文獄と歴史
〈帝国〉は崩壊した。
強大な軍事力と強固な官僚体制を有していた大陸の巨人は、その自重を支えられずに足元から崩れていった。
原因は大陸規模の寒冷化――小氷河期による 食料生産能力の喪失だった。
いかに先進的な官僚制を有していても、巨人の生命線である 食料自給率が低下しては打つ手がなかった。
時期も悪かった。
強力な指導者が誕生せず、宮廷内で暗殺と反乱が相次いでいた。
何ら手も打てぬまま時間が過ぎていく。
そして社会不安が争いを一層悪化させた。
次第に食料生産力の低下が深刻な品物不足と買い付け騒動による物価の高騰を招いた。
これにより経済学という概念がないこの時代、瞬く間に天井知らずの物価高騰となり、例え王宮が安定していても打つ手がなかった。
食料がない状態ではインフラ整備は不可能に近く、物流と衛生環境は数年で荒廃した。
膨大な物資を西から輸入しなければならないまさにこの時、ペストが蔓延しパンデミックとなった。
あらゆる都市が機能不全となり、そこらじゅうで死が横たわった。
この混乱と暴動、死の病が蔓延する中、人々は新興宗教に救いを求めるようになった。
新興宗教である白蓮教は救いを求めた農民を中心に広まった。
しかし、だれも教義を理解せずに次第に過激化していく。
そしてついに土木作業員を扇動して決起した。
これを「紅巾の乱」という。
この時、〈帝国〉は各軍閥で争っており華北を維持することが出来なかった。
彼らは互いに争いながらも紅巾賊を撃退して、草原へと撤退することになる。
こうして〈帝国〉はその名を北元と改めた。
皮肉にもこの大規模な反乱によって膨大な人命が失われた結果、食料自給率が大幅に改善された。
そのため大陸では次の指導者を決める内乱の時代へと移る。
この内乱に打ち勝った男を朱元璋という。
彼は紅巾軍の指揮官だったが、瞬く間に実権を握ると、だれも教義を知らない白蓮教を禁教に指定した。
そして――。
――1368年に朱元璋が皇帝に即位して、洪武元年に「明王朝」を興した。
新しい元号と共にすべての人々はより良い明るい未来がやってくると信じていた。
同年、一人の文官が宮廷に呼ばれた。
その文官の名前は宋 濂、当代随一の文人である。
彼は8年前に朱元璋に招聘され、その活動の補佐をしてきた男だ。
宋 濂は誇らしく思っていた。
自らが仕え戦乱の世を共に駆け抜けた男が、皇帝に即位する。
これほど喜ばしいことがあるだろうか。
そう思いつつ、皇帝の間へと足を踏み入れる。
朱色の柱と黒い大理石の床が醸し出す荘厳な空間を宋 濂は堂々と歩く。
そこにはすでに名のある文官たちが整然と並んでおり、頭を下げていた。
宋 濂も皇帝に臣下の礼をとる。
「よくぞ参られた。すでに話は伝わっておると思うが、朕は今すぐにでも前王朝である元王朝の歴史書を望む。猶予は半年である」
それに対して一人の文官が声を大にして異議を申し立てた。
「お、お待ちください。そもそも歴史書はおよそ百年ほど寝かせて、恨みや憎しみがない次世代の歴史家が何十年と時間をかけて編さんするものです。それをたった――たった半年で作れというのは無茶にもほどがあります」
通常、半年で完成させられるような代物ではない。
常識のある歴史家なら編さんは後世の歴史家に任せればいいと判断する。
だが――。
「なるほど、朕に逆らうのだな。衛兵」
「ハッ」
「この者を処刑せよ」
「ハッ!」
その突然の沙汰に、いや狂気の沙汰に戦慄する。
異を唱えた文官は直ちに発言を訂正する。
「ま、待ってください。私はただ一般論を申し奉っただけであって……ゆ、許してください!!」
「さっさと歩け!」
「い、いやだ! どうかご慈悲を!!」
衛兵たちに文官が連れ去られていった。
「近衛隊長はおるか?」
朱元璋が問いかけると、壁際で待機していた男が前に出る。
「お側に控えています」
「先ほどの衛兵が朕の顔をジロジロと見ていた。共に処刑せよ。復讐心を持たれても困るので、ついでに一族もろとも処刑するのだ」
「ハハッ!」
朱元璋は貧しい農村出身だった。
栄養失調と疫病のせいかアゴは極端にしゃくれ、肌はまさにあばた顔であり、遠くからでもひときわ目につく。
