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大正時代 帝国主義、終わりの始まり

 日露戦争後も湯地丈雄は精力的に活動を続けていた。


 明治43年(1910年)、1月31日。


 帝国軍人たちの親睦会に湯地も出席することになった。齢62。


 元寇記念碑建設運動を通して活動的だったころに比べれば初老の落ち着いた雰囲気となっている。


 しかしその目には内なる闘志を宿し、誉れ高い薩摩武士の末裔だと会場の誰もが理解した。


「これは湯地殿。本日は遠路はるばるお越しいただきありがとうございます!」


「いやいや、肥後熊本ん城主・加藤清正ん300年祭となりゃあ、熊本藩士ん末裔としち出らんわけにはいかん」


 親睦会は加藤清正没後300年祭を記念したものになる。


 大日本帝国時代に称賛される武将はなにも鎌倉武士だけではない。


 明治期の軍人たちは近代兵器が主流となる西南戦争で落城しなかった熊本城を奇跡と称した。


 そのため堅牢な城を築城した戦国武将・加藤清正の加護によるものと信じて疑わなかった。


 この加藤清正信仰は帝国軍人を中心に広まり、半ば軍神という評価となっている。


「湯地さん、久しぶりだ。前より丸くなったな」


「乃木はん、ワシも年じゃ。こればかりはどうしようもなか」


 軍服をきっちり着込んで、姿勢正しく直立不動で語り掛けてきたのは乃木希典になる。


 年老いてもなお鍛え抜かれた引き締まった肉体は軍服の上からでもありありとわかる。


 一線を退き今は学習院で院長をしている。


 この二人は元寇記念碑建設運動の講演会で知り合い、そのときに「賢婦人」と称えられた湯地の祖母を尊敬していることを打ち明けた。


 歳か近かったこともあり、以来友情を温めていた。


「乃木さん。息子が作った蓄音機に一言でいいけん、声ん吹き込んじゃくれんか?」


 蓄音機は明治10年(1877年)にエジソンによって大々的に宣伝され、世界中に広まっていった。


 明治30年(1897年)頃には日本でも販売するようになる。


 そのころから蓄音機を自作する人々が現れた。


 湯地丈雄の息子である敬吾もそのうちの一人になる。


「よろしくお願いします」


「ほう、面白い。皆さん一緒に声を吹き込もうではないか」


 このとき「私は乃木希典であります」と蓄音機に吹き込んだ。


 その肉声はのちに「乃木将軍の肉声と其憶出」として発売され、現代にも残っている。


「乃木はん、来年もその次の年も変わらずお会いしましょう」


「そうしましょう。その時を楽しみにしております」


 しかし大正元年(1912年)に明治天皇が崩御すると、乃木は後を追うように自刃した。


 享年62。殉死。




 奇しくも同年(1912年)に辛亥革命によって清国も滅んだ。



 湯地丈雄は同僚の仇であり因縁深い帝国と、敬愛する天皇、そして友人までも同じ年に失い、深く悲しみに暮れた。


 目的を失ったのだろうか?


