文永の役 先懸
草原の〈帝国〉と南宋は大陸の覇権争いをおよそ四十年近く続けていた。
南宋がこれほど長期にわたり〈帝国〉を撃退することができたのは、『南船北馬』の由来でもあるそれぞれの地形環境の違いが大きかった。
つまり水軍力で劣る〈帝国〉は長大な運河である長江を挟んでのにらみ合いしかできない。
――誰もがそう思っていた。
1268年、文永の役の六年前に〈帝国〉は長江の重要拠点である樊城を包囲した。
〈帝国〉はその時、正面から戦わずにひたすら土木工事を続けて支城を築いていった。
さらに長江の対岸にある双子都市・襄陽にも渡河して同じく築城、完全に包囲して見せた。
〈帝国〉は極秘裏に南宋が想定していなかった大規模な水軍を創設していたのだ。
これに驚いた南宋は主力軍を派遣するが不得意な陸戦にて大敗、五年に及ぶ籠城戦の末に双子都市は陥落した。
――それから一年後。
麁原に城が築かれていた。
「昨日までは無かった。確かに昨日までは無かったはず!」そう狼狽するのは籐源太資光。
彼は野中「太郎」長季の郎党なのだが、主に代わり五郎の郎党としてついて来ていた。
「どうします。一体どうします!?」
「う、うろたえるな」
一夜城など見たことも聞いたことがない。
これが、こんな奇策を用いるのが〈帝国〉なのか。
郎党たちは取り乱していた。
そんな中、五郎は一人じっと山城を見ていた。この混乱したときに逆に冷静になるのがこの五郎という男だった。
東から日が昇り、陽の光が山頂を指す。その頂が輝いた気がした。
麁原には千以上の兵がいる。さらに浜からは数千の兵が上陸を始めている。
なるほど、時間が経てばますますこちらが不利になる。
しかし一夜ということは――まだ作っている最中。
――今なら間に合う。
「うろたえるな!」狼狽する郎党に対して五郎が一喝する。
「し、しかし五郎殿……」
「よく見ろ、よく見るのだ。深夜に築城を始めたとして完成には程遠い。築城をするということはすぐには動かないと言っているようなものだ」
それを聞いて郎党たちも平静を取り戻した。そうだともあの守りの陣を解いて、一気に攻めてくるわけではない。
「それでどうするのだ?」三郎が聞いてきた。
「一夜で築いたということは土木作業で体力を使い果たしているはずだ。鳥飼潟を敗走した者もそう体力があるわけではあるまい」
「――五郎まさか!」
五郎はニヤリと笑って答える。
「そうだとも今だ。今この時がが攻め入る唯一の頃合いよ!」
それを聞いて籐源太は驚いた。そして彼を止めなければならないと思った。
彼が主から言いつけられていたのは「五郎に無茶をさせるな」であった。
それは長年の付き合いから五郎というのは危険を顧みずに行動する男だと知っていたからだ。
「本当にやるのですか。せめて――せめてお味方が続かなければ意味がありません。しばしお待ちになって証人を立ててからの方がよろしいかと」そう進言した。
「いいや今だ。今しかない。まだ陣地ができていない今ならば間に合う。ここで手をこまねいてはあの山城が完成して戦いにならない」
「ですが!」
「くどい! 弓箭の道は先懸をもって死合いとする。ただ駆けよ!」
それを聞いた郎党たちも、「やるぞ、突撃だぁ!」と雄叫びを上げた。
もはや籐源太一人では止められない。
ならば――。
「ええい! すみませんでした! うおぉぉぉ!!」大声では野中長季に謝りながら駆け出した。
竹崎「五郎」季長の一世一代の突撃戦のはじまりだ。
唐津街道を駆け抜ける五郎たち。この街道は肥前国の唐津まで続いている。
そして目指すべき麁原山の南をちょうど横切っていた。
左手には潮風を遮るための防潮林が続いている。五郎は走りながら思案した。
「……旗指!」
「応!」