彼はその容姿に、劣等感を抱いていた。
それでも戦乱の世では軍師や武将たちの意見をよく聞き、最下層民出身とは思えないほどの聖賢ぶりを発揮し、紅巾軍の信頼と信用を勝ち取ってきた。
誰もが認めた一廉の人物だった。
しかし、そんな彼と同一人物とはおもえない、あまりの現実離れした命令に皇帝の間が静まり返った。
宋 濂は目の前の男は、ともに戦乱を駆け抜けた朱元璋ではなくなったと悟った。
金と権力に憑りつかれた暗君になってしまった。
「皇帝陛下、話は全て聞きました。半年で〈帝国〉史を完成させてみせましょう」
「おお、宋 濂よ。お主ならそういってくれると信じて負ったぞ」
「それでは一つお願いがございます」
「ふむ、申すがよい」
「すぐれた詩人として、噂に名高い高 啓という人物を登用して頂きたい」
並み居る文官たちもざわめき立つ。
「高 啓だと、確かに彼は幼少から神童とうたわれ、博学で知られている。しかも歴史が好きだと聞く」
「18で結婚、大作『青邱子歌』は噂に名高い、しかし戦乱の世が終わるとほぼ同時に娘を亡くし、悲嘆に暮れていると聞く」
「組織に属すのが苦手なのか、官位を授けようとしても必ず固辞する。高 啓30歳既婚者。一目で天才のそれだとわかるんだが、決して表舞台に上がろうとしない奇特な男だ」
文官たちが口々に彼についてささやく。
「なるほどわかった。ならば宋 濂よ、高 啓なる人物を登用し、必ずや歴史書を編さんするのだ」
「かしこまりました」
こうして〈帝国〉の歴史、「元史」の編さんが始まった。
――洪武2年(1368年2月)のことである。
王宮での一幕からほどなくして、高 啓が首都へとやってきた。
彼はここに来るまでに大体のことは道すがら聞いていた。
しかし編さん作業をしている会場の熱気に圧倒されてしまった。
「誰か! チベット語とペルシャ語のわかる者はいないか!」
「翻訳作業と編さん作業を同時に進めるというのは無理がありすぎる……」
「クソッダメだ。いまの明の領土では外側の史料が手に入らない」
何十人もの文官たち、その背には膨大な資料が山積みとなり、その目の前にはか細い文字の小川が流れている。
山から湧き出した小川がやがて一つの大河となるように、彼らは書本の山から流れる文字をまとめ上げ歴史という名の大河を作ろうとしていた。
「高 啓殿、よく参られた」
その編さん作業の主幹である宋 濂が声をかけた。
「これは高名な宋 濂殿であらせられますね。まさかこのような一大事業に加え――」
「堅苦しい挨拶はしなくてもいい。今はとにかく時が惜しいのだ。歩きながら話そう」
「なるほど、確かにそうですね」
半年で史書を完成させるには何よりも時間が大切だった。
しかし時間があまりにも無さすぎる。
高 啓は疑問を口に出した。
「あの司馬遷をもってしても史書編さんには十五年の歳月をかけています。それを半年――しかもあの広大な版図を支配していた〈帝国〉の歴史となると、無理を通り越して無謀です。どうするのですか?」
「むろんわかっている」
編さん作業を尻目に奥の別室へと向かった。
そして別室に保管されている史書を指さした。
「そこでこの史料をそのまま史書として使う」
高 啓はそれを手に取り中身の確認をした。
「こ、これは……パスパ文字、それにこっちはウイグル文字、まさかこの書物は!」
「そう、これは〈帝国〉の『十三朝実録』そのものになる」
十三朝実録――かつて〈島国〉への遠征を指示した五代目皇帝が王朝史の編さんを指示したのが始まりとなる。
その結果、歴代皇帝たちは前代皇帝の実録を編さんするのが慣例となった。
そのような性質ゆえに、この実録はのちの皇帝たちの都合に即した書物となる。
「なるほどこれをすべて翻訳すれば史書が完成すると。確かに、確かに時間の節約にはなりましょう。しかし、それでも期日までに作業が間に合うとは到底思えません」
「いいや、翻訳はしない」と宋 濂が言い放つ。
「翻訳をしない!?」
「パスパにせよウイグルにせよ、これらの文字は表音文字となる。つまり発音の記号化であり、その真意を読み解くことはできない。帝国時代でもそれはわかっていたので、ほとんどの文章には表意文字である漢字を併記することで、文字の真意を読み取れるようになっている」