 湯地はそれまで精力的に活動していたのがウソみたいに、急速に老いやつれ、静かに息を引き取った。


 大正2年(1913年)に死去。




 ――同年、九州。


 九州帝国大学附属病院、その一室に矢田一嘯が入院していた。


 何人かいる弟子たちが近況を報告している。


「湯地が……先に云ったか……」


 体はやつれ、すでに起き上がることもできない。


 彼は胃がんを患い、余命数か月を宣告されていた。


「菊池容斎先生に弟子入りしてから…………あの人も元寇の絵を……そして九州でも元寇……長かったなぁ……」


 彼の人生は元寇と共にあった。


 日本絵師である菊池容斎に師事したとき、彼は自らの作品を手本にする――というような真似はしなかった。


 各生徒たちが思い思いに書いたものを評価するだけにとどめた。


 その教育方針のおかげで矢田一嘯は日本画からパノラマ画へと柔軟に画風を変えることを可能にしたともいえる。


 それでも師の描いた作品を食い入るように見て、その技をものにしてきた。


 今でも目をつむれば師が描いた蒙古襲来図を鮮明に――あの時の童心にかえって思い出せる。


 元寇の地である博多では、博多人形の発展に力を入れた。


 そして……湯地さん……。


「……ほんとうに……鎌倉と縁のある……じんせい…………」


「……先生? 先生!?」


「先生、しっかりしてください!」


「先生!」「先生!!」


 鎌倉武士の末裔に弟子入りし、鎌倉武士の末裔を弟子として、元寇決戦の地で鎌倉武士を描き続けた。


 奇異な画家、矢田一嘯。


 湯地丈雄と同じ年に死去。





 ――翌、大正3年(1914年)。


 永井建子はいまだ軍楽隊に所属していた。齢49歳。


 役職は任陸軍一等楽長(大尉相当官)という軍楽隊の最高位になる。


 彼は軍楽隊の練習風景を眺めながら、どこか心ここにあらずという雰囲気だった。


 同僚の一人が「永井殿、どうされましたか?」と尋ねた。


「来年。私の停限年齢になる」


 大日本帝国軍にも定年制のようなものがあり、それを停限年齢という。


 陸軍では中尉が45歳、大尉が48歳、と位が上がると少しずつ伸び、大将が65歳で停限年齢を迎える。


 元帥だけは終身職となる。


 一等楽長は将校相当官という一等主計、一等軍医などと同じ特殊技能の軍人だ。


 そのため大尉相当官であるが若干停限年齢が長く、50歳まで軍属として働ける。


「最近、50になってから何をするべきか……何ができるのか考えるようになったのだよ」


「それは……乃木閣下の影響ですか?」


 明治天皇が崩御し、後を追うように乃木希典が殉職した。


 その衝撃は永井建子にも深く影響を及ぼした。


「あの人とは日清戦争のとき、第2軍で共に戦った上官だ」


「第2軍……雪の進軍ですね」


 同僚は永井建子の代表作「雪の進軍」が第2軍の苦難を歌ったものだと思い出した。


 この歌が発表されると現地将兵たちの絶大な人気を博した。


 第2軍司令官である隻眼の大山(いわお)にいたっては愛吟し、蓄音機でこの歌を奏でさせているという。


 ともかく第2軍の上官たちが現役のころは永井建子は何かと目にかけもらい、彼らの期待に応えようと努力してきた。


 永井の希望もありフランスに使者として差遣(さけん)されると、リヨン連隊軍楽隊付となる。


 そして恩師であるシャルル・ルルーと再会し、そこで吹奏楽研究に没頭する。


 日露戦争時には稀有な才能を戦地で散らせるのは惜しいとして陸軍戸山学校軍楽生徒隊教官となる。


 このときから一部では先生と呼ばれるようになる。


 明治43年(1910年)には日英同盟記念親善博覧会に育て上げた軍楽隊35名とともに参加。


 この軍楽隊に対して最優秀賞が送られる。


 さらに永井建子個人にはイギリス王室のアーサー・オブ・コンノート親王殿下から記念指揮杖を下賜された。


 その翌年には明治天皇に単独拝謁もした。


「私は大山閣下や乃木閣下の――軍での期待に常に応えてきたつもりだ。幼く貧しかった私をここまで育ててくれたのはあの二人であり軍だからだ。だから今後は――父の期待に応えようと思う」


「父親の、でありますか?」


「ふっ、私の名前の建子の子は老子や孫子と同じ尊称――つまり先生という意味になる」


「――っ! それでは以前から話のあった軍楽教師になられるのですね!」


「そうだな。まずはそこで教職に就くことから始めようと考える」


 そこへ血相を変えた若手士官が走り回っていた。


 不審に思い、声を掛ける。


 永井に気づくと敬礼した。


「し、失礼しました!」


「慌ただしいな。何事だ?」


「ハッ! 欧州で、欧州で大規模な戦争が始まったようであります!」


「なんだと!?」



 大正3年(1914年)、世界大戦が勃発した。


 そして、この時から大日本帝国と帝国主義の終わりが始まる。


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