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明治19年 長崎事件

 シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルーはパリの家具店を営む裕福な家庭に生まれた。


 幼少期に音楽を学び、その才覚が認められた。


 パリ音楽院というフランス有数の音楽学校へと進んだ。


 1870年に勃発した普仏戦争と敗戦の影響は彼の人生にも影響を及ぼした。


 ナポレオン三世が捕虜となり、権力の空白ができると1871年にパリ・コミューンによる「史上初の社会主義革命」が起きた。


 パリはまたしても戦火に包まれたのだ。


 しかし、この無謀な革命は瞬く間に鎮圧された。それも虐殺を伴って。


 この影響でシャルルは72年に陸軍に招集され、軍楽兵となった。


 このため音楽家でありながら軍人然とした人格を形成するに至った。


 シャルルの評価は「性質剛毅果断にして武士的典型を備えし稀に見る高潔の士」であったという。


 来日時、シャルル・ルルーは軍楽隊員たちが、疑いの目で見ていることに気づいた。


 これをフェントンやダクロンが現場仕込みの訓練しかさせてこなかったからだろうと察した。


 そこで彼は新しい訓練法を伝授する傍ら、彼自身は日本人のための曲を作曲したのだ。


 その曲を「抜刀隊」という。


 この日本で最初の軍歌、そして最初の西洋歌を発表するとたちまち爆発的なヒットとなり、流行歌となった。


 さらに彼は「扶桑歌」という曲も発表して、この二つを編曲した「陸軍分列行進曲」を発表した。


 もちろんその作曲の仕方や技法を余すことなく軍楽隊員たちに教えた。


 彼は前任者たちと違い、この軍楽隊を一流の音楽家にするつもりで臨んだ。


 軍楽隊の隊員たちも、そして永井建子もそれを理解して、一人の音楽家になるつもりで学んだ。



 月日は流れ、明治19年(1886年)。


 21歳となった永井建子はある問題に直面した。


「永井、お主もそろそろ実を固めるべきだと思うが?」


「結婚でありますか……」


 上官から縁談の催促である。


 戦国時代から続く武家社会では直系男子にすべてを相続させる家督相続が主流だった。


 その影響は軍部でも常識であり、所帯を持つことは軍人として必須とも言ってよい状態だった。


 江戸の庶民は違う。


 そもそも江戸は男女の比率が違いすぎて、所帯を持つということが珍しい部類だった。


 なんにしても永井建子は観念して、寺西良とお見合い、そして結婚した。


 なお永井夫婦の仲は良好で後に長男巴、次男要、長女すみれ、次女あやめと子沢山である。


 永井建子を取り巻く環境は変わったが、今まで以上に軍楽隊として熱心に音楽の世界にのめりこんでいった。


 だが、その年に「事件」が起きた。


「建子さん、大変です!」


「どうした?」


 良は号外を持って来た。


 永井建子はそれを見て、目を見開く。


「これは大変なことになった」


 そこには長崎で起きた歴史的な事件、「長崎事件」について書かれていた。





 この一連の出来事の始まりは明治4年にまでさかのぼる。


 この年、まだ帰属関係がはっきりしていない琉球王国宮古島の島民が遭難して、台湾へと漂流した。


 この時点ですでに餓死者が出ていた。


 島に着いた彼らは食料と、人を探して山奥へと向かった。


 そこで首狩り族に襲われ、54名が殺害された。


 事件を知った明治政府は台湾を領有している大清帝国に対して抗議した。


 それに対して台湾原住民は「化外の民」であると、返事をするだけでそれ以上何もしなかった。


 これには訳がある。


 新大陸からもたらされた新種の作物によって農耕範囲が一気に広まった結果、台湾へ清国人が大量に進出してきた。


 そのためもともと住んでいた原住民たちは住む場所を追われ、山奥へと移り住んだ。


 少ない土地に多くの部族が移ったために、この山中は部族間対立と異民族への敵対心に満ちた危険地帯と化していた。


 島民はそこへ足を踏み入れたのだ。


 清国にしてみれば偉大なる大帝国の臣民ではない蛮人を法的にさばく根拠がない、むしろ下手に軍を出動させれば大規模な反乱につながる。


 損するとわかっていることをしないのは当然だった。


 ここで何らかの被害者家族に対して補償をおこない、台湾の沿岸に何らかの対策をすると確約すれば歴史は変わっただろう。


 しかし凋落しても、かつて東アジア最大の列強であった大清帝国は、最果ての島国を対等な国家とは見なしていなかった。


 内部からの声もあり、明治政府は半ば強硬であるが、「台湾出兵」を決定した。


 紆余曲折、この出兵によってまともな外交が始まり、以下の条約が決まった


 ――『清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)清国は遺族に対し弔意金を出す。日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。両国は本件に関する往復文書を一切解消する。清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。日本軍は1874年12月20日まで撤退する。』――


