明治27年 日清戦争
日清戦争。
この戦争の原因は複雑怪奇な政治・外交史と、列強間のパワーバランス、そして半島の李氏朝鮮の内乱が関係している。
それら事象をすべて集約させて簡潔に述べるのなら、帝国主義時代の引き金は羽毛よりも軽い。
これに尽きる。
それでも戦争には目的と目標というものがあり、それに沿って軍事作戦は進行していく。
日本の目的はロシアを中心とした列強が半島にまで進出して、列強勢力圏に呑まれることを阻止することにある。
対して清国の目的は伝統的な朝貢関係を終わらせて、より強力な従属関係へ移行するために、影響下に置き続けることになる。
清国の目的はちょうど日清日露戦争後に韓国併合をした日本の立場を、そのまま清国がおこなう予定だったと言えば理解しやすい。
この清国の目的に沿えば仮に日清戦争を回避した場合、十数年後にシベリア鉄道が開通し、南下政策を掲げるロシアとの決戦は不可避だった。
そして半島国家の保護国化という名目で韓国がロシアの属領となるのは目に見えていた。
すでに開戦前には清国の軍隊が弱すぎて列強に太刀打ちできない、と日本の軍部は看過していた。
永井建子は第2軍司令部附軍楽隊員として、従軍した。
永井が大陸側に上陸した時、戦況は味方が驚くほど有利に進んでいた。
ドイツ式陸軍へと改革した結果だと、皆が口ずさむ。
永井が半島に上陸する9月中旬にはすでに海軍が黄海海戦で勝利し、陸軍第1軍が平壌の占領を果たしていた。
この第1軍の負傷兵が前線から離脱して、たまたま第2軍と合流した。
そして永井建子がいると知ると、彼に声をかけた。
「永井建子殿でありますか?」
「自分は永井であります」
それを聞いて顔がほころぶ。
「おお、我々は第5師団、第9混成旅団として平壌攻略戦に参加しておりました」
「援軍が来ず、補給物資も乏しく苦戦を強いられました」
「その時、我が隊――いえ、参戦したほとんどの隊が『元寇』を歌って士気を維持していました」
軍歌元寇が世に出てから2年余り、そして日清戦争が始まってから日本では全国的な軍歌ブームとなっていた。
数々の軍歌が作られ発表される中、『元寇』は大衆文化に溶け込み、老若男女問わず歌われている。
戦時中、各地で「元寇」、「君が代」、そして「抜刀隊」などが歌われ、士気を維持した。
「そうであるか。ならばこれから軍楽隊による演奏の許可を取ってこよう」
そう言って、上官に演奏の許可を申し出た。
少しして軍楽隊による演奏が始まった。
その演奏を遠くから眺めている2人の将軍がいた。
右目に眼帯をつけた第2軍司令官である大山巌と、無精ひげを生やした歩兵第1旅団長の乃木希典である。
2人は兵士たちが思い思いに歌い、そして不思議な連帯感が生まれることに気づく。
「音楽とは斯くも偉大だとは思わなんだ」
「ハッ、この乃木希典も今日この日を忘れません」
この乃木希典はのちの日露戦争で旅順要塞を陥落させて救国の英雄と称えられる。
そのとき、戦勝気分に浸り士気が緩んだ軍団に対して、乃木は心から憂いた。
彼は惰気満々となる兵たちの士気を鼓舞させるために軍歌を作り、部下の軍楽隊長に作曲を命じた。
そして朝夕に全軍に合唱させて、士気の維持に努めた。
ともかく、この近代化にまい進する国は初の対外戦争で軍楽隊の重要性を認識したことになる。
戦争には目的があるが、もう一つ目標――つまり戦略も重要となる。
日本軍の戦略に関しては大本営、参謀総長が策定した「大方針」に従って進行していた。
そこにはいくつかのプランが存在し、艦隊決戦で勝利して黄海および渤海の制海権を得た場合についても決まっていた。
それは首都北京方面へと攻め込み、「直隷決戦を行う」、というものだ。