旗指である三郎二郎資安が応える。
「前を駆け、皆を先導せよ」
「応!」
そう言って旗指が先頭になる。
鎌倉武士の騎射は走りながらすれ違いざまに放つ。それは流鏑馬のように射ることが前提としてある。
そのため馬を操ることができない――そこで旗指が先頭に立つ。
彼らは得物を持たない代わりに旗を持ち、先頭を駆ける。馬たちはこの旗指を追うように訓練されているのだ。
「松原を突き進み、できる限り矢を避けよ。すれ違いざまに矢戦とする!」
「おうよ!」
五郎は街道を外れて防潮林である松林に入るように指示した。
そこは塩害を防ぎつつ適度な間隔によって馬でも駆けられる防潮林だった。
林の中を五騎が分け入る。
松林が左右に分かれていく。
麁原から響く銅鑼の音が大きくなってきた。
「どうやら敵が動いたようだ」
「五郎、上だ。矢がくるぞ!」
麁原から出てきた弓兵による一斉射だ。
「五郎、まるで雨のような矢だな」
「義兄上! この程度でやられないでくださいよ」
「ははは、お主こそ討たれるなよ!」
〈帝国〉の放つ矢雨であるが松によってそのほとんどが遮られた。
「資安、第二射が放たれると同時に奴らの前に出るぞ」
「応!」
「はは、目にもの見せてやる」
麁原山のちょうど南まで来たところで敵の第二波が襲ってきた。
「来た来た来たぞ!」
「今だ。右に駆けよ!」
「うおぉぉ!」
旗指に従うように四騎が二射目を回避して松原から出る。目の前には山城と集団で前進してきた〈帝国〉兵百名が列を組んで立ちはだかる。
最前列が垣楯を持ち、その後ろに槍兵、さらに後ろに弓兵が並んでいる。その見事なまでの隊列に驚く。これが〈帝国〉か。
「弓引けぇ!」あらんばかりに声を張り上げ、四騎が矢を放つ。
矢は垣楯を貫通して後ろの兵にあたる。
『ギャァァァァ!』
敵の悲鳴が聞こえた。
「おお、今度は矢が刺さったようだな!」
「敵も全員が綿襖甲というわけじゃないのだろう!」
「ひぃ、矢が、矢が!」
こちらが四本放つと、その十倍以上の矢が返ってきた。
「止まるなよ。止まったらめった刺しになるぞ!」
「ひぃええ!」と籐源太が怯む。
「駆け戻って一旦体勢を立て直してから、再び突撃する」
竹崎五郎は麁原の南から出て矢を数発放ち、駆けながら元来た小川の方へと戻っていく。
馬の脚力を生かした一撃離脱。
この戦術を何度もこなして味方が来るまで粘るつもりだった。
「よし、もう一度だ。もう一度行くぞ!」
「おお!」
――だが二度目の突撃の時にそれは起きた。
松林を駆け進んで敵の近くまで来たら一気に出る。
「なんだ? 松明?」
進行方向に松明を持った兵が数人いた。
その男たちが地面に松明を置くとそのまま走り逃げていった。
「ふはは、松明ごときで弓騎兵が止まるわけなかろう! 旗指そのまま進め!」三井三郎がいう。
「応!」
五郎は違和感を感じた。麁原を覆うほどの煙がいつの間にか消えていたのだ。
そもそも周囲に燃えた痕跡すらない。
何かがおかしい。
「義兄上!」五郎が忠告しようとしたその時――。
――突如、五郎たちと〈帝国〉軍との間に火柱が現れた。
「なんだっ!?」三郎が叫ぶ。
これはただ事ではない。
「いったん離れるぞ、全騎足を止めるな!」五郎が叫ぶ。
「くそっなんだこれは。なんなんだこれは!」
「噴火? 火山か!?」郎党たちも驚きを隠せないでいた。
五郎はみた。突如現れた火柱、松明を置いたところに丸い陶器があるのを。
「――っ!!?」
急激な方向転換、馬に負担のかかるこの動きによって旗指、三郎二郎資安の馬に異変が起きた。
「ぶるるるっ」突然、左前足が動かなくなり、足を止めてしまう。
「しまっ――」
そこへ矢が馬に矢が刺さった。『ヒイィィィィィィィィイン!』その馬の悲鳴と同時に跳ねまわる。
