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失われゆく歴史

 京都が燃えている。


 鎌倉の世が過ぎて幾百年。


 応仁元年に始まった将軍家の跡目争いがついに東西二分した勢力争いとなった。


 この応仁の乱は各勢力が複雑怪奇な勢力均衡を図った結果、勝敗が着かない事態に陥ってしまった。


 そしてそれは軍事についても同じだった。


 鎌倉武士から続く重装弓騎兵と垣楯弓兵による戦闘は京都を二分した陣取り合戦となった。


 まず碁盤の目のような京の街並みに沿うように両陣営は塹壕を掘り進めた。


 そして塹壕に平行になるように垣楯を並べることで即席の堀と壁を作り上げた。


 最後に井楼という物見(やぐら)を築いて、敵の動きを常時監視する体制ができた。


 これにより弓騎兵の衝撃力を完全に殺した上で、弓兵が矢戦を何年も続けた。


 この戦いでは「発石木」と呼ばれる投石機が連日敵陣を攻撃し続けた。


 それでも突破できなかった。


 圧倒的に防御側が優位になったのだ。


 戦況が膠着すると今度は互いの補給線の破壊と自軍の補給路の確保へと争いが移った。


 京の七口と呼ばれる代表的な街道を抑え、次いで敵の街道を奪うための攻撃へと移った。


 両軍合わせて二十万以上の兵を養うには大量の兵糧が必要になる。


 補給線を失うと瞬く間に飢えて全滅する。


 そういう戦いになった。


 この乱で最も変化したのは弓騎兵になる。


 東国からの馬の供給が無くなったため、西国は弓騎兵を維持できなくなった。


 西国からの鉄の供給が無くなったため、東国もまた弓騎兵を維持できなくなった。


 さらに仏教の浸透によって肉食が忌避され、武士は体格的にも小柄になっていった。


 戦乱で飢えた民衆たちは絶望する。


「もう……腹が減って……生きていけない……」


「このまま……武士に矢で射られるか……飢え死にか……」


「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……なむ……」


「おい、稲荷山に行けば仕事と飯が手に入るらしいぞ」


「本当か!?」


 伏見の千本鳥居で有名な稲荷神社。


 この当時はまだ鳥居を奉納する風習がなく、殺風景な神社である。


 そこに骨皮道賢という大将が陣を構えていた。


 すでに二百人以上の配下が集っていた。


 彼らはみな無法者の集団になる。


 道賢は戦乱以前から侍所の目付という役職だったが、それは彼が盗賊や山賊の事情に精通した「裏側の人間」だったからだ。


 つまり江戸時代の岡っ引きが元をたどると、その起源が軽犯罪者であり、彼らを手先として使う「放免」と似たものになる。


「いいか。俺たちは身一つ、槍一本で敵陣に斬り込み、そして敵側の食料を武士どもから奪う。そうやって生きていくんだ」


「俺たちが武士と戦うのか!?」集団に動揺が走った。


「お前たちもこの本は読んだことがあるよな」そう言って道賢は高々と「八幡愚童訓」を掲げた。


「八幡菩薩さまの教えでしょ。知ってますよ」


「そうだ。だが、それだけじゃない。この本には武士の倒し方も書かれている」


 そう言って、八幡愚童訓に記載されている〈帝国〉の集団戦法や町に火をつける方法などを伝授した。


 こうして東軍の足軽大将として西軍の陣地を襲う、略奪と放火を繰り返す「足軽」が誕生した。


 彼らが活躍するころ、武士たちは南北要衝の防衛に兵を割き、最低限の人数で陣地を守っていた。


「武士だ! 武士がいるぞ!」

「囲め囲め! 槍で突け!!」

「飯を奪え、喰いながら逃げろ!」

「ひゃっはー!」


 その俊敏で小回りの利いた行動力と圧倒的な継戦能力、そして各地を放火する陣地破壊力は戦況を一変させた。



