弘安の役 大撤退
嵐が過ぎ去った翌日。
空は青く入道雲すらない晴れ晴れとしていた。
しかし暴風が吹き荒れた影響で波は高く、決して穏やかとは言えない。
――閏七月二日。
〈帝国〉は大混乱に陥っていた。
鷹島沖の船団の被害は想定よりもはるかに大きかった。
沖にはうち捨てられた船の残骸と江南兵の亡骸で埋め尽くされ、船団は身動きが取れなくなるほどだった。
マハマドは氾文虎将軍と合流して、次の指示を仰いだ。
彼の上陸船は御厨半島にいたおかげで航行できない事態だけは避けられたのだ。
「今はマハマド将軍の船だけが動かせる状態だ。そこで貴殿には急ぎ大都に行き、この惨状を報告してもらいたい」
それは戦線からの離脱を意味する。
そして妻である張氏の捜索を諦めろ――暗にそう告げていた。
マハマドは一呼吸沈黙したのち辛うじて口を開き答える。
「わかりました。今すぐに大都へ向かいます……」
この連絡はただ単に敗戦を報告するわけではない。
〈帝国〉と〈王国〉が負傷者を受け入れる準備、つまり兵糧から医者そして寝床などの用意させるために必要なことになる。
一個人の問題で遅らせるわけにはいかなかった。
「出航せよ!」
マハマドの船が鷹島から出航する。
ゆっくりと残骸や岩礁に細心の注意を払いながらの航海である。
潮の香りがする――亡骸はまだ新鮮で、ついさっきまで生きていたことを物語る。
それにより一層の不気味さと現実に対する拒絶感が湧き上がる。
それでもマハマドは海を見渡していた。
ふと、見覚えのあるマストが見えた。
小さな島の浜に打ち上げられたそれは、旗の紋章から自船のマストだと分かる。
その時、帆が動いた。
そして一人の女性がそこから現れた。
マハマドは随伴していた小舟に乗り込み、水夫に命じる。
「すぐに船を出せ!」
船はすぐに島に着き、そして上陸した。
二人は何も言わずにただ抱きしめ合う。
マストがなびき、世界は白く染まる。
「よく、よく無事だった」
「あなたを想い。この印を必死で守っていました」
「印など所詮は道具だ。お前が無事なのが何よりだ」
マハマドは大都へと赴く。
その道中は衰弱した張氏に付き添い、片時も離れることはなかった。
死がふたりを分かつまで二人は寄り添い続いたという。
博多湾でも救助活動が続いていた。
「……救援」
「ハッ! 現在、博多湾一帯は波が高い。しかし金周鼎将軍は兵の救助を優先すると仰っておられる」
「わかりました。全員積み荷を捨てて、船を軽くせよ。そして兵を乗せるのだ!」
「……出航」
「出航せよ!」
「おお!」
金周鼎は沈没して漂流していた兵たちの救助に乗り出した。
その結果、漂流していた兵四百余を救出することに成功した。
その中に李進を含めたアラテムル子飼いの兵たちも含まれていた。
「ぷはっ、いや……ほんと……た、たすかりました……へへ……」
「……アラテムル殿は?」
「そ、その……残念ながら…………」
「……………………了解」
金周鼎はこの救出された兵たちに数隻の船を与えた。
都合よく船があったのは連戦による死者の増大で船あまりになっていたからだ。
金周鼎はこの時、対馬と壱岐島の焦土作戦に参加した兵とそれ以外の兵を分けることにした。
前者は李進千人隊長に任せ、後者は自分の受け持つ船に乗せたのだ。
これは彼が虐殺や略奪に不快感を持つ、彼個人の人間性ゆえの判断である。
――閏七月三日。
被害者の救出と被害状況の確認が終わり、志賀島、鷹島、平戸島とで連絡船が行き交うようになる。
平戸島に陣を敷いていた都元帥・張禧と諸将が氾文虎将軍と今後の方針を打ち合わせた。
「海に投げ出された兵の溺死者は多く、およそ半数に及んでいる。しかし生き延びた者は言い換えるなら屈強な戦士のみとなる。船の多くを失いもはや帰還できると考えるものはいない。ならばこそ敵の兵糧を奪いながら前進を続けて、戦い続けましょう」
主戦派の意見は失った兵糧は戦いながら手に入れる。
兵の士気は敵地にいるのだから高い。
この主張は七年前に金方慶が撤退前に言った事と同じである。
〈帝国〉以外ではこのような孫子の兵法を曲解した軍事戦術が横行していた。
むしろ〈帝国〉だけが他の追従を許さない近代戦術に則った戦ができたとも言える。
氾文虎はこの主張を出航から一月もせずに成果なく帰る罪を恐れての発言だと思う。
諸将たちの顔には血気盛んな猛者のそれではなく、厳罰を恐れる新兵のそれと同じだった。
「帰還した際に罪に問われるのは私だけだ。貴殿が、そして皆が罪に問われることはない」
ここに至るまでの長々と続いていた議論は全責任を氾文虎が負うという宣言によって終える。
