明治期元寇 鳥飼潟決戦
第五幕 壱岐島の悲劇
勢いに乗じた敵兵は更に壱岐に攻めこんだ。
数の暴力だけではない。
毒矢を大量に使い戦えば戦うほど、武士が倒れていった。
守護代 平景隆は奮戦するも力及ばず、籠城した城でただ死を待つのみだった。
――ドドーン!
「――っ!?」
城壁はてつはうによって破壊され、そこら中からモンゴル軍が押し寄せてくる。
「抜刀! 御屋形様のために最後の一兵まで戦うのだ!」
「おうっ!」
寡兵でもって勇敢にも戦うが、敵を近づけないのが精一杯という状況。
「敵はすぐそこまで迫っています。このままではじきに包囲されましょう」
「うむ、皆覚悟はできておるな」
「はい、お先に逝きます」
平の一門はみな手に刃を持ち、次々と自害していく。
捕まり、ひどい拷問の末に殺されるのなら、一思いに自刃することを選んだのだ。
「宗三郎はいるか!」
「景隆様こちらに!」
「よく聞け、お主はこれより蒙古襲来を太宰府に伝えるために島を出るのだ」
「なぜですか、私一人おめおめと逃げろというのですか!?」
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景隆は自らの腹に刃を立てながら言う。
「一人ではない。姫御前を連れていくのだ」
「姫を……わかりましたっ!」
宗三郎は涙をのんで駆け出した。
「決して振り返るな。何があっても太宰府へ行くのだ!」
宗三郎は姫御前を連れて、城を後にする。
二人は開けた田畑を通るとたやすく見つかると思い、深い森の中を通って南へ南へと突き進む。
しかし、追手に見つかり、一本の矢が姫御前に刺さる。
「あぁっ……」
「姫っ!?」
宗三郎は姫を担いで逃げる。
追手に捕まるか否かという、その時――。
「こっちに来た!」
「に、逃げろっ!!」
ちょうど洞窟の中に逃げ隠れた島民たちが這い出て逃げ出した。
追手は島民に気を取られ、そちらを追いかけていった。
窮地を脱した宗三郎は山中の岩陰に身を隠す。
「姫、大事ありませぬか」
「はぁはぁ……これは毒ですね……」
顔色が悪く、すでにぐったりしていた。
毒が回っているのだ。
「今、矢を抜き、薬草を見つけてきますから――」
「……私のことはいいので、国のために行ってください」
そう言って姫御前は自刃した。
「姫!?」
「…………行くのです……」
首に突き刺した短刀から血が流れ、そのまま息を引き取った。
「行かねば……振り返る暇などない……」
宗三郎は対馬と同じく阿鼻叫喚となる壱岐島を駆け抜けて脱出した。
その後、太宰府に壱岐島陥落の報が届いた。
宗三郎の情報は対馬よりも有用だった。
敵は毒矢とてつはうを使い襲ってくる。
博多の武士たちは覚悟を決めて、敵の襲来に備える。
その2日後に敵船が現れた。
第六幕 博多沿岸の戦い
モンゴル軍は深夜に博多湾へと渡洋上陸作戦を開始した。
敵軍は毒矢、火薬兵器「てつはう」、そして圧倒的な兵力差でもって湾岸守備兵を駆逐していった。
そして西部より室見川、百道原、麁原山と次々と攻略していき、ついに博多と箱崎へと怒涛の勢いで流れ込む。
対する日本軍は博多息の浜に終結して、迎え撃つ。
「肥の大将から連絡であります」
「バカ者、肥の大将ではない。日ノ本の総大将だ!」と白石通泰が叫ぶ。
「し、失礼しました!!」
当時、肥国(肥前、肥後両方の意)の大将だったのが少弐景資になる。
しかし明治期には国家史観が――皇国史観と呼ばれるものに移行していくと、日の大将のように同音異義語の名称へと変化していった。
転じて、少弐景資があたかも日本国軍の総大将かのようになっていった。
「そいで報告とはなんじゃ」と白石通泰が聞いた。
「はっ、敵軍の第一陣を菊池武房隊が撃退、今のうちに体勢を立て直して迎撃せよ、とお達しです」
「竹崎季長殿どうすると?」
「ばってん、ここで待っとっても勝つるわけやなか。先陣ば切って敵ばなぎ倒し、味方ん士気ば高むるべきじゃ」
それならば抜刀突撃になるだろうと、郎党たちが刀を手に取り、次の指示を待つ。