この戦略方針に従うと、いまだ健在な北洋艦隊を完全に潰す必要があった。
そのために遼東半島の「旅順」軍港を攻略することとなる。
陸海合同作戦という性質から司令部には両軍の士官が集まり、作戦計画の調整を行っていた。
永井建子は軍楽隊なので軍事作戦には直接関与はしない。
しかし第一次世界大戦以前は戦場の通信手段が限られているので、軍楽隊――特にラッパ通信によって味方に攻撃や撤退の指示を出す必要性があった。
ちょうど、中世の銅鑼や鏑矢の指示で攻撃と撤退の合図を送っていたのと同じだ。
そのため軍楽隊員も作戦内容、つまり地図や地形それから各軍隊の位置関係を頭の中に叩き込まなければならない。
軍司令部の士官が旅順に関する概要を説明した。
旅順要塞とその軍港はドイツ人技師がその地の利を見極めて、大清帝国に進言して建設が始まった。
二重の要塞防衛線と強固な砲台陣地から構成された近代的な要塞となる。
とはいえ、近世戦列歩兵から散兵戦術に移り変わったこの時期ではやや旧式の設備である。
それでも難攻不落の要塞であり、列強が数万の兵を繰り出しても半年以上は持ちこたえる、と言われていた。
概要説明が終わり、とある部隊の大隊長を呼んだ。
「威力偵察をした秋山好古殿、前へ」
「ハッ、騎兵第一大隊、索敵騎兵隊長、秋山好古であります」
外国人のような顔つきの秋山好古が前に出た。
永井建子は秋山のことを知っていた。
この秋山好古はドイツ式軍制に変わりつつある陸軍内で唯一フランス式の騎兵術を運用する士官だった。
そのため陸軍内では肩身の狭い思いをしている。
音楽界全体がドイツ式に染まり、フランス音楽を軽視されている、という似た境遇から親近感がもてる相手だった。
「まず11月17日に提出した意見書では索敵を中心とした諸情報を基に述べました」と秋山がいう。
報告書の内容は偵察で知りえた各砲台の配置から、脆弱性を指摘したものだった。
永井は画学全科で遠近法、等高線、地形を読む力を習得していたので、苦も無く地形の特徴を理解できた。
別の将官が「先日の戦闘で敵の旅団(約3000名以上)と戦闘が起きたと報告があったが、その情報は古くないか」と意見を述べた。
この将校が言っているのは「土城子の戦闘」のことである。
「問題ありません」と秋山は断言した。
「昨日18日に旅順から出陣した移動中の旅団と戦闘をしてみたところ敵歩兵の銃は命中率が非常に悪く、大砲も粗末であります。さらに騎兵で二度突撃を命じましたところ、こちらの騎兵隊死者1、負傷5。支援歩兵の死者10、負傷32となります。敵は動く馬に弾を当てることすらできない、それほど練度の低い兵と断言できます」
この遭遇戦で清国1個旅団(約3000名以上)の大軍と、秋山率いる1個大隊(約500名程度)が戦闘になった。
午前十時に始まった遭遇戦は午後八時まで続いた。
そんな劣勢の中で騎兵による2度の白兵戦を成功させて、敵清国騎兵を駆逐してみせたのだ。
この半日に及ぶ戦闘で日本騎兵の損失がほとんどなかったというのは敵の練度不足もある。
しかしこの秋山が類まれな騎兵術の達人であることは疑いようがないことだ。
彼ものちの日露戦争で最強と謳われたコサック騎兵を打ち破った、日本騎兵隊の父と呼ばれる軍人である。
「敵は精鋭であるはずの騎兵ですら士気が著しく低く、旅順攻勢は予定通り行うべきと愚考します」
戦った本人が1個旅団規模をたいしたことがないと断じた。
また、彼が記録した戦闘詳報にはこう書かれている。
――「本日敵の展開したる兵力は歩兵約二千、騎兵約三百、山砲二(三)門にして至る所に薄弱の一線をなし予備を有せず身体の動作極めて不規則にして戦線の喧噪なると最も甚だし」――
