明治28年 矢田一嘯
かつての列強である大清帝国との戦争。
突然の開戦は庶民に衝撃を与えた。
その中に、一人の画家がいた。
その名は矢田一嘯という。
彼は武蔵国久良岐郡(現横浜市金沢区)の日高高兵衛の次男として生を受ける。
幼名「虎吉」。
幕末の世、それも横浜港の開港の年に生まれた彼は日に日に発展する横浜の町で育った。
江戸の外れではあるが江戸っ子気質のこの街で、彼もやはり流行物に敏感な江戸町人気質の感性を育んだ。
幕末の混乱期ゆえに学門は、寺小屋での読み書きが基本となる。
また家業は長男が継ぐという慣例から、次男である虎吉は割と自由に振舞うことが許された。
伝手もあり日高虎吉は明治5年の15歳の時に菊池容斉という絵師に弟子入りした。
この絵師は鎌倉武士菊池武房の孫、菊池武長の後裔にあたる。
紆余曲折あり、5年後の明治10年に矢田甚平の養子入りした。
この時から名は矢田一嘯となる。
この矢田一嘯の画家としての才能は抜きんでていた。
明治13年には菊池から独り立ちし、横浜弁天通に画塾を構える。23歳である。
画塾の傍らでとある貿易商で輸出用の刺繍の下絵を描いて生計を立てる。
その時、運命が動き出す。
顧客である外国人婦人が絵画を習得していたので、走り書きながら肖像画をその場で描いたのだ。
いわゆる写実主義のそれである。
その目新しさ、新鮮さに驚いて、元来の江戸っ子気質が爆発した。
「ちょっくらアメリカに行ってくるわ」と言って、懇意にしていた商会経由で単身サンフランシスコへと渡った。
この頃のサンフランシスコは米墨戦争(アメリカメキシコ戦争)でアメリカに割譲されてから30年ほどたっていた。
その間にゴールドラッシュが起こり、その影響で多彩な人種がこの地に来ていた。
スペイン訛り、ドイツ訛り、イタリア訛りに中国訛り、要するにほぼ全員がいい加減な英語と身振り手振りで意思疎通をしていた。
矢田一嘯は商会の伝手で一人の男に会いに行った。
当時サンフランシスコには日本に講師として招かれたイタリアの芸術家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティが事務所を開いていた。
このイタリア人は明治9年に美術芸術の教育機関である工部美術学校の図学講師をしていた。
在日中にイタリアルネサンス様式の参謀本部、ロマネスク様式の遊就館を設計した人物にあたる。
矢田一嘯はこのイタリア人画家に師事し、その下で絵画の技法を学んだ。
当時、サンフランシスコではパノラマ館というものが流行っていた。
広い範囲――例えば360度を写した写真をパノラマ写真という、このパノラマの語源がパノラマ館である。
パノラマ館とはサーカスのテントのような大型の建物、しかも中心はほぼ空洞という近代的な建築様式の建物の内側全方位――360度をぐるりと巨大な絵画で囲んだものをいう。
ちょうどサーカスとは反対に壁際に見世物の絵を、中央に観客を、という構造になる。
この中央の柱は展望台のようになっており、観客は一筆書きのように決められた順路を通り、その圧倒的なスケールの絵を鑑賞することになる。
つまり現代の遊園地のアトラクションなどの原点ともいえる施設になる。
この迫力のある写実主義的なパノラマ画をジョヴァンニの下で請負い描いていた。
それ以外にも活人画というのも仕事として接した。
この活人画は生身の人が適切な衣装を身につけて絵画のようなポーズをとり、そのまま動かずに静止することで情景を作ることを言う。
そこから当時最新テクノロジーである写真が合わさり、活人写真などにも派生した。
これらがサンフランシスコで盛り上がったのには訳がある。
アメリカ最大のサンフランシスコチャイナタウンとそこを牛耳るチャイナマフィアに、イタリアから来たイタリアンマフィア。
黄金を求めてやってきた世界中のならず者が住まうサンフランシスコ。
ここでは格式ある美術館よりも世俗的な見世物小屋のほうが儲かるのだ。
そして見世物小屋をより多くの一般大衆に見せるには近代工学の計算し尽くされた建築が不可欠だった。
