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明治25年 軍歌元寇

 長崎事件の衝撃は全国を駆け巡った。


 それは、かつて血みどろの戦場となった博多、現福岡県でも同様だった。


 その福岡警察署の署長である湯地丈雄が声を荒げた。


「落ち着いてください。署長」


「こっが落ち着くるか!!」


 年にして40歳、ひげを貯えた巨漢の男の一喝が、署内に響き渡る。


 彼は弘化(こうか)4年(1847年)に熊本藩に生まれた。


 熊本藩士である湯地「丈右衛門」暉狼の嫡男になる。


 丈雄の父親は43歳で病死し、翌年の万延2年に14歳で家督を継いだ。


 家督を継いでからは祖母都尾子(津尾子とも)に育てられた。


 この祖母は当時から「賢婦人」と称されるほどの人物である。


 そのため彼女を慕う人は多く、その中には乃木希典という後に日露戦争の英雄と称えられる将軍の母君壽子も含まれていた。


 そのため彼女に倣って希典を教育した結果、乃木希典自身も都尾子を尊敬していた。


 丈雄はそのような祖母に「論語」「孟子」「史記」「左伝」などの儒教教育を受けて育った。


 当然、九州が戦場となったことが記載された「八幡愚童訓」なども読んでいた。


 彼にしてみれば長崎事件とは元寇の再来でしかなかった。


「なしだ。なし西南戦争も終わり、これからやっと熊本は復興するて言いうときに、なし彼らが死なんばいけんとや!」


 西南戦争の爪痕は大きい。


 政府軍が熊本城に立てこもり、西郷率いる旧藩士たちを迎え撃った際に、熊本の城下町に火を放ち射線を確保していた。


 丈雄の実家もこの時に焼け落ちている。


 さらに当時の警察官には苦難が続く。


 臨時人員として警視隊が従軍し、要衝を占拠するために抜刀隊が編成された。


 シャルル・ルルーが作曲したあの「抜刀隊」の部隊になる。


 そして湯地丈雄の同僚たちが刀一本で敵陣地に攻め込み猛攻を加えた。


 湯地は精鋭には選ばれなかった。


 この戦いで田原坂という要衝を突破したことにより、政府軍を勝利へと導いた。


 損害も多く、何人もの同僚が帰らぬ人となった。


 湯地は九州がまたしても戦場になることに、そして警察官がその犠牲になることに我慢ならなかった。


「国防や。国防が重要やと訴えにゃ、いかん」


「国防は軍の仕事でしょう?」


「何ば言いよる。国民が団結してはじめて軍は国防に専念しきる。もう、内で争いよる場合やなか」


 湯地丈雄は何か人々が、愛国心や忠義心といった団結するような方法はないか考えた。


 あくる日、湯地は巡察しているときに志賀島の古戦場を訪れた。


 そこに蒙古首切り塚という小丘に松の木が点々とあるのみ。


 住民に伺わなければこれが何なのか誰も知らないような状態だった。


 この明治初期には土地の者が口伝で伝える程度の記憶しか残っていない、そういう時代だった。


「そこん警官しゃん。コレラで倒れた人がおる。病院まで運ぶんばかせしてくれ」


 住民が助けを求めてきた。


 湯地は、わかった、と言って病人を運び出した。


 博多では1886年にコレラが蔓延していた。


 最初に大流行したのは西南戦争当時だった。


 その前線で発症した官軍が郷土に戻り、全国で流行してしまったのだ。


 博多の病院はすでに県内中の患者が押し寄せて、阿鼻叫喚としていた。


 湯地は懸命に人命救助と治安維持にあたった。


 心身ともに疲れ果てた湯地は微睡の中へといざなわれる。


 その夢の中で、あるいは湯地の心中に元寇と長崎事件そしてコレラで苦しむ民衆が結びついた。


「そうだ、これだっ!!」


 湯地は目覚めると同時に行動に移った。


 のちに『元寇紀念碑建設運動』と呼ばれる一連の運動がこの日から始まった。




 明治23年(1890年)大日本帝国憲法が施行された。


 この時から、海外にジャパンと呼ばれていた島国は正式に「日本」という近代的な立憲国家となった。





 明治25年(1892年)、 恩師シャルル・ルルーはすでに帰国し、永井は軍楽次長となっていた。


 永井建子はその日も変わらず訓練と勉学の日々を過ごしていた。


 しかし、その日はにわかに教導団が騒がしかった。


「いったいどうしたのでありますか?」


「これは永井殿、この新聞の広告を読んで、少々議論になったのであります」


 永井がその記事を読むと、それは湯地丈雄が元寇記念碑建設運動への賛同を呼びかけるものだった。


 永井は立派な志を持った御仁だと感心した。


「自分はまったく無駄なことだと考えます」と若い士官が意見を述べた。


「それはなぜだね?」


「ハッ、石像にせよ、銅像にせよ、その資金で銃の一つ、大砲の一つでも作ったほうがマシと考えます」


 この元寇記念碑運動は当初、冷ややかな目で見られていた。


 銅像では飯は食えないし、病が治るわけではない。


 人々は互いに利害が一致せず、対立していた。


 それは憲法施行と同時に始まった議会での対立が如実に表していた。


「永井次長はどう思いますか?」


「私はこの運動に賛同する。思うに人々が対立するのは共通の目的、志がないからだと思う。この草の根の運動は反乱や一揆よりよほど健全な活動と言える。本官も可能ならば支援をしたい思いだ」