 京都が燃えている。その際に京に収蔵されていた膨大な書籍が灰燼と化す。



 この戦乱から室町幕府の影響力は低下した。


 そして戦乱から逃れるように京に住んでいた知識人たちが各地方へと疎開していく。


 彼ら知識人の知恵と労働力は地方の自力を底上げした。


 そして列島各地で寒冷化が起きたことから、生きていくための国盗りが始まった。



 ――戦国時代の幕開けとなる。
















 戦国時代、比較的温暖な九州でも争いが続いていた。


 戦いは戦国末期にはほぼ三家にまで数を減らした。


 少弐に対して下克上を成し遂げた龍造寺家。


 鎌倉から続く肉食文化と鍛え抜かれた武士団を擁する島津家。


 そして長い時をかけて勢力を拡大していき、有能な家臣団を擁する大友家。


 これら三家による戦乱の時代となった。


 戦いは熾烈を極めたが大友義重が、ドン・フランシスコを名乗るあたりから風向きが変わった。


 いわゆるキリシタン大名の勃興である。


 島図との大戦「耳川の戦い」で大敗したことから、大友領内で反乱と裏切りが相次ぎ、島津の勢いも止まらない。


 ここにきて豊臣秀吉の軍門へ下ることを決断した。


 九州へ介入する足掛かりを得た豊臣軍は、総勢力十万以上の軍勢を率いて九州に上陸した。


 天正十五年、龍造寺を討ち取った島津勢は秀吉の大軍を前に兵を撤収した。


 この際に戦っていた肥後国天草勢は戦場に取り残されてしまう。


 この天草勢に大矢野種基という武将がいた。


 彼は竹崎氏が衰退したのちに紆余曲折あって蒙古襲来絵詞を継承していた。


 本来寺に保管されていた絵巻物だが、キリシタン大名たちがてら京都が燃えている。


 鎌倉の世が過ぎて幾百年。


 応仁元年に始まった将軍家の跡目争いがついに東西二分した勢力争いとなった。


 この応仁の乱は各勢力が複雑怪奇な勢力均衡を図った結果、勝敗が着かない事態に陥ってしまった。


 そしてそれは軍事についても同じだった。


 鎌倉武士から続く重装弓騎兵と垣楯弓兵による戦闘は京都を二分した陣取り合戦となった。


 まず碁盤の目のような京の街並みに沿うように両陣営は塹壕を掘り進めた。


 そして塹壕に平行になるように垣楯を並べることで即席の堀と壁を作り上げた。


 最後に井楼という物見(やぐら)を築いて、敵の動きを常時監視する体制ができた。


 これにより弓騎兵の衝撃力を完全に殺した上で、弓兵が矢戦を何年も続けた。


 この戦いでは「発石木」と呼ばれる投石機が連日敵陣を攻撃し続けた。


 それでも突破できなかった。


 圧倒的に防御側が優位になったのだ。


 戦況が膠着すると今度は互いの補給線の破壊と自軍の補給路の確保へと争いが移った。


 京の七口と呼ばれる代表的な街道を抑え、次いで敵の街道を奪うための攻撃へと移った。


 両軍合わせて二十万以上の兵を養うには大量の兵糧が必要になる。


 補給線を失うと瞬く間に飢えて全滅する。


 そういう戦いになった。


 この乱で最も変化したのは弓騎兵になる。


 東国からの馬の供給が無くなったため、西国は弓騎兵を維持できなくなった。


 西国からの鉄の供給が無くなったため、東国もまた弓騎兵を維持できなくなった。


 さらに仏教の浸透によって肉食が忌避され、武士は体格的にも小柄になっていった。


 戦乱で飢えた民衆たちは絶望する。


「もう……腹が減って……生きていけない……」


「このまま……武士に矢で射られるか……飢え死にか……」


「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……なむ……」


「おい、稲荷山に行けば仕事と飯が手に入るらしいぞ」


「本当か!?」


 伏見の千本鳥居で有名な稲荷神社。


 この当時はまだ鳥居を奉納する風習がなく、殺風景な神社である。