 こうして宮古島島民遭難から始まった「台湾出兵」問題は一応解決した。


 そしてこれが後々まで影響して、新しい問題が起きることとなった。




 まず帝国主義時代の引き金はとても軽くできている。


 第一次、第二次アヘン戦争はその両方が理由にならない理由で開戦へと至った。


 そして帝国主義時代の国境はペンによって自由に決まる。


 先の第二次アヘン戦争で結ばれた条約が気に入らないと、イギリスは更なる不平等な条約の締結を迫った。


 その時に、ロシア帝国が仲介に入り、北京条約が結ばれ、ウラジオストク一帯がロシアへと割譲された。――まったく戦争に関係ないのにである。


 まさに「ペンは剣よりも強し」、である。



 この大敗北にさすがの清国も衝撃が走った。



 清国はどちらの戦争も水軍とそれを構成するジャンク船で戦った。


 その完膚なきまでの敗北によって、後の世ではジャンクが不良品の意味になるほどだった。


 このような背景から清国は水軍制を改めて、北洋艦隊という海軍を設立する。


 そこへ「台湾出兵」が重なった。


 つまり北洋艦隊の「仮想敵国」に隣国である日本が選ばれた。


 大清帝国は金に糸目を付けぬ多額の資金を放出して、当時最先端の艦隊をさらに購入した。


 ドイツから購入した軍艦「定遠」、「鎮遠」を中心に大小合わせて50隻以上の艦隊を瞬く間に有した。


 まさに金満国家である。


 しかしあまりに性急な軍備拡張によって、ある問題が発生した。


 それは最新の軍艦を整備できるドックが清国内に存在しなかったのだ。


 そんな中、南下政策をとるロシア帝国をけん制するために、ウラジオストク周辺の日本海まで北洋艦隊を派遣した。


 明治19年(1886年)8月1日、その帰りに長崎のドックへと立ち寄った。


 この長崎ドックが東アジアに二つしかない北洋艦隊を整備できるドックになる。もう一つはイギリスの香港になる。


 ある意味、金満国家ゆえの無計画ともいえる。


 事件は同月13日に、この長崎で起きた。


 まず船内で待機することに飽きた水兵500名が日本の許可なしに勝手に長崎に上陸。


 浴びるほどの酒を飲んだ上で、市内を暴れまわった。


 そのため交番の巡査2名が首謀者2名を逮捕して交番へと連行した。


 他の水兵は仲間の奪還のために交番を襲撃、更なる逮捕者が続出する事態となった。


 これを受けて翌14日には水兵の上陸を禁止する措置を条件に水兵を引き渡した。


 しかし15日に報復のために無断で水兵300名が再上陸して、交番を襲撃。


 3名いた巡査の内、2名死亡、1名重症の暴行事件となる。


 長崎の市民がこの暴行を止めようと水兵を殴ると水兵300名と長崎市民による大乱闘へと発展した。


 清国の士官、死傷者4名。

 水兵死者3名、負傷者50名。


 日本の警部3名負傷。

 巡査2名死亡、負傷者16名。

 一般市民十数名が負傷。


 更には報復として軍艦からの砲撃があると噂が立ち、住民の一部が家財を持って市外へと避難する混乱ぶりとなった。


 事件は外交努力によって何とか収束させることが出来た。


 しかし、この事件から、互いが互いを「仮想敵国」とする軍拡競争へと進むことになる。


 この時代の引き金は非常に軽い。


 仮想敵国とはそのうち戦争をするという意味になる。


 戦争をしない相手は仮想敵国になりえない。


 つまり開戦の時は迫りつつあった。


元寇どっかいった……


次回から元寇にスポットライトが当たるはず。

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