高 啓はその意味をすぐに理解した。
「つまり、表意文字である漢字から原文を読み解くことで、翻訳を介さずに歴史を編さんするということですね。しかしそれでも――」
それでも時間が足りないと高は感じ取った。
文人たちにとって半ば常識となっていることだが漢民族と北の遊牧民とでは言語体系が違う。
この草原と明王朝の言語の違いを分かりやすく表すと――、
〈明朝〉 文化圏 主語、動詞、目的語
〈帝国〉 文化圏 主語、目的語、動詞
――となる。
ちなみに〈島国〉は〈帝国〉と同じ主語、目的語、動詞の語順になる。
高 啓は一つ一つ文章の文意確認しながら語順を正していくのであればやはりまだ時間が足りないと感じた。
「わかっている。だからこの歴史編さんには直訳漢文を採用することにした」
「!? 直訳ですと!」
直訳体漢文、後の歴史家たちに批判されるそれは言語体系の違う語順をそのまま使い記載するという方法になる。
つまり漢文の本来の語順を無視した史書を書くということだ。
「それは、それはいくら何でも歴史書をバカにしている!」と高 啓は声を荒げた。
この編さんはもはや歴史家の仕事ではなく単なる文字書き、新人文官がやるような仕事と言ってよいものだ。
これにいったい何の意味があるのか。
「わかっている。高 啓殿、これからおこなう作業は、あの司馬遷の史書を歴代最高峰と称えるのなら、歴代最も愚かな歴史書を作るのが我々の仕事になる」
「それがわかっているのならなぜ!」
「あの〈帝国〉がパスパ文字に拘ったのは、この文字を世界共通言語にするという壮大な目標があったのはわかっている。ならば彼らの語順に敬意を表するのが歴史家というものではないか」
「……いや、それでも」
「そもそも歴史書とは何かね?」と宋 濂が問う。
「それは――書き手によるが、過去の出来事を後世に伝えるために史料が正確な情報か否か取捨選択した上で時系列順に並べた記録が歴史書だ。ただ情報を列挙したのは歴史にあらず、相手の主張をそのまま書いたのも歴史にあらず、だ」
それを聞いて宋 濂は微笑みかけて、その通りだ、といった。
「しかし同時にその時代の思想や文化も伝えなければならない。彼らの文法法則に従って記述された歴史書は、まさにあの〈帝国〉の文化を象徴している――言うなれば言語そのものを歴史書に書き残すということになる。あえて史料に手を加えないことこそが、あの〈帝国〉とは何だったのか後世に伝えられる」
そう言い切った後に――そう思おう。そう思おうじゃないか、と少し悲しそうな顔で言った。
「それなら先ほどの膨大な作業はなんなのですか。ただ書き写すだけなら私は必要ないではないか」
そう言って高 啓は先ほどの作業場を指さす。
「この十二朝実録には唯一最後の皇帝の実録だけは記載されていない。もちろん名のある武将や文官たちの記録も残さなければならない。今行っている作業の大部分はそちらになる」
〈帝国〉を支えた大勢の人々、その史料収集と記載が主な仕事になるという。
高 啓はしばし考えてから、「……わかりました。宋 濂殿の方針に従いましょう」といい、しぶしぶ承諾した。
異論を出せば処刑される。
期日までにできなければ処刑される。
逃げ出せば処刑される。
たとえ不満があってももうやるしかなかった。
こうして、名のある文人たちによる編さん作業が始まった。
しかし、それは困難な道のりとなる。
明王朝建国直後は領土のほとんどが不安定な状態だった。
そのため積極的な領土拡張よりも農業を最重要とした内政に専念していた。
領土の拡大と朝貢国が増加するのはのちの三代皇帝永楽帝の時代になってからとなる。
つまりこの時期は周辺諸国から史料を集めることが、非常に難しい時だった。
北アジア全域、イスラム圏、インド圏、中央アジア全域、中東全域、ルーシー地方、これらから史料を採取するのは不可能に近かった。
また親帝国派であり北元を盟主と仰ぐ〈王国〉、そしてすべての大陸国家と敵対関係にある〈島国〉も含まれている。
「高 啓殿、この忽敦将軍と忻都将軍それから島国の記録が手に入りません」
パスパ文字は表音を表記したものになる。
つまり漢字に関しては語意が存在しない当て字になる。
