弘安の役 分捕り
――東国、東北地方の山間部。
戦場である北九州からはるか遠く、人里離れた山奥に二人の御家人が鍛錬をしている。
「フゥゥ、はっ!」
「はっ!」
彼らは、その日も的を射る、という鍛錬に励んでいた。
一日のほとんどを同じ動作の繰り返しに費やすので、特定の筋肉だけが異常に発達している。
遠目からもその体格の良さがわかる。
盛り上がるほどの筋肉をすべて使い強弓とも呼べる弓を軽々と引く。
むろん馬に跨った騎射なのは当たり前である。
この二人の兄弟の名は「一郎」と「二郎」という。
二人は春先には山に入り、目覚めたばかりの熊を狩り、夏には素早い野ウサギを、秋には渡り鳥を射落として、その肉を喰らう――それも鍛錬の一環になるからだ。
冬になると薙刀や刀剣類の鍛錬量を増して、馬上稽古の量が減る。
そして身の回りの世話や土地の開発などはすべて郎党たちに任せていた。
二人にはさらに上の兄弟が十人いた。
長男の「太郎」は鍛錬一年目の冬の修行中に凍死した。
次男の「次郎」は落馬により事故死、三男の「三郎」以降も飢饉や流行病、未成熟による衰弱死など、死因は違うがおよそ半数が当時の衛生環境によって赤子の時に亡くなり、残りの半数は体格が貧弱だったために鍛錬中に死亡した。
この兄弟はそんな環境で大人になれた十一番目の「一郎」と十二番目の「二郎」になる。
彼らは有事の際にいつでも駆けつけられるように鍛錬をしていた。
この人生を鍛錬のみに捧げ、有事にその腕を披露する人生観を、彼らは弓箭の道と称する。
それがこの時代の普通の御家人、鎌倉武士と呼ばれる武士たちの生きざまになる。
――博多湾近傍の海上。
船の上で李進と竹崎五郎が戦っていた。
李進は打ち合うこと数合目にして力量差を痛感する。
突き、薙ぎ払い、小手先の技など多彩な攻めを行なった。
しかしそれらはすべて弾かれ、避けられ、いなされる。
目の前にいる大男――竹崎「五郎」季長もやはり五番目に恵まれた体躯を持って生まれた普通の御家人になる。
否、恵まれた体躯の持ち主しか生き残れないのだから当然である。
李進は御家人と真正面から相対するのはこれが初めてになる。
そもそも御家人一人を錬成するのに莫大な費用と時間を費やす関係から、御家人たちは遠距離戦である矢戦を基本とする。
彼らが真正面で接近戦になるのはほとんど勝敗が決した段階か、不意な遭遇戦がほとんどになる。
汗だくになりながらも李進は、自らの死は避けられないと覚悟した。
「そ、それなら……ふおおおお!」
突然の奇声に竹崎五郎も一瞬警戒する。
李進は五郎を倒すことをやめ、船内にいる味方がが駆けつけるのを待つことにした。
多数で取り囲み集団で圧倒する。
まさに〈帝国〉らしい戦い方を選んだのだった。
『来ないならこっちから行くぞ。ふんっ!』
「なっ!?」
その瞬間、五郎が左小手で槍を弾き一気に懐へ飛び込んだ。
李進は後ろに退いて、槍を捨てて手刀に手をかける。
『おんどりゃああ!!』
だが間合いを詰められた時点で詰んでいた。
李進の首から血がとめどなく流れ、彼は両手で傷口を塞ぐ。
全身から力が抜けて、そのままあおむけに倒れ込んだ。
「ひゅーひゅー……ごぷっ」
彼は薄れゆく意識の中、アラテムルと竹崎五郎の戦いを眺めていた。
「セイッ、ハッ、ダァッ!」
アラテムルも〈帝国〉式格闘術や大陸の剣技で腕を磨いた達人の一人である。
そもそも草原の遊牧民は幼少期から弓術、馬術、そして格闘術を習ってきた。
それは貴族だろうと王族だろうと一切変わらない。
「チッ何なのだ。この蛮族どもは」
数合打ち合ってから距離をとる。
アラテムルの顔にはまだ余裕があった。
そして、大きく息を吸って、奇声を上げた。
「ヒャウッ!!」
すると周囲の船に乗っていた弓兵たちが一斉に竹崎五郎に目がけて矢を放つ。
李進はこれがアラテムルの得意とする戦術だと知っていた。
アラテムルの直属の部下たちは彼と共に狩りに出て、この合図によって数多くの成功をおさめている。
そのため周囲の弓兵が敵を討つ合図に無意識に反応した。
彼らはすぐさま声の方角にいる敵目がけて矢を射たのだ。
複数の矢が竹崎五郎を襲う。
『ぐっ……!?』
その矢のうちの一矢が右手に深々と突き刺さった。
これでアラテムルの勝ちは揺るがない。
「ふふふ、余の勝ちだな。いかに強かろうと利き腕がダメになればそこまでよ。貴様ら〈島国〉は必ず打ち滅ぼしてやる。このようの手によってな!」