矢田一嘯は迫力のある写実主義的な画法を学ぶために解剖学から近代建築学さらに写真など、学べるだけ学んでいった。
こうして芸術家としては主流になれない大衆芸術を極めた画家、矢田一嘯が誕生した。
明治19年に帰国。
矢田は日本初の活人画の制作に追われる日々を送る。
その後、帝国パノラマという会社が企画したパノラマ館計画に参加した。
明治23年(1890年)に上野パノラマ館が開館。
そこで展示された「欧州白川大戦争図」が評判を呼び、翌年には熊本の九州パノラマ館で「西南戦争」を制作した。
彼の評判はますます上がり、旧福岡藩士である吉村彦臣に博多へと招かれた。
そして矢田は博多へと来た。
「これが西新炭鉱か」
博多一帯には炭鉱と炭鉱街がにわかに形作られていた。
この福岡炭鉱は麁原山の北側に位置する西新炭坑から始まる。
そこから麁原山炭鉱、鳥飼潟炭坑、愛宕山の北に位置する姪浜炭鉱(早良炭鉱)と一連の炭坑と工場群が作られた。
そして昭和初期の最盛期には年間20~30万トンの産出量へとなる。
まだ明治28年、採掘がはじまって4年程度、始まりの一歩を踏み出したに過ぎない。
それでもサンフランシスコをその目で見た矢田にとって、本国の近代化には思うところがあった。
「日本はこれから良くなる。そうにちげぇねえ」
矢田は吉村彦臣と会った。
「矢田先生よう来てくれたったい」と吉村は言う。
そしてすかさず、炭鉱は見てきたか、と尋ねた。
「そりゃ、麁原一帯が炭鉱の町となってるのを見たでさぁ」
「わしゃあげなんがこの博多に残るとは思えんのじゃ」
海岸沿いの炭鉱には欠点があった。
海に近いため坑道内への浸水がひどく、そのため排水の費用が目に見えて掛かるのだ。
吉村彦臣は炭鉱現場の実情から数年で閉鎖するのではないかと危惧していた。
「鉄に銅に石炭、無うなったら衰退するとは目に見えとー」
資源が無くなれば衰退する、それには矢田も同感だった。
サンフランシスコも金が掘れなくなった途端に衰退した町がいくつもあった。
そして治安が悪いサンフランシスコの暗黒街も目にした。
「おいもそう思う。そうなるとおいに何かさせたいんかぃ?」
「そこで矢田先生に博多人形の指導さしてもらいたいんや」
「ンぅ?、博多人形とな」
博多人形の歴史は古く、1600年代ごろに中ノ子家が興したと言われている。
中ノ子家――古くは河野道継の四男である道成の子孫が母方の姓を名乗ったのが始まりとされる。
つまり長男である河野「六郎」有通の弟の家系が発祥となる。
吉村彦臣が言うにはその博多人形を含めて福岡の芸術をより近代的なものにしたいという。
そこで矢田一嘯が学んだ解剖学を活用する。
性格には解剖学どころか活人画の生き生きとしたポーズなども積極的に取り入れた博多人形を作っていこうというのだ。
そのために矢田が欧州の科学的な技術を、伝統的な博多人形師たちに指導するというものだ。
それ以外にもこの頃には本格的な西洋画を描ける人がいないので、福岡の芸術家たちとの交流をしてもらいたいという話になる。
言ってしまえば、この博多の地に骨を埋める覚悟で活動してもらいたいということになる。
矢田は快く承諾した。
翌、明治27年に日清戦争が勃発した。
博多ではかつての元寇のような惨事が起きるのではないかと、困惑と動揺が走った。
そんな最中、人々は湯地丈雄の演説に耳を傾けた。
矢田一嘯もそんな人々と同じく、彼の声に耳を傾けた。
「わしらが今こそ立ち上がらなきゃいかんのや。さもなければかつて文永・弘安の役のように突如大軍に襲われて、国が亡ぶかもしらんのや!」
湯地はなおも熱く語る。
日本の敵は必ず西北からやってくる。
今戦争になっているのも、もとを正せば長崎事件にある。
忠君愛国の精神がなければ世界の大国と渡り合えない。
国防を常に意識しなければならない。
多くの人々が「元寇」と日清戦争を重ね合わせた。
そして、さらに言う。
「わしらはいま、この忠君愛国の思いを元寇記念碑という形で表そうと動いている。そして政府の中からも賛同者がでている。あとは皆さんのお力添えだけなんです」
明治28年1月、日清戦争の最中、矢田は湯地と面会した。