 そこに骨皮道賢という大将が陣を構えていた。


 すでに二百人以上の配下が集っていた。


 彼らはみな無法者の集団になる。


 道賢は戦乱以前から侍所の目付という役職だったが、それは彼が盗賊や山賊の事情に精通した「裏側の人間」だったからだ。


 つまり江戸時代の岡っ引きが元をたどると、その起源が軽犯罪者であり、彼らを手先として使う「放免」と似たものになる。


「いいか。俺たちは身一つ、槍一本で敵陣に斬り込み、そして敵側の食料を武士どもから奪う。そうやって生きていくんだ」


「俺たちが武士と戦うのか!?」集団に動揺が走った。


「お前たちもこの本は読んだことがあるよな」そう言って道賢は高々と「八幡愚童訓」を掲げた。


「八幡菩薩さまの教えでしょ。知ってますよ」


「そうだ。だが、それだけじゃない。この本には武士の倒し方も書かれている」


 そう言って、八幡愚童訓に記載されている〈帝国〉の集団戦法や町に火をつける方法などを伝授した。


 こうして東軍の足軽大将として西軍の陣地を襲う、略奪と放火を繰り返す「足軽」が誕生した。


 彼らが活躍するころ、武士たちは南北要衝の防衛に兵を割き、最低限の人数で陣地を守っていた。


「武士だ! 武士がいるぞ!」

「囲め囲め! 槍で突け!!」

「飯を奪え、喰いながら逃げろ!」

「ひゃっはー!」


 その俊敏で小回りの利いた行動力と圧倒的な継戦能力、そして各地を放火する陣地破壊力は戦況を一変させた。



 京都が燃えている。その際に京に収蔵されていた膨大な書籍が灰燼と化す。



 この戦乱から室町幕府の影響力は低下した。


 そして戦乱から逃れるように京に住んでいた知識人たちが各地方へと疎開していく。


 彼ら知識人の知恵と労働力は地方の自力を底上げした。


 そして列島各地で寒冷化が起きたことから、生きていくための国盗りが始まった。



 ――戦国時代の幕開けとなる。
















 戦国時代、比較的温暖な九州でも争いが続いていた。


 そして戦国末期にはほぼ三家にまで数を減らした。


 少弐に対して下克上を成し遂げた龍造寺家。


 鎌倉から続く肉食文化と鍛え抜かれた武士団を擁する島津家。


 そして長い時をかけて勢力を拡大していき、有能な家臣団を擁する大友家。


 これら三家による戦乱の時代となった。


 戦いは拮抗したが大友義重が、ドン・フランシスコを名乗るあたりから風向きが変わった。


 いわゆるキリシタン大名の勃興である。


 島図との大戦「耳川の戦い」で大敗したことから、大友領内で反乱と裏切りが相次ぎ、島津の勢いも止まらない。


 ここにきて豊臣秀吉の軍門へ下ることを決断した。


 九州へ介入する足掛かりを得た豊臣軍は、総勢力十万以上の軍勢を率いて九州に上陸した。


 天正十五年、龍造寺を討ち取った島津勢は秀吉の大軍を前に兵を撤収した。


 この際に戦っていた肥後国天草勢は敵勢力の真ん中に取り残されてしまう。


 彼らは小城に立てこもり、島津が戻ってくるまで戦う覚悟だった。


 この天草を攻撃したのが志賀親次、洗礼名ドン・パウロ、キリシタン大名になる。


 しかし、戦いの前に降伏勧告を行い、その交渉役を指名した。


「天草久種と交渉したい。その者を連れて参れ」


「私が天草久種だ」


 そう言って前に出たのが天草諸島の国人衆である天草久種、洗礼名ドン・ジョアン、同じくキリシタン大名となる。


「あなたもキリシタン大名と聞く、あなただけは同じキリシタンとして命を助けよう。こちらへ参られよ」


 そう言って持っていた十字架を掲げた。


 それを聞いた天草は首を縦に振り、「自分だけが助かるなどキリシタンの教えに背く行為、それだけはできませぬ。しかし天草の国人衆全員の助命をしてくれるのなら、さすれば城を明け渡しましょう」と叫ぶ。