軍議が終わってすぐに志賀島から伝令がやってきた。
「クドゥン将軍から連絡です。撤退をする場合は八月五日に全船団同時撤退を主張しています。それまでにすべての準備を終えるように、とのことです」
同時に撤退するのは一日でも遅れればそこへ〈島国〉の武士たちが大挙して押し寄せてくるからだ。
そして五日に撤退するのはそれ以上日にちを伸ばせば、やはり相手の攻勢準備が整うことになる。
最も被害が少なく撤退できる日、それが五日になる。
「くっ……すぐにでも撤退の準備を始めるのだ!」
氾文虎主導のもと撤退の準備が始まった。
――閏七月四日、早朝。
張成は何とか撤退の準備を進める、しかし現実の被害状況から焦りが出る。
「船の数が足りなすぎる。何とかならないのか!」
「ダメです。思っていたよりも小舟の損失が多すぎます!」
〈帝国〉の船団のうち、海洋航海用の大船と上陸・輸送用の小舟の比率はおおよそ一対三程度だった。
このうち、小舟の被害がもっとも多かった。
これは嵐のなか無理に船を乗り換え鷹島を目指したせいである。
そのような無謀な事をすれば波で煽られた大船と接触して、その質量によって粉砕するのは当然のことだった。
「チッこれなら大船を見捨てたほうが――いや、どちらにしても同じか。何を選んでも正解がないなら、ただ自分を信じて進むまでってか」
「お、そりゃいいな。俺はそういう生き方が好きだぜ!」
「翔はまず手を動かせ。生き様はあとで見てやるから今は手を動かせ」
「わかったぜ兄者!」
張成は船内の武器防具、さらには兵糧に至るまで、不要なものを小舟に満載させた。
そして鷹島にそれらを捨てて、代わりに兵を逐次乗せていった。
――閏七月五日。
氾文虎は遅々として進まない兵の乗船作業から一つの決断を下すことにした。
「クドゥン将軍の配慮を無下にすることは申しわけなく思うが、このまま兵を全員乗せるまでここに留まる。指示した通り、将校たちの乗船は一番最後とする。いいな」
「ハッ! わかりました」
南宋軍の将校たちは未だに鷹島から動かなかった。
そうすることで兵たちの不安を払しょくし、不平を抑え込んでいた。
氾文虎は一般兵の信頼が低い将軍であるが、人の上に立つ者として確かな采配を振るった。
「それから戦の準備を整えておくように」
「!? それはまさか」
「貴殿らには迷惑をかけるが、我らが攻めることにより少しでも敵の襲撃を遅らせるのだ」
「わかりました。ええ、わかりましたとも、どこまでもお供をいたしましょう!」
同胞である南宋兵を見捨てない。
そのために武士たちと死闘を繰り広げることになろうとも構わない。
それは名宰相と言われた賈似道に認められた男の一つに決断であった。
だが――。
「そいつは困るな」
その一言で、すべてが一変する。
「貴殿は――アタカイ殿!? どうしてここに!」
氾文虎の船室にアタカイと屈強な兵十数人が入ってきた。
そしてアタカイは顎を撫でながらニヤリとしていう。
「なに、裏でこそこそ動いてるヤツを出し抜いてやったまでよ」
そして聞いてもいない事を喋りはじめる。
「印鑑というのはいいものだ。なにせ部下に渡して任せれば、本国にいなくてもいいからな」
「言いたいことはありますが、今は兵を一人でも多く救うことが第一です。貴殿がどのようにしてここに来たかは後にしましょう」
アタカイは深くため息を吐いて、淡々としゃべる。
「お前のやり方では誰も救えん。だからワシが新しい命令を下してやろうというのだ。今すぐに将校をあの島から乗船させて撤退するのだ」
そのような事をすれば、置き去りになると悟った兵たちが暴動を起こす。
つまり残りの兵を見捨てると言っているようなものだった。
「な!? 何をバカなことを、それでは十万は居るであろう兵が取り残されてしまう!」
「それがどうした。たかだか十万程度、将校一万の方がはるかに重要だろう」
その言葉に氾文虎が激怒する。
「貴様! それが人の上に立つ――ガハッ!?」
だが言いきる前にみぞおちを殴られ、兵たちに取り押さえられた。
氾文虎にとって撤退作戦の目的はできる限り多くの救出となる。
『人こそが国の礎である』
義父である賈似道の信念であり、だからこそ氾文虎は軍の汚れ役を買って出てきたのだ。
それは名君と臣民たちの理想を基準とした判断といえる。
アタカイは「くだらん」と冷たく言い放つ。
〈帝国〉にとってその選択は悪手以外の何物でもなかった。
この国の軍制は十人隊長の上に百人隊長、その上に千人、万人隊長を置くという近代的なものとなる。
つまり全軍の約一割以上が将校であり――彼らさえ無事ならいくらでも軍を再編できる。
