明治11年 軍楽隊
精強な武士で構成された薩摩軍 対 一般募集した平民による明治政府軍。
市中では、西南戦争は長期化しさらに政府は負けるのではないか、とまことしやかに語られていた。
しかし大方の予想に反してこの戦争は1年とたたずに終結した。
新政府軍の勝利である。
そのおかげで広島は戦乱に巻き込まれることはなかった。
永井建子は明治11年(1878年)に上等小学校を卒業まじかに控えた。
数え年で13歳となる。
この明治初期の学校制度はヨーロッパを模している影響か、かなり複雑怪奇だった。
複線型学校体系と呼ばれるそれは、上流階級専用の学校と庶民学校を明確に分離して、さらに中学校に相当する教育機関は男女別、専門職別、教職用とすべて別れている。
小学校を卒業したら目的に合わせた高等教育を受けるか、家業を継ぐために働くか、何らかの選択が迫られた。
父親である紐太郎は教員を育成する師範学校に進学させるために、下等中学と上等中学の合わせて6年間。
つまり20歳まで学問を学んだほうがいいと考えた。
永井建子も中学校で学ぶことを望んだ。
しかし、ひっ迫する家計がそれを許さなかった。
父、母、長男、次男、長女の5人家族で、3兄妹全員を実費で学校に通わせ続ける。
およそ無理だった。
明治初期のこの学校制度は庶民の負担が高く、学校一揆や焼き討ちが頻発していた。
当時は幼い子供は親のまねをしながら草履や草鞋の作り方を覚える。
ほかにも薪割りから米の炊き方まで、生活に――生きていくために必須なことを教えなければいけない。
ところが学校では教える教員が少なく、高い養育費を払って教えることは漢文や算術など農民にとって必須とは言えない学問となる。
これらが役立つと認識されるのは近代工業化を成し遂げた段階であり、機械の説明書を読み必要性と計算できる必要性が理解される、まだ先の話である。
紐太郎は寺小屋時代の伝手や、親戚中に教育費を工面できないか、相談して回った。
しかし、広島の片田舎で景気がいいところはほとんどなかった。
そんな折、政府軍から各学校にとある通知が届いた。
その通知内容を確認した紐太郎は、これしかない、と悟った。
夜、紐太郎は建子を呼んだ。
紐太郎は算術はできるか、と聞いた。
できるとわかると今度は、家計の状態を説明した。
その計算から永井家にはこれ以上勉学に金を出すことはできないと、建子も理解した。
「おとう、わしゃ働きてぇ」
建子はそう言った。
そして、勉強をするだけで給金を得るという選択肢もある、と言った。
「働きながらお金ぅ稼ぐるんか!?」
「政府ん陸軍教導団、そん軍楽幼年試業生ぅ募集しちょん」
陸軍教導団とは今でいう士官学校のことであり、下士の育成を目的とした組織になる。
その採用条件は明治7年の時点で次のようになる。
第一則年齢:18歳から25歳まで。本楽及び喇叭は15歳から23歳まで。
第二則身長:5尺(約151.5cm)以上。砲兵は5尺2寸(約157.6cm)以上。
第三則身体:体格強壮。なかんずく本楽及び喇叭は歯列斉密の者。
第四則写字:書束往復に差し支えのない者。
第五則読書:練兵書等を了解する者。
第六則算術:加減乗除を能くする者。但し本楽及び喇叭はこれを問わない。
13歳の建子は本楽とラッパでも年齢の規則で2年ほど足りないことがわかる。
しかし軍楽幼年試業生となると話は別だ。
この理由は明治政府の海軍省雇楽隊教師ジョン・ウィリアム・フェントンと当時の軍制にまで話が飛ぶ。
このイギリス人は1842年に13歳で少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入隊した。
この当時の少年鼓手兵は非戦闘員扱いであり、戦争も敵の目が見えるほどの至近距離で銃撃戦をする、戦列歩兵が主流の時代だ。
殺伐とした現代戦とはそもそも戦場の様相が違う。
ジョン・フェントンは現場からの叩き上げの軍楽兵として、インド、ジブラルタル、マルタ、ケープなどの大英帝国領と植民地を渡り歩いた。
1868年に第10連隊第1大隊軍楽隊長としてイギリス大使館護衛部隊として来日する。
翌、明治2年(1869)に薩摩藩からの依頼で吹奏楽の練習を指導する。
その後、廃藩置県など紆余曲折あり軍部を陸軍省と海軍省に分かれた際に軍楽隊も2つに分け、彼は海軍部を指導することとなった。
このような関係から陸海両軍共に軍楽隊はイギリスの軍制の影響を色濃く反映したものとなる。
