3.御神楽祐樹
「朝~、朝だよ~。朝ごはん食べて、学校に行くよ~」
目覚まし時計から幼馴染の声が流れている。いつか彼女がふざけて録音したものだ。これは昔のゲームに出てきたセリフらしい。
御神楽祐樹はベッドから起き上がると、
「おはよう」
と言って目覚ましを止めた。
普段はふつうの電子音がなる目覚ましを使っているのだが、今日は特別な日なので古い時計を引っ張り出してきたのだ。ペンギンの形をした子供のおもちゃだ。
窓際に立ってカーテンを開いた。雲ひとつない青空である。
二学期が始まって一週間――まだまだ残暑は厳しい。
部屋を出て一階のダイニングに下りていくと、父親と姉がすでに食卓についていた。父はもう朝食を済ませたらしく、コーヒーを片手に新聞に没頭している。
姉の恵はトーストに目玉焼きを乗せて豪快にかじりついていた。いつもながら姉の食欲には感心する。小柄な体格なのに、エネルギーの塊のような女だった。
「祐樹も早く食べないと遅刻するわよ」
姉に言われて時計を見ると、いつもより十五分ほど寝坊していた。おそらく古いおもちゃの時計を目覚ましに使ったせいだろう。
「しょうがないわね、いつまでも夏休み気分が抜けなくて」
「今日はたまたまだよ」
「どうだかね、大体あんたは何事にもやる気を感じないのよねえ」
恵は大袈裟にため息をついた。
母親は十年も前に病気で亡くなっている。自然と姉が母親的なポジションで説教をかましてくるようになった。しかし祐樹にとっては一歳しか年の違わない姉である。大きな顔をされるのはかなり理不尽に思えた。
「わたしがこの小さな体でレギュラーになれたのは、人の三倍練習したからよ。それくらいの根性があれば多少のハンデは克服できるものなの。いい? 祐樹、大事なのは一にも二にも根性なんだから」
恵お得意の根性論である。いいかげん聞き飽きた話だ。
確かに姉の体格でバレー部のレギュラーになれたのは凄いと思う。彼女の努力には頭が下がる。
でも、それを鼻にかけて弟をダメ人間呼ばわりするのは正直いって腹が立つ。
「そういえば今日はあの事故があった日じゃないか?」
突然、父親が新聞から顔を上げた。不安な表情で祐樹を見つめる。
「ああ……そうだね」
祐樹はなぜか後ろめたい思いで答えた。
「おまえ、ひょっとして墓参りに行くつもりか?」
「もちろん行くよ」
「いや、別におれは祐樹が行きたいというのを止めるつもりはないよ。小さいときから仲の良かった子だから……ただ、あれから二年もたつわけだし、いつまでも過去にとらわれているのはあんまり……」
「父さん」
「うん?」
「そろそろ会社に行く時間じゃない?」
祐樹は父親を安心させるように、つとめて明るい調子でいった。
「っぁあ、もうこんな時間か。じゃあ二人とも、後片付けしてから学校に行くんだぞ」
そういって父親は大慌てで家を出た。
母親のいない御神楽家では、朝食の準備は父親、後片付けは子供と決まっていた。もっとも後片付けといっても皿とコップを食器洗浄機に突っ込むだけだが。
祐樹と恵は肩を並べて家を出た。二人とも背丈は同じくらいである。
自他ともに認める小柄の家系だった。せめて身長ぐらいは姉を追い越したいと思っているが、その願いはいまだにかなっていない。
姉弟は大通りに出てバス停の行列に並んだ。
「そっか……あれから二年たつんだね」
恵がポツリとつぶやく。
「またさっきの話を蒸し返すのかよ」
「お父さんも言ってたけど、祐樹が無気力なのは過去のトラウマを引きずってるからだと思うの」
ガサツな姉は万事においてデリカシーのない言い方をしてくる。
「ありさちゃんのこと、忘れられないのは分かるけど……あの子はもう戻ってこないんだし、いい加減ふっきらないと」
「別にとらわれてないよ」
祐樹はきれいに整った顔立ちをわざとゆがめるようにして応えた。
小さい頃から女の子と間違われることが多かった。化粧をすれば姉より美人といわれてきた。恵が自分に嫌なことばかり言うのはこれが原因じゃないかとにらんでいる。
「でもねえ、あたし心配だわ」
大げさにため息をつく。実にうっとおしい。
二人とも同じ高校に通っているので、三十分の通学時間のあいだずっとこんな話が続くのだろう。そう思うとうんざりした。
姉に言われなくても分かっている。幼馴染のありさが事故で死んでから、長期的な展望も目標も持てなくなり、ただアドリブで日々を過ごしていた。
外界からの刺激に対して、その場その場で反応するだけだった。
〇
放課後、カバンにノートをしまっていると、クラスメートの泉玲於奈が声をかけてきた。
「なによシケた顔して。可愛い顔が台無しじゃない」
「可愛いって言うなよ」
小柄で女性的な顔立ちをしている祐樹は女子から話しかけられやすかった。
「あーあ、あたしもあんたぐらい可愛ければ、今頃はモテモテのウハウハだったのにな」
「おまえはモテることしか頭に無いのか?」
「何いってんの、学生の本分は恋愛でしょ」
玲於奈は愛嬌のある丸顔をクシャクシャにくずして満面の笑みを浮かべる。
「そうなのか、だとしたら神さまって残酷だよな。なんで恋愛に興味のないおれに可愛い顔を与え、モテる気まんまんの玲於奈には……」
「その先を言ったら殺すわよ」
「だったらもう可愛いって言うなよな」