そのため記載者が違うと当て字も変わってしまう。
ちょうど「賀茂川」と「鴨川」と「加茂川」がどれも同じ意味なのに、混在しているのと同じだ。
また〈王国〉が明と朝貢関係になるのはこの二年後になる。
今はまだ敵対状態だ。
「この将軍たちが活躍したのは主に半島になるな――彼らは未だ北元に忠誠を誓っているから史料は手に入らないだろう。略歴だけ書いて終わりにせよ」
「わかりました。〈島国〉に関してはどうしますか?」
高 啓はしばし考えてから、ポツリと「無理だな」といった。
日本海を越えて、戻ってくるだけでも数年を要する。
とてもじゃないが史書に記載する時間がなかった。
「実録に書かれている内容以上のことは書く必要はない」
「わかりました」
その後、半年経ち最初の編さんが一旦終わり、朱元璋に献上する段階となった。
そこで宋 濂は正直に未だ最後の皇帝の本紀がないことを正直に打ち明けた。
「宋 濂をもってしても書き上げることが出来なかったか」と朱元璋はひどく落胆した。
「あと半年ほど時を頂ければ書き上げることはできるでしょう」
宋 濂と文官たちは八月の完成を持って一度解散した。
だがその本当の目的は各地に散らばって史料の収集にあたるためだった。
宋 濂一世一代の大勝負だった。
朱元璋は「再度文官たちを集め半年で完成させよ」といった。
そして、これ以上の延長はないものと思え、とも付け加えた。
「ハハッ!」
こうして各地に散らばった文官たちを再招集のために半年、そこから編さん作業を半年かけて行う。
つまり実質一年の猶予を得た。
翌洪武三年二月に編さん作業が再開した。
そして八月に完成した。
決して満足いく仕事ではなかったがそれでも一年半かけてついに完成させる。
宋 濂と高 啓は宮殿に招かれ、皇帝朱元璋と謁見する。
皇帝の前には十五冊にまとめ上げられた史書が献上品として置かれている。
「よくぞ短時間で歴史書をまとめた。さすがは宋 濂だ」
「お褒めの言葉、ありがたき幸せにございます」
「それから高 啓よ。おぬしの働きも目覚ましいものだと朕の耳にも聞き及んでいる。どうだろう今後も朕の下で働いてはくれぬか?」
「私のような者にまでお声をかけていただき、恐悦至極にございます。しかし一介の詩人である私に官職と言うのは似合いませんので、故郷に帰りたいと思います」
「そうか、無理に引き留めても仕方ない。下がってよいぞ」
「益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます」
そう言って高 啓は謁見の間を去っていった。
「ふむ、宋 濂よ。あの男は官僚として有能だと思ったのだが、実際のところどうなのだ?」
「文才ではありますが、人を惹きつけるのは文のみ、官僚として役に立つことはないでしょう」
「そうであるか」
朱元璋はすでに興味がなさそうに一言いうのみだった。
彼にとって重要なのは人を束ね、派閥を形成できるほどの人物か否かであった。
もし高 啓に詩人以上の才覚があったのなら――処刑するつもりだった。
しかし、信頼する宋 濂が脅威でないというのなら放置することにした。
高 啓が宮殿を去る日。
「宋 濂殿、最後に挨拶に来ました」
「おお、よくぞ参られた。ちょうど集めた史料を厳重に保管するところだった」
「何とか、集めることはできましたな」と高は史料の山を見て言う。
「本当はこれらすべてを余すことなく記録したかったのだが、仕方ない」
その書籍の山は〈帝国〉の元の史料の山だった。
「結局、我々にできたのは歴史を集めることだけでしたな」
「仕方のないこと、我ら文官はこの書を守り、そしてより良い為政者の時代――後世の歴史家にすべてを託すだけだ」
彼らはこの史料を後世に残すことによって、朱元璋亡きあと、優れた史書を編さんしてくれることを期待したのだ。
「私の目の黒いうちはこの書物を必ずや守り抜いて見せよう」
「お気をつけて、あの皇帝は日に日に――」
そこで宋 濂が手で制した。
「それ以上はならん。とにかく王宮から離れ、静かに暮らすのだ」
高はこくりと頷くとそのまま王宮を去った。
「ふぅ、私の目の黒いうちは何とか守れるだろう。しかし、その後はどうだろうか……」