このため陸軍教導団は当時のイギリスにならって、13歳から入隊できる軍楽幼年試業生という制度を試験的に導入した。
このフェントンの時代の名残が、軍楽幼年試業生という試験的な制度の導入にいたった。
目的は少年鼓手兵育成のため、そして将来の軍楽隊育成のためとなる。
もちろんこの制度は時代遅れである。
1849年に誕生したミニエー銃によって戦争は変わりつつあった。
新式兵装の寡兵でもって旧式の大軍を返り討ちにする。
ちょうど旧式の幕府軍を新式の維新軍が撃破したのが好例となる。
急速に変化する近代化の荒波の中、一瞬吹き込んだ旧制度の突風が永井建子の運命を変えた。
建子は一通りの概要を聞いて、むしろ何か重大な問題があるのではないかと怪しんだ。
「しかし、そげな美味しい話があるんか?」
紐太郎は、美味しいだけではないと言い、次にいくつもある問題点を述べた。
まず、試験を受けなければならないので、試験会場のある東京に行かなければならない。
軍資金はかき集めてもを東京に送るだけで精一杯な状況――つまり、この試験に落ちたら東京で野垂れ死ぬこともあり得る。
例え合格しても二度と故郷を拝むことが出来ないかもしれない、とも言う。
というのは、学ぶことが仕事のようなものなので、教導団には帰省どころか休暇すらないのが普通である。
さらにその性質上、卒業したなら直ちに教導団軍楽隊に入隊して、軍人として生きることとなる。
空港も鉄道も、近代的な港もないこの時代、東京行は今生の別れに等しかった。
「おとう、こん歳で学びながらお金ぅ貰ゆるなら、入るべきや。わしゃ入隊するぞ。ほいち、こん家に仕送りするんや」
この日、建子の東京行が決まった。
建子は広島から船に乗り横浜に着いた。
そこから別の便に乗り、品川に着く。
広島から東京までの間、永井建子は近代化と産業革命の力をまざまざと見せつけられた。
瀬戸内海を突き進む蒸気船、その力強さと迫力の影響は強く、これからは科学の時代だと思うようになった。
「ここが東京か」
宿場はひどく汚い場所だと思った。
かつて百万都市、あるいは水の都と言われた江戸は、武士たちが去り、代わりに職にあぶれた者たちが、全国から目指す場所となっていた。
当然、そういった者たちを受け入れる宿場町の治安は悪化し、ひどく汚い場所となる。
身寄りのない建子はそこで寝泊まりするしかなかった。
まぶたを閉じると故郷の風景が訪れる、そして目が覚めるともう帰れないのだと思い出した。
「身、引き締めなだめやな」そうつぶやいた。
――試験当日。
試験内容は漢文、数学、そして英語だった。
父が寺小屋師範ということもあり、漢文と数学はある程度何とかなった。
しかし英語だけはどうにもならなかった。
落ちたかもしれん、落胆して宿場に戻った。
後日、合格の知らせが来た。
永井建子は軍楽幼年試業生となった。
あくる日教官に、ぬしが最優秀生徒か、と問われた。薩摩人のようだ。
「何ん話か?」
建子にはよくわからなかった。
話を聞くと、試験を受けた生徒の中で最も点数が高かったのが永井建子になる。
そもそも13歳で漢文と数学を解ける時点で他の受験生より優秀だった。
それだけに学問を問わない軍楽隊とラッパより砲兵や工兵はどうだろうかと勧められた。
「いいや、わしゃまだ13じゃ、楽隊じ音楽う学びてえ」
「そうか」
教官はすぐに引き下がった。
同時に才能ある若者が年齢制限で軍楽隊しか入れないのはいかがなものか、と議論になる。
武士の価値観が色濃い軍部ではどうしても軍楽隊は下に見られた。
軍楽幼年試業制は歴史から消えることになる。
幼年軍楽隊の教師は教導団の講師がついでに受け持った。
この講師の名前はギュスターヴ・シャルル・ダグロンという。
フランス軍事顧問団の軍楽隊責任者である。
フランス式が軍部で主流なのはナポレオン戦争の影響が大きい。
得られる外国の情報が少なかった江戸時代ですらナポレオンの名はこの極東にまで轟き、そのため軍事顧問団の招致を各藩がおこなっていた。
普仏戦争とナポレオン三世の凋落を知ってもなおフランスとの交流を続けた。
ギュスターヴの訓練は実技偏重のいわゆる体育会系方式だった。
彼はJ・W・フェントンと同じく現場からの叩き上げであり、早朝のラッパ吹きから始まる現場の常識を叩きこんだ。
永井建子はその訓練法に落胆した。
文明人を自認する割にはひどく非科学的な訓練だったからだ。