「洋画家の先生ですな。西南戦争のパノラマ館はワシも見もうした。あの迫力たるや、感動しました」
それを聞いて矢田も嬉しくなる。
「かーっ真顔で言われるとこっぱずかしいわ。けどあっしも湯地さんの講演に心を動かされました。元寇記念碑、何かできることがあったら言ってください」
毛むくじゃらの湯地は満面の笑顔になり、それは心強い、と喜んだ。
「実は先生にお願いがあります。今日は多少手ごたえがありましたが、何度講演を行ってもみな話の内容をあまり理解していないのです」
湯地が言うにはどんなに声を張り上げても、右耳から入った言葉がそのまま左耳から出ていくように、手ごたえがないという。
というのも、地方の片田舎になると生まれてこのかた土地を離れたことがないという人が結構いる。
聞いたことがない単語と見たことがない戦い、そして国防が重要だと力説したところで、なにも伝わらない。
「それに比べるとパノラマ館の説得力はすごい。あの迫力のある絵と音楽、これならば学のない民衆でも理解してくれる」
なるほど、と矢田も思った。
「よし分かった。こちとらアメリカ帰りの江戸っ子でぇ、つまり誰でも納得する絵を――パノラマ画を描いたらええんやな」
「よろしゅうおねがいします。矢田先生」
こうして矢田一嘯は湯地丈雄のために「元寇」の絵を描くことになる。
矢田がパノラマ画を描くために史料集めを始めた頃に、日清戦争は大勝利をもって終結した。
勝利に日本中が沸き、矢田と湯地そして旧藩士たちも喜びを分かち合い、煽るほど酒を飲んだ。そしてつぶれた。
清国がこれほどまでに弱かった理由はあらゆる分野に広く、そして根深く存在する。
例えば日清戦争という名のわりに実際の戦いは李鴻章の私設軍隊 対 近代国家軍だった。
金で購入した兵器はすべて師団長クラスの好みで決まり、アメリカ製からベルギー製まで武器弾薬に統一性がなかった。
また愛国心が皆無の兵の士気は極端に低かった。
他にも兵站網が不整備だったりもする。
さらには実質的な支配者である西太后の指示で頤和園の造園業に莫大な予算(日清戦争の3倍)がつぎ込まれた。
などなど…………。
だがあえて永井建子に言わせれば、それは国歌が存在しないのが士気の低さとして現れた、というだろう。
清国に国歌がなかった。
それはそもそもこの国の方針が「中体西用」という中国の伝統的な制度――つまり本体はそのままに、西側の有用な武器兵器は用いようという、改革と基礎研究をしないで機械を利用するだけの方針だったことも関係している。
その一例が国歌にも表れていた。
清国で国歌が正式に採用されるのは日清戦争終結から16年後の1911年のこととなる。
そしてその翌年に清国は滅亡した。
比較して日本は「和魂洋才」という似ているが本質的に違う方針を取ってきた。
これは「和魂漢才」という大和魂だけは持ちつつも、それ以外はすべて優れている国のものを取り入れるという、古来から続く島国の方針になる。
言うなれば「学習する国家」それが日本になる。
例えばシャルル・ルルーが「日本は模倣者であります」と言っているように、この時代の日本の評価は東洋の模倣者であり、悪く言えば猿真似の国となる。
だが忘れてはいけないのが、世界広しと言えどもそう評価されたのはこの日本だけになる。
ヨーロッパに押されるオスマン帝国も、土地を分割され続けるアフリカも、土地を追われるインディアンも、誰も出来なかった。
どの国だろうと、民族だろうと武器を買うだけに留め、西洋文化の本質を学ぶことをしなかった。
言うなればヨーロッパは史上初めて、「学習する国」を発見したのだ。
そうであるなら日清戦争とはつまり、「金満国家」対「学習する国家」の戦いだった。
この決定的な違いが、両者を列強国入りと、非文明国への没落とに分けた。
そして帝国主義時代とは非文明国に優しくなかった。
鎌倉武士の末裔に絵を学び、鎌倉武士の末裔に解剖学を教え、博多に住んで元寇を題材にしたパノラマ画を描く、鎌倉と縁の深い矢田一嘯さんです。
ただしこの辺の人物は研究が進んでいないので生い立ち等はオリジナルです。




