明治期元寇 神風
第十三幕 神風
7月末日。
朝廷では天候の急変を感じとった。
「風が強くなった。ついに我らが奉りまする風の神々が顕現あそばされたのだ」
――カッ!
「――ッ!?」
その時、雷鳴が轟き、大嵐の――神風の到来を告げた。
付き人たちが沸きあがる。
「おお、ついに、ついに神風が来る――天の怒りが敵を討つぞ!」
朝廷は勝利を確信した。
――鷹島沖。
すでに元寇防塁での戦いは終わり、敵の船団は鷹島沖へと移動していた。
この地で江南軍と合流するためだ。
明治期には「八幡愚童訓」の記述が影響もあり、すべての敵船は終焉の地――鷹島へと移動している。
東路軍、江南軍問わず4千をこえる船が海面を埋め尽くしている。
大風に船団は揺れに揺れ、その舵を取ることができなくなる。
刻々と海の表情は変化し、悪化の一途を辿っていく。
この日の夜も河野有通率いる武士たちが襲撃しようと画策していた。
「河野殿! 大風がどんどん強くなってます! 今日の襲撃は止めましょう!」
「ちっ、残念じゃが仕方ないな」
河野通有は悔しそうにした。
どれほど怪我をしようと彼はまだまだ戦い足りなかったからだ。
「この日本刀に奴ら蒙古の血を十分に吸わせられなかった。それが本当に残念でならん!」
それを聞いた武士たちは「さすが後築地の河野通有」と称賛した。
彼の勇猛果敢な戦いぶりはのち大正5年に正五位を追贈されるほどである。
武士たちが見守る中、嵐が直撃した大船団はあっけなく瓦解していった。
それを見ていた武士たちが歓声を上げる。
「見ろ。天は怒り、海が逆巻いているぞ!」
「東風だ。東風が凄まじい!」
「神風だ。神風が我らを救って下さったのだ!」
天の裁きが国に仇をなす10万の蒙古勢を海の底へと引きずり込む。
山脈のようにそびえたつ大波に船が一隻また一隻と沈んでいく。
帆柱にしがみつく蒙古兵はこのようの終わりを悟った。
敵船団は海の藻屑となり、神風がすべてを消し去る。
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この神風によって敗残兵はただ3人のみとなった。
第十四幕 戦いの終わり
大元帝国、首都で勝報を待っていた皇帝に届いたのは艦隊の全滅だった。
「これはどういうことだ!!」
皇帝クビライの怒声は王宮の隅々にまで響きわたる。
腸が煮えくり返るほどの怒りを抑えることができなかった。
「すぐに第三次遠征を計画せよ」
「お待ちください。船を造る材木は不足し水夫もいません。ここは民の気力が回復するのを待ち、2、3年後に遠征をしても遅くはないでしょう」
その後も高官たちが説得をした。
「……マルコ・ポーロよ。おぬしはどう思う?」
「はい、侵略戦争は損得で行うべきこと。以下に莫大な金塊が眠っていようと、運び出せなければ損になりましょう。時期尚早です」
まさに損得勘定で物事を考える商人らしい答えだった。
皇帝も振り上げたこぶしを静かに下ろす。
「手今は治世に力を入れよ」
ついに皇帝も遠征を断念することにした。
「かの国の執権、たしか北条時宗と言ったな。此度の戦争の采配、見事だと認めよう」
――だが、この屈辱忘れることはないぞ。
その後、大元帝国では思い出したかのように遠征計画が持ち上がるが、そのたびに実現性の困難から中止することとなる。
事実上、大元帝国との戦争は終わったのだ。
――鎌倉。
戦いの勝利は鎌倉にも伝わる。
「我ら鎌倉武士に敵はない!」
「そうだとも、次こそは我らが大陸に打って出るべきだ!」
だが北条時宗はこの流れを止めた。
「待つのだ。此度の戦で最も被害のあったのは九州、それも対馬だと聞き及んでいる。まずは戦乱からの復興と国土防衛を優先するべきだ」
「……なるほど、時宗様のおっしゃる通りでございます」
「むむむ、致し方ございませんな」
「では、そのように手配いたしましょう」
時の執権、北条時宗は更なる戦争よりも内側の問題に尽力することにした。
「……ゴホッゴホッ……この目が黒いうちにすべて解決すればいいのだが……」