アラテムルも勝利を確信する。
そして持っている護身刀をまっすぐ首元に向けて止めを刺す。
――だが、竹崎五郎は矢が刺さった腕を動かして、まるで問題ないかのように刀で弾く。
そして大きく振り上げてから一直線に振り落とした。
『おんどりゃああああぁぁぁぁ!!』
「なっ!?」
アラテムルの護身刀は叩き落とされ地面に転がる。
と、同時に刀も転がった。
さすがに全力の叩きこみに刀が持ってかれたのだ。
「こんなところで、ふざけるな!」
アラテムルはすぐさま別の船に飛び移ろうと背を向けて逃げる。
五郎はそのまま覆いかぶさるように体当たりした。
この時、船の後部から別の武士が複数人乗り込んだ。
李進は乗り込んできた武士たちを――竹崎五郎と同じぐらいの大男他とを見て死を悟った。
「ヒューッ…………」
彼は首を抑えることをやめて、そのままこと切れるのだった。
〈王国〉李進千人隊長 討死。
アラテムルはもがいていた。
「なぜだ……なぜなのだ……天はなぜ余を見捨てた!」
大の男と鎧分の重量からどう足掻いても身動きできない。
周囲の味方が何とか矢を放つが、海上で正確に当てるのは難しい。
竹崎五郎は護身刀を拾いあげる。
「なぜだ……金印を余の下に届けたのは天命ではなかったのか……」
彼は天命を信じていた。
王族に生まれたのも、人質として最先端の軍事を学べる王都に行けたのも、目と鼻の先に理想の土地があるのも、すべては天がそうしろと言っていたからだ。
竹崎五郎は後ろから髪を引っ張り、顔を上げさせる。
「金印は……金印はどこだ…………余の、余の金印はっ!!」
すでに彼の天明は尽きた。
そう物語るかのように彼のすべてはあの嵐の日に無くなったのだ。
暴れるアラテムルに対して竹崎五郎が刃を立てる。
その時、脛当て兜の緒がゆるみ、脛当てが落ちていく。
『首だけもらう。覚悟!』
「ち……くしょ……」
――閏七月五日。
〈帝国〉東征左副都元帥 アラテムル 討死。
公式の死因 溺死。
生きの松原から竹崎氏の郎党たちが出航した。
肥田「二郎」秀忠、小野「大進」頼承、焼米「五郎」、宮原「三郎」、彼らは郎党の身であるが竹崎と同じく御家人としての鍛錬を積んだ武者になる。
水夫が力強く漕いで進む。
途中で野中「太郎」長季を拾い、そして師実を乗せて、玄界灘へと入る。
「見ろ! あそこに竹崎の旦那がいるぞ!」
「どこだ」
「ほれあの船だ!」
竹崎五郎は西郷隆政たちと共闘して東路軍の残党と戦っていた。
多勢に無勢であるが、何とか持ちこたえている。
「もっと急ぐのだ。一気に船を登るぞ」
「応!」
郎党たちが船に乗り込む。
それを見て竹崎五郎はニヤリと笑う。
「皆、よく来てくれた。敵を討ち取るぞ!」
「うおおお!!」
この日、撤退する〈帝国〉と〈王国〉の船団に対して、兵船による追い討ちがおこなわれた。
本来なら勝てないはずの海戦であるが、彼らは懸命に戦い次々と敵を討ち取る。
島津の船が追い付き、敵船の進行を止めるために横から衝突する。
そのまま島津兵が敵船に乗り込んで、敵兵を血祭りにあげていく。
そこから遅れて安達、少弐、そして自力で漕ぎだした兵船も戦いに参加する。
この戦いで、敵の本隊は取り逃がしたが最後尾の集団、そのほとんどを討つことに成功する。
それは閏七月五日、日が沈み始める夕方の出来事であった。
蒙古襲来絵詞の絵十七
通説は御厨半島での海戦となっています。
書かれている文章から酉の刻(夕方)なので、生きの松原から出向して夕方までにたどり着くという厳しい内容になってます。
これに異を唱えたのが「蒙古襲来と神風」の著者で、たぶん博多湾を出てすぐに襲ったのだろうと唱えています。
本小説では後者を採用しています。
面白いのが竹崎五郎の足元に刀一本と槍一本が落ちていることです。ここから二対一、あるいは槍兵とタイマンで勝利したと思われます。
あと矢が刺さった右腕で首取りしたり、脛当て兜が落ちる瞬間だったりと見ていて面白いです。
こちらは絵十三
蒙古襲来絵詞で唯一、五郎が体験していない絵だと思われます。
綴りに閏七月五日、御厨海上合戦に押し向かうと書かれています。
この御厨がどこの御厨なのか現状不明になっています。
ちなみに史実のアラテムルは人質なのに遠征に参加して溺死して史料がほぼ存在しない可哀そうな人となってます。




