不気味よりかは幻想的な方が勝っている。
「聞いたことのない出版社。いつからここにあるのかな」
「さぁ?結構前からあったような……」
どうしても生返事になってしまう。先輩の手から〈常世の夜〉を遠ざける口実を考えるのに必死だったからだ。
「あ、そうだ。僕がそれ借りてもいいですか?」
「え?」
「いや、なんか面白そうなタイトルだなー、と思ってですね。駄目ですか?」
「いや…でもそれは…」
先輩は逡巡するような間を挟んだ。先輩はこの本のことについて違和感と疑問を抱き始めただろう。それを追求する機会と物証を失いたくはないだろう。
だから──
「やっぱり他に借りる人がいるかもだから、せめて借りるのは図書室を閉める直前にしたほうがいいんじゃないかな」
──天秤が傾いた。〈勝利〉を乗せたの方向に。
期待した通りの安直な答え。感情と理性を結びつける暇を、よく考えを巡らせる暇を、与えなかったからこそできた隙。
「じゃあこの本は元の場所に置いたまま図書館を閉めるときまで触れない、そういうことでいいですよね?」
先程の発言があるから、先輩はこの本の謎を今日中にこれ以上調べることができない。
また、僕は最低でも図書室が閉まるまでに守りきれれば目標達成だ。
そして、今先輩が分かっている情報だけで先輩が無断で借りた人物──つまり奴が誰かを突き止めることは絶対にできない。
少しだけ希望が見えてきた。
守りきって見せますよ。
※〈常世の夜〉なんて小説は現実には存在しません