北条時宗はその後2年間は国防を強化することに努めるが、志半ばで病に伏せる。
北条時宗の国防精神はのちの代にも引き継がれ、元寇防塁は鎌倉幕府が滅亡する日まで保守と増築が繰り返された。
のち明治時代に大元帝国皇帝クビライの野望を阻止したことが高く評価されて従一位を追贈される。
――対馬。
夕暮れの戦場跡地に戦没者たちの遺族がさまよっている。
ある人は戦死した夫を探す未亡人、またある人は慕っていた父を探す孤児。
彼らのすすり泣く声がとまることはなかった。
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湯地丈雄が戦争の惨たらしさを象徴するこの絵を最後に持って来たのは国防意識を人々に植え付けるためだ。
幻灯機から映し出される画像を見せながら、彼は国防を疎かにしたらいつかこのような日が来ると訴えたのだ。
その思いは明治20年(1887年)に工事が始まった「対馬要塞」、そして大正時代の軍縮期には戦艦の巨砲の再利用した「壱岐要塞」の建設へとつながる。
まさに物語が現実に影響を及ぼしたと言える。
大日本帝国期の「元寇」その最大の特徴は「対馬以外の島々には一切の上陸を許さなかった」、「神風によって敵は全滅した」という2点に集約される。
例えば大正時代に行われた歴史上の偉人への追贈を記録した「贈位功臣言行録」が好例である。
この書には少弐景資や竹崎季長などの追贈について略歴が書かれている。
その略歴の中で武藤資時(少弐資時)が19歳という若さで壱岐島での防戦の将となっていた。
この防衛戦の最後の締めの下りは、
――『資時血戦して討死す。資時は討死したれど、我軍遂に克ち、壱岐は寸土をも侵されず、敵艦隊は博多宗像の沖へ押向ひ、志賀能古の二島に拠る』――
、という具合に壱岐島への上陸を阻止したことになっている。
ほかにも志賀島、鷹島など各島へも上陸できずにその近くに拠って停泊したことになっている。
このように決して小さくない、むしろ戦略レベルでの歴史認識の変化が生じた。
この明治時代には歴史――というより神話に疑問を呈することはできなかった。
例えば抹殺博士と呼ばれ、実証主義者を自認する重野安繹は「太平記」や「大日本史」など幕府が編さんした歴史書は信じずに批判的であった。
しかし一転して「古事記」や「日本書紀」という神話に対しては敬い批判しないというダブルスタンダードでもあった。
これは幕府に反感を持ち、尊王思想で物事を判断する維新志士たちの特徴ともいえる。
実証主義者であっても不可侵の聖域が存在したのだ。
とある講演会の会場で万雷の拍手が響きわたる。
そして誰が言うでもなく軍歌を唄う。
「四百余州をこぞる十万余騎の敵~」
「四百余州をこぞる十万余騎の敵~」
「四百余州をこぞる十万余騎の敵~」
軍歌元寇だ。
湯地丈雄の公演は連日満員御礼という状態になっていた。
どの地方に赴いても人々が詰めかけ、そして元寇の物語に熱狂した。
元寇公演は農村、小学校、軍施設、果てには監獄にまで及んだ。
記録されてる限りで、聴衆者はのべ100万人に及んだとされている。
大日本帝国の人口約4千万ほどのこの時代において、この人数は次世代の若者の大半と国防の要である主要な人物のほとんどに聞かせることに成功したと言える。
公演以外でも元寇パノラマ館、書籍全般、そして教科書。
この国で元寇を知らない者はいなくなっていた。
会う人会う人が皆、称賛する。
湯地は最初誰も見向きをしなかったこの運動が、国を大衆を動かしたことに万感の思いとなった。
やっと神風の登場です。
本当はもっとエピソードを盛って書こうかとも思ったんですが、さすがにおおむね同じストーリーを3回も4回も描写してもつまらないので、特徴的な部分のダイジェストになっています。
もしかしたらこの作品は改訂版追っかけ小説なのかもしれない。
1年に1回改訂版を出すと仮定して600回もの改訂によって、ほぼほぼ皆さんが知っている元寇に近づいたような気がします。
ええ、ほんと歴史ってすごいですね。(目を逸らしながら)




