明治期元寇 弘安の決戦
第十一幕 上陸戦
福岡に長大な石築地を築いたのは700年以上前の鎌倉時代になる。
この石築地を「元寇防塁」と命名したのは大正4年(1915年)になってからだ。
命名者は中山平次郎。
明治後期から昭和まで活躍した考古学者になる。
歴史家ではない、考古学者だ。
考古学は明治初期に古いもの好きという「好古」と呼ばれていたのを、古いものを考察する「考古」という学問へと――近代化した。
いわば比較的新しい学問になる。
当初の考古学の範囲は歴史書になっていない時代区分、つまり先史時代、青銅器時代、鉄器時代などになる。
ようするに明治期の考古学は主に貝塚などの古代人類生態調査が主だった。
このため当時の考古学は歴史学の一分野であるが、接点が非常に少ない別分野という認識だった。
湯地丈雄や矢田一嘯が活動するときは「元寇防塁」の名称はまだなかった。
実物があっても研究が進んでいない分野で、たびたび起こるのは極端な誇張あるいは矮小化である。
そのため矢田一嘯の初期の元寇防塁は5メートルを越える万里の長城と化し、戦いの勝利に多大な貢献をしたことになっている。
しかしロシアの南下政策の脅威が強まるにつれて、防塁の後ろに身を隠す武士というのが時代に合わなくなっていった。
――弘安4年夏の頃。
「蒙古が来た!」「再びやってきた!」「北から来た!」
空と海の切れ目を埋めるような大船団が現れた。
この軍勢には南宋の残存兵を脅して船に乗せて、水増しされている。
四百余州(中国全土)からこぞって来た敵兵は十万余騎。
その海を埋め尽くす大船団から上陸艇が漕ぎ出した。
「くるぞおお!!」
多々良浜辺で待ち構えるのは日ノ本の男児。鎌倉男児である。
総大将である北条時宗はすでに肝が据わっていた。
「正義は我らにあり、武断をもって国防に努めよ。奴らこそ戎夷ぞ、その名は蒙古勢!」
鎌倉に構える北条時宗は一喝した。
「応ッ!!」
それは遠く離れた九州の武士たちを鼓舞する。
「先の戦いの傲慢無礼な蛮行は、ともに天を戴けず――不俱戴天の仇である!」
「応ッ! 応ッ!!」
「進め! 進め! 忠義に鍛えし我が同胞たちよ! 今こそ国のために日本刀を試す時だっ!!」
「応ッ! 応ッ! 応ッ!!」
時宗に応え忠義を示す。
恐れる武士は一人もいない。
「来たぞぉぉ!!」
「うおおおお!!!」
「矢を放てぇ!!」
元寇防塁から無数の矢が放たれた。
大元帝国のモンゴル兵たちが矢雨の中を漕いで浜辺へと押し寄せる。
そんな中、武士の一団が元寇防塁の前に陣を構えていた。
「来たぞ! 我ら河野一門は石築地の後ろに隠れたりはしない!」
「応ッ!!」
「皆、抜刀せよ!!」
「抜刀っ!!」
河野の後築地は、いつしか防塁を背に戦う男の中の男、鎌倉男児の象徴となっていた。
「河野に後れを取るな!!」
「全員前に出ろ!」
河野氏という少数の豪胆な行動が、いつしかすべての武士たちかのようになる。
河野を筆頭としてすべての武士が一気に浜辺へと勇みでた。
「突撃ぃ!!!」
「うおおおおおおおお!!!」
河野の旗が戦場になびく。
それを旗印に河野通有が騎馬に、一門衆が徒歩で上陸し始めた敵勢に突撃を開始した。
上陸部隊に交じっていた南宋人はその勇ましさに感激し、毒矢の使用を恥じた。
彼らも得物を片手に前に上陸艇から躍り出た。
ここに弘安の役の一大決戦、博多上陸戦が始まった。
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弘安の役最大の決戦に勝利したのは鎌倉武士だった。
「見ろ! 敵が退いていくぞ!!」
「亀山上皇バンザーイ! 北条時宗バンザーイ!」
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
非常に残念なことに、この日本史上最大の上陸戦――その激戦の痕跡は現存する元寇防塁には残っていない。
博多の近代化の際に元寇防塁の大部分は撤去されてしまったからだ。
湯地丈雄は鎌倉武士たちの護国の物語が近代化と炭鉱開発によって破壊されていくのを黙っていられなかった。
つまり彼の活動は護国精神の醸成だけでなく、近代日本で初期の遺跡保護活動でもあった。