「相分かった。天草の地の全ての国人衆を許すように上様に掛け合おう」


 戦いは回避され、そして宴会が開かれた。


 志賀親次はその席でキリスト教のすばらしさを説き、そして天草たちの話を熱心に耳を傾けた。


「この大矢野はな、あの文永と弘安の役で活躍した一族の末裔でもあるんだ。ほら、あれだ、確か絵巻物を持っていたよな」


 天草勢に大矢野種基という武者がいた。


 彼は竹崎氏が衰退したのちに紆余曲折あって蒙古襲来絵詞を譲り受けていた。


「確かにありますが……」


「ほう、それはぜひ見たい」


 恩をあだで返すことはできないので渋々了承した。


 天草勢全員が無事に肥後国に帰ったのち、大矢野家は大荒れした。


「どうするのですか。志賀といえば寺仏閣を破壊しつくした。あの大友義鎮の腹心ですぞ」


「それを言うなら島津が北上する前には六箇国(豊前、豊後、肥後、筑前、筑後、日向)を領してたのは大友、ならば悪いようにはされないだろう」


「その時にキリシタン大名となって島津に攻められた日向国救援と言って、寺を壊して回ったのが、大友だと言っているのだ。だからこそ宇土城主である名和顕孝の御息女がこちらに嫁いできた際にあえて蒙古襲来絵詞を天草まで運んだのではないか」


「噂によると伝来のだるまなども破壊して回ったらしい」


「たしかに今の大友家は信用できない。絵詞を見せると同時に燃やされる可能性が高い」


 それに対して大矢野種基は「志賀殿はそう言った武人には見えなかったが……」とつぶやく。


「殿、志賀殿が信用できるかではないのです。その後ろの大友がもはや信用できないのです」


 大友義鎮とその息子義統は島津が日向国へ出陣した際に道すがらの寺を破壊して回った。


 一説によるとこの日向国にキリシタンの国を建国するために破壊したと言われている。


 大矢野家の話し合いは紛糾した。


 そんな中、一つの妙案がでてきた。


「閃いた! ならば絵巻物は一度水に浸かったということにして、絵詞から神仏に関する部分のみを取り除いて、別々に保管するというのはどうだろうか」


「おお、それならば合戦の様子を描いた絵詞になる。妙案ですぞ」


「そうなると各氏族が恩賞地を得た下りや、それを仏が認めた下りの詞書もすべて取り除いたほうがいいですな」


「ちょっと待ってくだされ、先祖である大矢野が戦っていたことにしなければ、わが家が保管する大義名分が失われます」


「それもそうじゃ。ならば海戦のところに大矢野兄弟たしか種保だったはずじゃて、そう書き加えよう」


「殿、これでよろしいでしょうか?」


 大矢野はこくりと頷いた。


「致し方ない。万に一つでも失われることがあっては末代までの恥、皆の者、すぐにでも取り掛かるのだ」


「ははっ」


 こうして蒙古襲来絵詞はその時代に反して宗教要素がほとんどなく、さらに恩賞について一切書かれていない奇妙な絵詞となった。


「さて、こうなったら身の振り方を少々考えたほうがいいな」


 大矢野種基はその後、キリシタン大名となり寺院破壊に至らないように尽力することとなった。


 志賀親次に蒙古襲来絵詞を見せた時はその内容に感心しそれで終わった。


 最悪の事態には至らなかった。




 のち「蒙古襲来絵詞」は文政八年(1825年)に熊本藩細川家に保管を依頼した。


 さらに時が経ち明治二年(1869年)の廃藩置県に際して大矢野家に返還される。


 明治二十三年(1890)年に宮内庁に献納することになる。




 「八幡愚童訓」、「東方見聞」、「元史」とあの時代の情報はそれぞれの思想や価値観が反映されたものが後世に伝わることになった。




 そして、次代は流れ明治の世になり、「元寇」と呼ばれる一連の出来事はその時代の要請に応えるように更なる変化が起きることになる。





 八幡愚童訓編 おわり


八幡愚童訓がどれほど足軽の戦法に影響を及ぼしたのかは不明。

もちろん蒙古襲来絵詞がどういう加筆修正があったのかも不明。

キリシタン大名の影響があったのかも不明。

そもそも大矢野兄弟の記述が加筆されたのなら、なぜ大矢野家に流れたのかも因果関係は不明。


まあ誰も情報残してないからしょうがない。

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