「ほんそから伝令であります。竹崎隊は赤坂まで前進せよ!」
「おう、者共いくぞ!」
「えい、えい、おう!」
竹崎隊が先陣を切る。
「そして白石隊は竹崎隊を後方からの支援をせよ!」
「あい分かり申した、全隊竹崎の後ろに付けっ!」
「おう!」
近代以降の戦場は変わった。
かつての鎌倉武士たちは垣楯を背負い、あるいは手に持ち、前線に並べて矢戦をする長期消耗戦が主流だ。
重厚な鎧と矢を弾く垣楯をそろえ、横一列に並んで戦線を作ればそれでいい。
敵がおよそ100メートル圏内に近づけば矢で射る。
敵も損耗を抑えたいので重厚な鎧か楯で防ぎながら前進する。
そうなると互いに被害を最小に抑えながらじわじわと矢戦をすることになる。
目に見えて兵が少ない戦線があれば、付近の武将が郎党を従えてそこに入り矢戦に加わる。
近代戦と比べれば非常にゆっくりと戦いが進行する。
このため高麗史金方慶伝には「及暮乃解」と書かれるように夕暮れまで一進一退の攻防が続くことになる。
つまり戦闘に関する共通認識さえあれば、あたかも集団戦のごとく秩序だった戦闘が可能になる。
この膠着しやすい戦場を一気に動かすのが騎兵になる。
騎兵が側面あるいは矢が尽きた正面に一気に攻め込み、敵が撤退すれば戦いに勝利できる。
そうなると戦況を覆せる騎兵対策さえ万全ならば「応仁の乱」のように10年以上も勝敗が決まらない戦いが続くのも当然と言える。
対して近代以降の軍隊は変わってしまった。
装備の軽装化と物資搬送――鉄道網の普及に伴い、戦場は高速化の一途を辿った。
そして圧倒的な貫通力の銃と、それを大量に配備する生産力。
一発で集団をなぎ倒す大砲と、それに抗するために程よく間隔をあけた散兵展開。
戦場をラッパ騎兵が走り回り、ラッパ信号を送る。
これらを組織的に運用する参謀本部と大量の指揮官。
近代戦では組織的な戦闘をし、一度の会戦で勝敗を決するように心がける。
日清戦争では、陸戦は旅順の砲台を迅速に襲撃して速やかに戦いを終結させる。
海戦も艦隊決戦主義と言われるように決戦によって一網打尽することが主流となる。
この近代の戦いが――鎌倉武士たちにも影響を与えた。
つまり、垣楯は添え物であり、重厚な鎧は紙のように軽く、兵たちは軽やかに戦場を闊歩する。
中世と近代が入り混じった、誰が見ても違和感のない戦場がそこに出現した。
――ドン、ドン、ドン。
小高い丘の上から銅鑼が天を揺るがすように鳴り響く。
その振動に呼応するように敵兵たちがオウッ!、オウッ!、オウッ! と叫びながら前進する。
日本よりはるかに大きな大旗を翻しながら、まるで津波のように蒙古兵たちが押し寄せてきた。
その光景に鎌倉武士たちが武者震いした。
「全員抜刀せよっ!!」
「おおっ!!」
武士たちの目に恐怖は映っていない。
竹崎季長は彼らの目を見て勝利子確信する。
「我らにはこん大和魂と日本刀がある。正義武断ん名んもとにただ駆けい!」
「おおおお!!」
「突撃ばい!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
両軍が博多湾の一角、鳥飼潟で激突した。
鳥飼潟決戦の始まりである。
「ぐわああっ!?」
「地面が爆発したぞ!」
「噂のてつはうだ! 全員覚悟を決め、突撃せよ!!」
「おおおおお!!」
歩兵と騎兵が入り混じった抜刀突撃隊が真正面から敵にぶつかる。
毒矢が雨のように放たれ、てつはうが突撃を阻止する。
短期決戦かのような死闘が一日中続いた。
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垣楯は添え物。
武士は勇猛果敢に白兵戦をする。
「楯突く」に語源はない、いいね?
掲載した絵に関しては下記を出典としています。
出典:うきは市 元冠の油絵 本仏寺
URL
https://www.city.ukiha.fukuoka.jp/kiji0035107/index.html
作者:矢田一嘯