祐樹は彼女のおでこをポンと叩いた。
話を合わせて一緒にふざけることはできる。しかし心の中ではどこかさめていた。自分でも演技をしている感がぬぐえなかった。
「あーら、バカが教室で漫才の練習してると思ったら、あなたたちだったの」
芝居がかった口調で声をかけたのは伊集院鈴子だ。その名が連想させる通り、お金持ちのお嬢様である。父親はこの学校の理事長を務めている。
派手な顔立ちの美人だが、性格の悪さがたたって周囲から敬遠されていた。彼女の相手をするのは祐樹と玲於奈ぐらいのもんだ。
鈴子はあいている隣の席に腰掛けると祐樹に背中を向けた。
「ちょうどいいわ、疲れたから肩をもみなさい」
「肩を? まあいいけど」
祐樹は言われるままに肩に手を置こうとする。
すると、血相を変えた玲於奈がそれをはねのけた。
「よしなさいよ、何であなたが鈴子の肩を揉まなくちゃいけないのよ」
「このわたしの肩をもめるなんて幸運なことなのよ。一万円払ってでも揉みたがる男子が大勢いるってのに」
勝手なことをいう鈴子を無視して、
「ねえ祐樹、これからゲーセンに行かない?」
玲於奈が話しかけてくる。
「あーらゲーセンですって? 貧乏くさい遊びだこと」
負けじと鈴子が横から顔を出してきた。
「でも、どうしてもと言うんなら行ってあげてもよくってよ」
「だれも鈴子に聞いてないよ」
「ごめん、これからちょっと用事があるんだ」
断ち切るように言うと、祐樹はさっさと荷物をまとめて立ち上がった。
「用って、何?」
憮然とした表情で玲於奈が聞いてきた。
「ありさの――知ってるだろ? 天野ありさ」
「あっ、たしか中学のときの同級生だった……」
「そう、そいつの命日なんだ。だから……悪いけど」
祐樹は拝むように手を合わせ、いそいで教室を駆け出していった。
「天野ありさって誰?」
二人のただならぬ様子を見て、鈴子は珍しく神妙な顔で聞いてきた。
「ほら、二年前に修学旅行のフェリーが転覆事故をおこしたでしょう」
「ああ、女の子がひとり死んだって聞いたけど……」
「それが天野ありさ。今日はその子の命日みたい」
「その天野さんが祐樹の同級生ってことは、あいつもフェリーに乗ってたわけ?」
「そうみたいだけど」
玲於奈は心配そうに祐樹が出て行ったドアを見た。
〇
市内を見下ろす山のふもとに大きな墓地があった。
その敷地内で、祐樹は天野家之墓と書かれている墓石の前に立っていた。
墓の周りには真新しい花束やジュースの缶、菓子袋などが置かれていた。つけたばかりと見られる線香が静かに煙を立てている。
祐樹は持ってきた花束を添えて手を合わせた。
「御神楽くん」
名前を呼ばれて反射的に振り返ると、ありさの父親が立っていた。
「……どうも」
「来てくれたんだね、ありがとう」
「いえ……」
ありさの父はここ二年で急速にやつれていた。娘を失った悲しみがいまだに癒されいないようだ。人のよさそうな笑顔がやけに痛々しい。
「早いもんだな、もう二年にもなる」
「なんだか、あっという間ですね」
「そうだね……だけど……」
父親は急に肩を震わせると、ハンカチを出してそっと目頭をぬぐった。
「だ、大丈夫ですか?」
「御神楽くん、君には本当に感謝してるんだ。こんなにありさのことを思ってくれる友人を持って、あの子は本当に幸せだと思う……だけど」
「はい」
「だけど、いつまでも悲しんでいては駄目だと思うんだ。君はこれから君自身の人生を歩まなくてはいけない。ありさはもう帰ってこないんだ。いつまでもあの子にこだわっていたら、君は君自身の人生を歩めなくなる」
父親は祐樹にというより自分自身に言い聞かせているような感じだった。
「……そうですか」
「誤解しないでほしいんだが、ぼくは御神楽くんが大好きだ。いつまでもありさを忘れないでほしいと思う。でもね、そう願うのは親のエゴだし、そうさせては駄目なんだ」
「これはおれが望んでしていることです」
「わかってる。でも正直言って心苦しいんだ。君を見ていると、いつまでも一ヶ所に立ち止まっているように思えて」
「同じことを家族にも言われましたよ」
そう、今朝まったく同じ事を父にも姉にも言われた。現状から抜け出すべきなのは分かっている。しかし抜け出せそうにないという事も分かっている。
そんな胸の内を悟られないように、祐樹はせいいっぱい明るい笑顔を作った。
「やっぱそうですかねー、俺もそろそろ新しい一歩を踏み出してみようかなあ」
われながら白々しいと思ったが、ありさの父はそれを聞いてホッとしたようだ。
「なんか変なこと言ってごめんね。ぼくはもう帰るけど、御神楽くんは? 家まで送っていこうか……そうだ、これからうちの店で夕食でもどうかな?」
彼は繁華街でイタリアン・レストランを経営している。
「いえ、もう少しここにいます」
「そうか、たまには店に顔を出してくれよ。それじゃ」
手を振ってありさの父は去っていった。その背中がやけに小さく見えた。
遠ざかる彼の姿を目で追っているうちに、最後に見たありさのかたくなな背中が浮かんできた。祐樹の制止を振り切って船内に戻っていったありさ……
(あの日、俺がありさを強引にでも止めていれば、彼女は死ななかったんじゃないか)
祐樹の意識は二年前の修学旅行に飛んだ。