第十二幕 奇襲攻撃
頼山陽の「蒙古来」、永井建子の「軍歌 元寇」、どちらもその題名に反して一人の武士の活躍の物語である。
その武士の名は河野通有。
北条時宗、少弐景資などを差し置いて彼が選ばれた。
その理由は不明だ。
もしかしたら広島藩出身者である頼山陽が、安芸国(広島藩)の英雄が不在なのを嘆き、代わりに瀬戸内海を挟んだ伊予国の河野通有に親近感が湧いた――というのが実情かもしれない。
あるいは承久の乱で勝利した北条氏が朝廷の権力を奪ったこことに対して、尊王家として思うところがあったのかもしれない。
ともかく頼山陽は河野通有を中心におき「蒙古来」を残した。
永井建子はこの「蒙古来」を基に「軍歌元寇」を作詞した。
そのため江戸後期から明治期の元寇の英雄、その一人は河野通有となる。
敵が海上に撤退して、ひと段落着いた。
武士たちが勝利に酔っている中、一人駆け出す男がいた。
「見ろ! 河野だ。河野通有たち一門が捨てられた上陸艇に乗ったぞ!」
「まさかこのまま単独で敵船団に打って出るのか!」
動いたのは河野通有だ。
「一族郎党、全員船に乗り込め!」
「応!」
「筥崎宮にて神に誓いし起請文、その誓いを守りし時が来た!!」
「押せぇ! 押せぇ!」
敵船二艘でもって海に出る。
すでに日没である。
これは闇夜にまぎれた奇襲になる。
河野通有は、こころを筑紫の海に、波を押し分けてゆく。
荒波に負けぬ益荒男猛夫たちの思いは一つだった。
「先の戦いの仇を討ち、帰れぬのなら死して護国の鬼となる。抜刀!!」
「おっしゃああああ!!」
河野一門は沖合の敵船に近づくと、帆柱を切り倒して、梯子のように登っていく。
上陸作戦に失敗して休息に入っていたモンゴル兵の虚を突いたのだ。
躍り出た河野通有は敵兵をなぎ倒し、そして敵将を捕えた。
「敵将捕えたり! 勝鬨をあげよ!」
「えい、えい、応っ!!」「えい、えい、応っ!!」「えい、えい、応っ!!」
河野通有たちは敵船に火を放ち、そのまま闇夜にまぎれて撤退した。
通有たちによる奇襲によって元帝国は次の上陸作戦を実施できなくなった。
この一連の活躍により河野通有は大正5年(1916年)に正五位を追贈される。
明治期元寇にはもう一人、英雄がいる。
それが「竹崎季長」になる。
彼は寛政5年(1792年)頃、に再発見された「蒙古襲来絵詞」を老中松平定信が模本したことで世に広まった。
そして江戸末期になって前後巻の絵巻物へと作り直された。
それからさらに時を経て、明治23年(1890年)に大矢野十郎が明治天皇に献上して現在に至る。
再発見当時は絵巻の正しい順番がわからず、「八幡愚童訓」のように文永の海戦という扱いもあった。
そこから東洋史学、日本史学の進展にしたがって弘安の役の海戦へと戻ってきた。
「河野に先ば越された、ばってん海でも活躍せねば北条時宗さまに顔向けできん」
「河野だけに手柄を取られるわけにはいかん。我ら大矢野兄弟も共に行くぞ」「応よ!」
そう言い、河野に負けじと筑紫の海へと大矢野兄弟と共に出る。
「見ろ! あっちで河野が船に火をつけたぞ!」
「流石は伊予の勇者だ!」
「後れば取りなすな! まずはワシが先にゆき敵ん注意ば引き付くる。そん間に後ろから奇襲するばい!!」と竹崎が大矢野に奇襲計画を打診する。
「よいだろう。我ら大矢野兄弟は裏手から行くぞ!」「応よ!」
大矢野が了承した。
「ゆけぇ!」
竹崎季長たちは河野通有に続いて敵船に奇襲を仕掛けた。
波が荒く矢が当たらない中、使える武器はただ一つ、日本刀のみ。
国家存亡をかけた竹崎季長たちの死闘が始まった。
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鎌倉武士たちの奇襲は昼夜問わず何度も成功させた。
そして戦いはこれ以上語られることはない。
「八幡愚童訓」がそうであったように、この明治期には風神と朝廷の威光を前面に押し出す必要があった。
そのため志賀島攻防戦、壱岐島奪還戦、そして鷹島追討戦が歴史の闇へと消えていった。
物語は決められた結末に向けて一気に収束していく。
世の中いろいろありすぎて、執筆する気力が削がれる。




