明治期元寇 亀山上皇
第九幕 亀山上皇の祈祷
石清水八幡宮は京都御所のはるか南、桂川(鴨川と合流済)と宇治川、そして木津川の三川が合流して淀川となる合流地点。
その近くの男山の山上にある。
ちょうど京都と大阪――2府の境に存在する。
朱色に彩られた絢爛豪奢な佇まい。
それでいて気品漂う造りは訪れた人々を魅了する。
まさに三大八幡の名にふさわしい社になる。
この八幡宮は「石清水八幡宮護国寺」と称する、まるでお寺のような立ち位置の時代があった。
しかし慶応4年の神仏分離令により、神号を「八幡大神」に、さらにのちの明治2年に「男山八幡宮」に改称された。
ついでに護国寺などの仏教要素は文字通り棄寺にあう。
誰もが知っている「石清水八幡宮」へ社名を復したのは大正になってからである。
そのため明治期には僧侶たちがまるで初めから居ないかのように、この石清水八幡宮から姿を消していた。
時空を超えて、文永の役後の石清水八幡宮も護国寺という要素はすっかり消えていた。
代わりに普段の倍以上の神官や公家たちが神事の準備をしている。
彼らは亀山上皇の石清水八幡宮、御参拝の準備をしていた。
亀山上皇、建長元年(1249年)に生を受け、諱は恒仁であらせられる。
正元元年(1260年)に第90代天皇に即位して、文永11年(1274年)まで在位していた。
文永の役はちょうど譲位した年になる。
そのため役後ならば亀山上皇である。
この時代の上皇は「治天の君」と呼ばれるように政務の実権を上皇が有していた。
それでも天皇との違いをはっきりと示さなければならない。
そうでないと権威が損なわれるからだ。
その違いがわかる最たるものが京都御所から仙洞御所へ移ることだろう。
そこは天皇のおわす京都御所内裏よりも一回り小さい御所と言っていい。
また権威が損なわれないように上皇は内裏へと足を踏み入れてはいけないことになっている。
亀山上皇は畏れ多くも、文永の役によって戦火に巻き込まれた無辜の民に心を痛められた。
そこで御自ら石清水八幡宮に参拝あそばされた。
「一つよいか」と亀山上皇は側近に話しかけた。
「亀山上皇のお言葉、御拝聴~」
皆がうやうやしく敬服して、耳を傾ける。
「そこまでする必要はないと思うのだが…………こほん、朕は神楽の中でも秘曲「宮人」の舞を見るのではなかったか?」
「まことに残念ながら、戦の最中に神楽を鑑賞していた、というのはあまり宜しくないので、戦乱が始まる前に行った降伏祈願を前面に押し出すことになりました」
「そうなると、朕がせわしなく祈祷するという――それは上皇らしからぬと思うが、それでよいのか?」
「致し方ありません。これも時代の流れにございます」
尊王思想の影響はすさまじく、「八幡愚童訓」に書かれている内容のうち、不適切と思われる個所はすべて抹消されることとなった。
この石清水八幡宮参拝もその影響である。
だが、この歴史上の出来事をできる限り亀山上皇に集中させる行為はやはり議論を呼んだ。
例えば大正時代には、治天の君である亀山上皇と天皇位である第91代後宇多天皇の父子どちらが祈願をしたのか歴史学者の間で大論争となった。
言うなれば皇国史観派と史料合理派の論争ともいえる。
この歴史家たちの論争――その決着を待たずして歴史が語られるのは世の常ともいえる。
つまり明治期から大正期の論争は結論を待たずして、やはり時空を超えて亀山上皇の日々の活動にまで影響をあたえた。
つまり非常に忙しいのである。
「ところで、こういったことは叡尊がおこなうのではないか?」
「それが……廃仏毀釈の影響で、叡尊殿は動けません」
叡尊、「八幡愚童訓」でとくに描写の多いこの僧侶はまるで最初からいなかったかのように歴史の闇へと消えていった。
「叡尊殿も苦労しているのだな」
「これも世の流れであり民に寄り添うのも上皇さまの役割にございます」
「…………それもそうか。これもまた諸法無我ということか」
諸法無我、それは仏語であり、諸行無常と並んで三法印の一つになる。
その意味は、この世の全ては因縁によって生じたものであって、実体性がないという考えである。
亀山上皇は悟りの境地を垣間見た気がした。
――閑話休題。