永井建子はのちに、
――『蓋し有体に言わば、前にも陳べし如く教師ダグロンは軍楽正門の士でなく、科学的造詣に欠けし一個の技術者に過ぎざれば、本科永遠の成案を俟つは彼に望みて不可能事なり』し――
、と書き残している。辛辣である。
それでも指導が始まった最初のころはすべてが新鮮だった。
見たこともない楽器、聞いたことがない音、幼年試業生たちは演奏以前の音を出すことに四苦八苦した。
教導団から給金が支給された。
永井建子はそのお金から必要な分を計算して、残りを実家に仕送りした。
まぶたをつぶると広島の故郷が浮かんだ。
2年後の明治13年(1880年)に永井建子は優等第一席で卒業した。15歳である。
そして決められたレールを通るように教導団軍楽隊の配属となった。
軍楽隊に入っても学問としての音楽は学べなかった。
この時期に音楽取調掛(のちの東京音楽学校)という音楽研究機関にルーサー・ホワイティング・メーソンというアメリカ人音楽教育家が来日した。
この人物の功績によって日本に西洋音楽教育、その基礎が築かれる。
つまり、まだこの国に永井建子に教えられる人物はほとんどいない段階だった。
陸軍歩兵や騎兵とラッパ信号による訓練の日々が続いた。
それから4年後、建子が19歳になったときに転機が訪れる。
「永井殿」
陸軍教導団教官である小菅智淵に呼び出された。
彼はもともと幕臣の一人であり、五稜郭の戦いをくぐり抜けて、捕らわれの身となった。
戦後は廃藩置県に伴い陸軍省に仕官する。
彼は元々幕府方の工兵出身で戊辰戦争中に各地を転戦して回った。
そのため、近代戦では地形の把握がどれほど重要か、痛いほど理解していた。
そこで参謀本部測量課長を兼任して、全国測量の計画を立て、近代地図整備のために奔走していた。
その工兵科の教官が声をかけてきたのだ。
「小菅殿、何でありましょうか」と襟を正す。
この頃には永井建子は陸式口調である「であります」が板についていた。
「うむ、知っての通り、今年はフランスの第三次顧問団が来日する」
第三次フランス軍事顧問団。
幕末に江戸幕府側に派遣された顧問団から数えて3度目の派遣となる。
この頃、ほぼすべての列強国の陸軍はドイツにならい、参謀本部を設置した大胆な改革をしていた。
しかし兼ねてから交流のあるフランスとの縁を切る訳にもいかず、フランス顧問団とは別にドイツ人顧問を雇ったりしている。
「はい、存じ上げております」
「貴官も知っているようにヨーロッパ人はたとえ軍人であっても高い教養が求められる。特に高官ともなれば元をたどれば貴族出身という者も多い。顧問団を失望させないためにも、我が軍でも教養を身につけたほうがいいと考える。そこで画学全科を受けてはどうか」
この19世紀中ごろフランス美術界では写実主義が流行していた。
小菅は別に芸術に詳しいわけではないが、現場での測量と戦時での経験から、写実主義の遠近法を学んだほうが地形を読む力になると考えた。
つまり地形を図面のように落とし込む等高線図とは別に、目で見た遠近感から地形を把握するには写実的な画学を取り入れるべきだと考えた。
そこで洋画を学んだ松本民治という画家を教導団に招いて、画学の講習をしてもらうことにした。
それならばフランスの顧問団から直に軍楽を学ぶことになっている永井建子にも画学を学ばせ、教養を身につけることで極東の蛮人という印象を払拭したい。
上層部の意向が働いた。
断る理由はない、と永井建子は二つ返事で承諾し画学を学ぶこととなった。
第三次顧問団が来日した。
この顧問団の中にシャルル・ルルーというフランス人の音楽家がいた。
彼はパリ音楽院というフランス最高峰の一つと称えられる芸術大学で音楽を学んだ、生粋の音楽家である。
前任者であるギュスターブ・シャルル・ダグロンとは違い、まさに生粋の音楽家になる。
シャルルは建子が望んだとおり、いやそれ以上だった。
シャルルは手始めに軍楽隊員全員に試験を受けさせた。
その試験結果を基に教育軍楽隊を編成した。
それからソルフェージュという――楽譜を読むことを中心とした西洋音楽学習、教則本を用いた基本技巧の練習を徹底的に行った。
もちろんすべてフランス語である。
明治17年(1884年)、永井建子は軍楽隊員としてシャルル・ルルーに師事し、その傍ら画学として松本民治に師事する。
一風変わった芸術士官としての道を歩む。