つまり、規模のわりに脆弱だと言い切ったのだ。
それが決め手となり、予定通り11月21日に旅順攻撃を開始することとなった。
「永井建子殿」
作戦会議は終わった後、外国人顔の秋山好古が話しかけてきた。
「ハッ、秋山殿どうかしましたか」
秋山の後ろには海軍士官もいた。
「ちと個人的な話じゃ」
そう言って煙草を1本渡した。
永井はそれを受け取る。
この戦争は兵站が非常に脆弱だと露呈する戦いでもあった。
そもそも物資の輸送を軍夫という現地人を日雇いして運んでいた。
しかも当時は草履がほとんどなので、冬の行軍はまさに命がけとなる。
さらに銃弾を優先する都合から、食糧は後回しになり、嗜好品に関してはほとんど皆無に等しい。
軽く運びやすいタバコですら一人数本配給されるかどうかという具合である。
「今日は紹介したい人がおる。こいつはわしの弟だ」
「あしは弟の真之いいます」
秋山好古と秋山真之。
この秋山兄弟は四国松山(旧伊予国、現愛媛)の出身で、士族ではあるが貧しい家庭で育った。
そのため二人とも生計を立てるために兄の好古が陸軍騎兵、弟の真之が海軍士官の道へと進んだ。
身分は違えど学びたいのなら軍以外の道がない、というのはこの時代の常である。
「実はな、わしらはあんたが作曲した軍歌に感動したんじゃ」
「あしらにとって元寇は特別ぞな」弟の真之も相槌を打つ。
話を聞くと、この秋山の家系は伊予水軍を率いた河野氏の血脈となる。
秋山家にとって河野有通には特別な思い入れがあり、好古についていえば弟が海軍に入ると言ったときに、軍閥など関係ないと言わんばかりに喜んだ。
この秋山真之はのちの日露戦争時に連合艦隊参謀として出征。
ロシア帝国バルチック艦隊を打ち破る。
戦場を駆け巡る騎兵隊と、大海原を駆ける軍艦。
永井は、二人が別々の道に進んだように見えて、実は鎌倉武士の――武士道を進んでいるように感じた。
軽く談笑する。
そんな中、永井建子は秋山好古に先の「土城子の戦闘」での噂話を口にした。
「そう言えば、若い士官の間で秋山殿は先の戦闘で敵前に姿をさらしたと噂してましたが、それは本当ですか?」
秋山好古は無欲であるが、同時に酒豪でもあるという極端な男で有名だった。
その酒に関する逸話は数え切れないほどあるが、そんな中でも戦場の――しかも敵の弾雨の中で酒を飲んで、平然と指揮を執るのはこの軍人以外にいないだろう。
ある兵は酒の力で死の恐怖を紛らわせたのだという、またある兵は最前線の兵たちの士気を高めるためにあえて飲んだという。
だが永井は知っている、普段のラッパ訓練の時も酒を飲みながら騎兵の指揮をしていたことを。
そのため酒に関してはとやかく言うつもりはないが、なぜ一人だけ敵の前に姿を現したのかが知りたかった。
すると秋山「信三郎」好古は外人顔あるいは鼻信とあだ名されるその鼻をひくつかせながら、にやりと笑う。
「河野の後築地じゃ」
照れくさそうにそう言い切った。
「なるほど、得心がいきました」
永井建子は元寇を書き上げる際に感じた鎌倉武士像があった。
「八幡愚童訓」に書かれていた河野通有の度胸や、活躍には思いをはせた。
この秋山という男はまさに、その鎌倉武士を体現した男なんだろうと妙に納得した。
――2日後。
11月21日午前0時、旅順要請へ砲撃開始。
その日のうちに旅順陥落。
日本側 戦死者40名、負傷者241名、行方不明7名。
清側 戦死者4500名、捕虜600名。
それは近代要塞という触れ込みにしては、あまりにもあっけないかった。
この勝利の後、戦争は急速に終戦へと進む。
翌、明治28年(1895年)に「下関条約」の締結によって終戦を迎えた。
テーマの元寇と関係ないので日清戦争自体はあっさり終わらせます。