亀山上皇は石清水八幡宮に参拝して、それから内裏へと戻られた。
本来なら仙洞御所へと戻るのが普通である。
歴史上も上皇が内裏へと入ったのは後白河上皇など限られている。
しかし、仙洞御所とは内裏よりも一回り小さくなければならないという決まりがあった。
これも権威を維持するための方策である。
そのため、見栄えば悪かった。
明治期の国威発揚の観点から、それは許されなかった。
そのため亀山上皇はまるで天皇かのように内裏へと帰られた。
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第10幕 伊勢参り
弘安4年(1281年)、ついに大元帝国が攻め込んできた。
朝廷はその知らせを聞き、直ちに勅使を派遣した。
勅使に選ばれたのは二条 為氏大納言である。
すでに60歳を越える老人であるが、これほどの大役は広橋兼中中納言(広橋賢光伯爵の先祖)など若手に任せることができなかった。
彼が訪れた場所は京都より南東に位置する、今でいう三重県伊勢神宮である。
伊勢神宮――この神宮はほかの神社とはちがう、特殊な神宮になる。
まず正式な名称が「神宮」であり、伊勢神宮というのは他と区別するために地名をつけた通称にすぎない。
明治期にはすべての神社の上に位置する神社として、社格から外されたことすらある。
まさに別格の神社である。
この神宮を訪れたのは他でもない。
祈祷だ。
国難に際して朝廷が決断したのが、八百万の神々に日本を救ってもらうことだった。
「お待ちしておりました」
すでに宮司、神官、巫女と伊勢神宮総出で出迎える。
そこにやはり僧侶の姿はない。
「事前に連絡してある通り、伊勢神宮さらには朝廷の総力をあげて祈祷を執り行う」と大納言がいう。
「畏まりました。それでは二条さま、八百万の神々への祈祷を執り行います」
「いや、祈祷するのはただ二柱、風神社と風社に対してのみである」
「――っ!?」
大納言二条 為氏が小声で宮司に言う。
「よいか。八百万の神々すべてに対して祈祷したとなると、自暴自棄になって神頼みをした、という印象になってしまう」
「し、しかし、豊穣の神が国を守るとは到底――」
「嵐が来る――この大納言二条 為氏の言葉が信じられぬというのか?」
「い、いえ、そのようなことはございません」
風神が祀り上げられるのは、元寇での勝因が大嵐だった、ということになっている。
明治期には八幡菩薩の神通力という俗説は否定され、ドイツ式の科学的な分析からも台風が勝因だと導き出された。
ただし、弘安の役で長期間上陸を阻止した武士の活躍が大前提である。
この科学的な事実が時空を超えて鎌倉時代の朝廷の動きにも影響を及ぼした。
つまり、勝利するかもわからない段階で風神・「級長津彦命」と「級長戸辺命」の男女神にたいして祈祷することが決まったのだ。
護国祈願のための準備が着々と整う。
伊勢の内宮の前に身分の高い宮司、神官が集まり、祈祷が始まった。
彼らは皆、身を清め、白装束姿だった。
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こうして軍事では垣楯が添え物として消え去り、弓矢八幡を信仰する武士から弓矢が消え去った。
そして異国討伐大将軍北条実政も消え去り、何十日もお経を読む叡尊と門下の僧侶数千人も消え去った。
さらには八百万の神々に対する祈祷も、いつしか結末を知ってるかのように二柱への祈祷へと変わり果てた。
簡略化である。
明治政府の、あるいは湯地丈雄の意思により、わかりやすい物語へと改変されていった。
不変の実体などこの世に存在しない、まさに諸法無我である。
そして弘安の役もまた変わっていく。
諸法無我は説明しずらいのですが、諸法無我カレーで調べるとおおよその仏教感が理解できる不思議。
明治後期は基本的にプロパガンダ全振りのため、対抗するように皮肉全振りになってます。
元寇は時代が進むにつれてギャグ化するからしょうがない。
絵については、
出典:うきは市 元冠の油絵 本仏寺
URL
https://www.city.ukiha.fukuoka.jp/kiji0035107/index.html
作者:矢田一嘯