その勢いで資安が落馬した。
「しまった。五郎! 資安が落ちて――――っ!?」
資安だけではない。
三郎資長にも矢が刺さった。立ち止まった五騎に次々と矢が襲いかかる。
ついに一本の矢が五郎の馬にも刺さる。
『ヒイィィィィィィィィイン!』と叫びながら跳ねまわる。
「やられた!」
五郎は暴れる馬に必死に捕まる。そして『ヒュッ』と矢が胸と足に刺さる。
「ぐぅ――」
五郎も落馬した。
「はぁ……はぁ……くそっ」
五郎はすぐに起きようとしたが、足に矢が刺さり思うように立てなかった。
「くぅええい、この程度でっ――ぐぅ」
足を引きずりながら前に進む。
「籐源太! 義兄上と資安を頼む」
「五郎殿、一体何を!」
「いいから皆を後ろに下げるんだ!」
五郎はそのまま一人前に出た。
干潟の近く、塩屋の松の下。
目の前には燃え盛る火柱。
その柱の奥から〈帝国〉兵たちがぬっと現れた。
彼らの目には驚きも恐怖もなかった。
その時ようやく察する。そうかあの火柱はこいつらの秘策なのだな。
眼前には百の兵が規律正しく並んでじりじりと歩みを進める。最前衛は垣楯をもち、そのすぐ後ろの槍兵と弓兵が並ぶ。
「ははっ」
五郎は笑っていた。
そして――。
「かかってこい、拙者が相手になってやる」
竹崎五郎 対〈帝国〉兵約百名の矢戦のはじまりだ。
勝算は無いに等しいが、まだ十分戦えると確信していた。
〈帝国〉は弓兵を守るようにじりじりと近づいてくる。
最初からずっとそうだった、前列が垣楯、その後ろに主力である槍兵、後衛に弓兵。
このように配置する都合から矢は曲射で放たなければならない。
つまりこちらに矢が残っている限り、そうそう近づいてこない。
〈帝国〉の銅鑼の音と共に矢が雨のように降ってくる。
しかし空高く打ち上げられた矢は松の枝葉に遮られた。
一部は五郎に当たるが曲射による遠距離攻撃では矢から身を守るために作られた大鎧を貫くことはできなかった。
「そんな矢が通じる訳ないだろう!」
五郎は弓を引いて反撃に出る
五郎の矢が垣楯を貫く、瞬く間に悲鳴が上がり、兵団の動きが鈍った。
だが一矢報いれば十矢が返って来るのが道理である。
「うおおおおお!」
無数の矢が大鎧とぶつかり合い、火花を散らす。
膝を付きながら矢を放つが、ついに残り一本だけになった。
「最後、これは……鏑矢か」
鏑矢は敵を仕留める矢に非ず。これは矢の先端に筒状の笛のようなものが付いた特殊な矢で、主に戦場の合図のために使われる。
五郎は一か八か合図を送ることにした。弓を引き敵に、
ではなく真上に向けて矢を放った。
――フォン。
その独特な音が空を切る。
〈帝国〉兵も足を止め、上を見上げる。一部、その音に笑う者もいるが、大部分は何かの合図かと身構えた。
しかし何も起きなかった。
それもそのはずだ。この戦場には五郎たち五騎しかいない。
「もう矢はないが、まだ得物はあるぞ」そう言いながら刀を抜く五郎。
矢が尽きたと確信した〈帝国〉兵が前に出てきた。
およそ三十名。
まずは五郎をそして松林の中に逃げ込んだ残りを倒すつもりだ。
それに三十名も割くのは思いのほか粘った〈島国〉の武士に対する警戒からだと言える。
麁原山から銅鑼の音が鳴り響く。
「はぁ……はぁ……お前ら銅鑼の音のせいで『蹄の音』にまったく気づいてないだろう?」近づいた敵にそう言う。
瞬間、松林から旗指三郎二郎資安が旗を掲げながら走ってきた。
「うおぉぉぉぉ!」
「全騎突撃ぃ!!」
――その後ろから武者の集団を引き連れて。
それは重厚な鎧に身を包んだ鉄壁の重装甲。
それは集団で獲物を狩りとる鋼鉄の狩人。
それは幾万の敵と対峙しても恐れない死合いの狂戦士。
白石「六郎」通泰と手勢百余騎。
重装弓騎兵の突撃である。