その後、高 啓はのちに旧知の中である優秀な官僚にいくつか手紙と詩を送っていた。
その官僚、魏 観に謀反の疑いがあるとわかると1374年に処刑される。
そして親しかった高 啓も連座として処刑された。
1374年 腰斬の刑 享年39。
宋 濂はそれから7年皇帝に仕えたが、後に老齢を理由に辞職して故郷に帰った。
しかし1380年に始まった「胡惟庸の獄」によって孫の宋 慎が連座で処刑されることとなる。
それが理由で宋 濂は、死刑は免れたが流刑地へと流される。
その移動中に病に倒れた。
1380年 病死 享年71。
明王朝初期、あまたの文官たちが次々に処刑される「文字の獄」の時代となる。
朱元璋の虐殺はさらに拍車がかかる。
もはや言いがかりともいえる「禿」「光」「賊」「僧」などの字が書かれた文が見つかると、それを理由に処刑が繰り返されるのだった。
この言葉狩りは凄まじく、西遊記に登場する妖怪「朱八戒」を「猪八戒」と改めなければ死刑になる、と噂されるほどだった。
この一連の騒動を「文字の獄」と呼び、政治思想の面では暗黒の時代へと突入する。
その過程で宋 濂が後世に託した、歴史家が元史を修正するのに必要な史料も全て燃やされた。
こうして数ある歴史書の中で、歴史の敗者である〈帝国〉の主張がそのまま記載された唯一の歴史書が後世に残った。
人はそれを「元史」という。
中国二十四史の中で、「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」、と評されるほどの完成度の低い史書となる。
大陸の内地に太原盆地という地がある。
そこは肥沃な大地があり太古の昔から農業が発展していた。
太原府は大陸有数の都であり、そこは先進的な文化の中心でもある。
そのため大陸雑技団や作家、演出家など天才と称えられる人々が集まっている。
折しも文字の獄の時代、文官になれる才能ある者たちが王宮から離れ野に下る。
彼らは自らの文才で金を稼ぐためにこの地を訪れた。
その太原の一角にある居酒屋。
「んくんく……ヒックッ」
「お前飲みすぎだぞ」
「〈帝国〉を北に追い返せば世の中よくなると言われてたのに……実際はなんだこの処刑に次ぐ処刑……これが飲まずにいられるか!」
「たくっ一体どこに酒を買う金があるのかね?」
「ひっく……そこの角に人がいるだろ。あいつに戦争のことを話すと酒をおごってもらえるんら」
「それはほんとか!?」
「だが……舌が肥えるならぬ、耳が肥えてるから、誰もが知ってることを話しても酒は手に入らないぜ」
「なるほどな。よーしいっちょ話しかけてくる」
「なんだ、いい話があるのか? ひっく」
「ああ、何せ俺のじいさんは遠く東の〈島国〉まで戦いに行って帰ってきたからな。自慢の昔話がある」
「ほーう、がんればー」
彼以外にも自分自身があるいは先祖が体験した戦争話を語る者は後を絶たなかった。
『これはじいさんが……〈島国〉に遠征した時のことだ……』
『東南の風が吹いて……』
『さっきの奴の話よりこっちのほうが面白いぜ。俺は鄱陽湖の戦いを実際に見てきた。そのときに起きたのは東北の風さ……』
『将軍は青龍偃月刀を持ってたんだ……』
『ここだけの話、大将軍は商才があって……』
『面白いのが、大将軍の一人は立派な髭が腰にまで届くことから、美髯公って呼ばれて……』
『それから……張義兄弟ってのがいて……名前はえっと兄が張飛で弟が張翔だっけ……とにかく頭のいい兄とガサツだが力持ちの弟だった』
『実は……戦後に〈島国〉から脱した話もあってよ……』
『一騎打ちで打ち合うこと百合余り……』
『勝者に対して義を示すってのが……』
人々の話にじっと耳を傾けるこの者の名は羅 貫中。
彼は元王朝中期から明王朝初期までの文化文明、軍事戦術を網羅した一つの小説を完成させる。
その小説の名は「三国志演義」、明王朝期に誕生した四大奇書の一つである。
文獄の時代、この時代の文化は何よりも優れていた。
久しぶりの更新
元寇が三国志演義にどれだけ影響を与えたかは不明です。
この辺の研究はまだほとんどされていないですね。
あったとしても連環計と東南の風ぐらいだと思います。