「永井殿は音楽家を志すんなら、応援歌でも作曲したらどうでしょう」


「奇遇だな。今しがたそれを考えていたところだ」


 永井は家に帰ってから、湯地丈雄が主張する「元寇」の史料を集めた。


 例えば頼山陽の「蒙古来」。


 ほかには「八幡愚童訓」。


 それなりの元寇の史料を集めて、読み込んだ。


 歌詞を考える時、その時勢を読んで書かなければいけない。


 廃仏毀釈運動が巻き起こったこの国では仏教的な要素を極力排除しなければ非科学的、非文明人と蔑まれる風潮があった。


 また別の例としてシャルルが居た当時、彼は音楽取調掛(とりしらべかかり)と一緒に日本音楽の調査研究と採譜に協力していた。


 そしてフランスに帰国後に日本音楽を本国に紹介するなど普及と周知に努めた。


 音楽取調掛(とりしらべかかり)が研究と調査に力を入れていたのは、すでに日本音楽が野蛮人の音楽とされ、輸入される西洋音楽によって消されることを危惧していたからになる。


 雅楽、俗楽、清楽など、それらはすでに古いものとされていた。


 このような時勢で八幡菩薩、菩薩の神通力を歌詞に入れることはできなかった。



 作曲を考える時、永井の脳裏にシャルルの悲しそうな顔がよぎった。


 シャルル・ルルーが帰国するとき、彼は軍楽長にいくつか訓示した。


 その中で彼はフェントン、ダクロン前任者たちに教わったことを維持したように、私が教授したことを招来に渡って維持することを期待すると述べた。


 少し、悲しい顔をしていた。


 シャルルが着任してから軍部では急速にフランス式からドイツ式へと組織の改革が進んでいた。


 軍だけではない。


 医学から音楽まで急速にドイツを受容する流れが出来ていた。


 ドイツ音楽とフランス音楽の違いを分かりやすく言うと、それは科学と芸術ぐらいの違いになる。


 ドイツ音楽はその国民性から音楽を科学的、あるいは合理的なものと捉えていた。


 対してフランス音楽は芸術であり、例えばパリ音楽院が「パリ国立高等音楽・舞踊学校」というように舞踊、演劇で演奏する、総合芸術という前提がある。


 そのため同じ曲でも時代の流行にそって変化、アレンジを加える。


 そこにフランス音楽があった。


 永井建子がダグロンを、科学的造詣に欠けし――、と評するようにこの新興国にとって答えがはっきりしている科学的アプローチのドイツ音楽のほうが理解し受容しやすかった。


 ともかく、シャルル・ルルーにしてみればパリが炎上する原因でもある不俱戴天の仇――ドイツ音楽とそれに傾倒する日本の音楽界に落胆したのだ。


 シャルルはその帰国後の報告書でかなり酷評している。


――『日本人は決してよい音楽家ではないと断言できます。まずその天性が音楽に向いておらず、さらに音楽上でより重大なことは音感を欠いており、楽譜に誤りがあっても見分けることができず、それを修正することは不可能で、音楽においても、他の事柄同様に模倣者であります。あいにくこの技術は形式だけで成立しておらず、すべてを模倣することは不可能です。』――


 そこには科学的ゆえに模倣可能なドイツ音楽とそれを真似る日本への皮肉が込められていた。


 永井建子はシャルルの愛弟子として、形式的ではない、しかし歌いやすいメロディーに変化音を巧みに織り交ぜた曲を仕上げていく。


 その際に影響を受けた曲がアメリカの「錨を上げて」になる。


 これはアメリカ海軍の公式行進曲に採用されている。



 こうして完成した曲の名は「軍歌 元寇」である。



 あくまで永井建子個人が湯地丈雄を応援するために作った。


 そのため彼の号である「人籟居士」で世に出した。


 この歌はたちまち大ヒットとなり、日本中の人々が声に出して歌った。


 のちに大正天皇も愛唱したという。


 このような背景から「元寇記念碑建設運動」の支持者は少しづつではあるが増えていった。




 ――2年後。


 明治27年(1894年)に日清戦争が勃発した。


音楽の各評価は音楽論文などを参考にしています。

残念ながら筆者は音楽才能が皆無なので、へーそうなんだー、としか言えません。


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