軍事大国にとって将校を一定数以上確保している事こそが重要であり、それを怠ると反乱と滅亡が現実のものとなる。
この撤退作戦の〈帝国〉軍人の答えは唯一、将校の救出と早期撤退、それ以外ありえないのだ。
「このバカを船倉に放り込んでおけ」
「待て……待ってくれ!」
氾文虎の悲痛な叫びを無視して話を進める。
「準備はできているか?」
「もちろんでございます。ここに将校を優先して船に乗せる命令書を用意してます。後は氾文虎将軍の印を押すだけです」
「なら、さっさと進めろ」
「御意」
船室の机に置かれている印鑑を使い、命令書を発行する。
「……やめるのだ。そんなことをすれば暴動に…………貴殿はなぜそれが分からないのだ」
「ふん、お前こそわからん奴だな。その辺にいる男に武器を持たせたのが兵であり、それはいくらでも補充できる。だが将校は例え十人隊長であっても錬成するのに何年もかかる。秤にかけてどちらが重要か誰でもわかるだろう?」
「お前は……お前たちは……それだから……むごむごっ」
氾文虎は猿ぐつわを無理やりかまされ、そのまま奥へと連れていかれた。
「ふん、これだから亡国の滅びの美学というのはよくわからん」
「まったくでございます」
部下たちも相づちをうつ。
「いいか。あの男にはこの敗戦の責任を取らせないといかん。死なないように常に見張っておけ」
「ハッ!」
その後すぐに氾文虎から奪った印を使い新しい命令が鷹島にいる全軍へと伝わる。
そしてほどなくして全将校が乗船を開始すると、氾文虎の懸念した通りに暴動が発生した。
「バカ野郎! これ以上は乗れない!」
「うるせぇ! お前が降りろ!」
数少ない小舟に人が群がる。
まさに生死を賭けた見苦しいまでの醜態がそこにあった。
ある者は沖合の艦隊まで泳いで渡る。
またある者は泳ぎの上手い人にしがみつき、共に海の底へと沈む。
浮いている木片から死体まで何かに捕まって船へと向かう者もいた。
張成はその暴動が起きている浜から船を出したところだった。
彼は南宋の同胞たちを救うために船を出したていたのだ。
だが殺到する人が多すぎて収拾がつかなくなった。
「おい、もうこれ以上は乗れない。その手を放せ!」
「死んでも……放さん……」
「翔何とかしろ!」
「兄者、ダメだこいつ等全然はがれない!」
張成の船に十人以上の暴徒が手をかけて船に捕まっている。
その人たちにさらに何十人もの南宋兵がしがみつく。
しまいには浜にいる者たちが引っ張って、船を陸へ上げる勢いとなる。
「いつものバカ力はどうしたっ!!」
「殺しちゃってもいいのか?」
「いい訳ないだろ。そしたら俺たちもあのクソ野郎と同じになっちまう。そこだけは譲れないね」
張翔は引きはがすのを諦めて浜を見る。
兵たちが続々と押し寄せようとしていた。
「おい、何ぼさっとしてるんだい!」
「兄者……俺はガキの頃に山賊まがいのことして、それをぶっ叩いて一緒に軍に入ってくれた兄者には感謝してるんだ」
「はっ? 今さら何を……」
張翔は義兄の方を向いてニヤリと笑う。
そして必死にしがみつく暴徒たちの方へ走って飛び込んだ。
「うわぁぁぁ!!?」
「オラ、いい加減諦めろこのバカ野郎どもがっ!!」
張翔は船にしがみつく兵たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、兵たちを浜に押しとどめる。
「翔ーー!!」
「ガハハハッ! 兄者、達者でなーー!!」
大男が大笑いしながら手を振るのだった。
その顔は波しぶきで濡れてぐちゃぐちゃになっていた。
「このバカ野郎ーー!!」
張成もまた波しぶきで顔が濡れ、ひどく歪んでいた。
鷹島からほぼすべての将校が退避すると船団は出航した。
島からは怨嗟の念と泣き叫ぶ声がいつまでもこだまする。
閏七月五日早朝、鷹島の西の浦から将校一万を乗せて〈帝国〉の船団は撤退を開始した。
島には六万とも十万とも言われる兵が残されることとなった。
その実際の人数は混乱の最中誰にもわからなかった。
この撤退の様子は武士たちも目撃しており、早馬により博多湾にも伝わる。
そして武士たちの追撃戦が始まった。
その中に、竹崎「五郎」季長の姿があった。
元史の氾文虎は早々に降伏して国を裏切り、弘安の役では兵を見捨てて我先にと撤退しています。
通説では東路軍と合流しているはずなのに軍議は江南軍のみだったり、撤退も独断で行いなぜか全員従ったり、兵を置き去りにすると決めているのに将校が船に乗るのが撤退当日だったりと、東路軍が別の場所かつ途中から別人が指示したかのような違和感が結構あります。
本小説ではこの違和感が人間ドラマになるようにしました。




