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弘安の役 東南の風

 閏月(うるうづき)とは月の満ち欠けを基準とした太陰暦において数年に一度同じ月を繰り返すことによる季節の調整のことである。

 これは月基準の一年が三五四日だったために起きた現象になる。


 閏月をいつどの季節に入れるかはその国々に決定権があるが、小国は大国が決めた太陰暦を採用する傾向にある。

 逆にいえば、これを決定できるということは天文学が高度に発達していて、独自の文化を歩んでいる証左でもある。



 和暦:弘安四年()七月一日、帝国歴:至元十八年八月一日、グレゴリオ暦:1281年8月16日。



 まるで運命かのように〈帝国〉との暦が別れたこの閏月に嵐が訪れた。






 ――博多湾、沿岸。


 大雨は前日よりさらに滝のように降りそそぎ、風はすべてをなぎ倒さんと吹き荒れる。

 そんな悪天候の中で武士たちは兵船の陸揚げ作業をしていた。


「五郎! 急がないと沖に流されるぞ!」

「わかっている。皆の者、甲冑を脱いで兵船を担ぎ、陸揚げするのだ!」

「おお!」


 竹崎五郎と郎党たちは疫病や連戦による怪我から回復していた。

 この博多湾で蔓延した疫病が終息するのにおよそ二か月かかったことになる。

 彼らは療養中に次の海戦に備えて兵船を用意していた。


「よし、押せ押せ!」

「せーの、応! 応! 応!」

「ダメだ。人手が足りなすぎる」


 五郎たちは生の松原――つまり安達氏の石築地敬語を担当している。

 だが急遽、鷹島の敵増援への対応に人員を割かなければならず、兵が分散して人手不足に陥っていた。

 思うように陸揚げができず、五郎は内心焦っていた。


「もっと力を込め、一気に引き上げるのだ!」

「応!」


「どうやら手こずっておるようだな」


 五郎たちの現場に隣の石築地を守っていた菊池一門の西郷隆政が手助けに来た。

 彼は郎党数人を連れて安達の兵船の陸揚げを手伝う。


「これは隆政殿かたじけない」

「ははは気にするでない。ここで見て見ぬふりをしては野中殿に小言を言われるからな」


 西郷隆政はこの二カ月の間に大いに語らい、親交を深めていた。

 この弘安の役が始まる前にあった菊池一門とのわだかまりはすでに無くなっていた。


「ところで野中殿は何処に?」

「あの人なら向こうにいたはず――噂をすればなんとやら」

「こちらは終わったぞ。む、隆政か!」

「手伝いに人を連れてきた!」

「よし、この船が最後だ。皆力を合わせよ!」

「応!」


 船は裏返さないと内側に水が溜まり、とても持てなくなる。

 裏返したうえで全員が、そして何人かは中から手を携え持ち上げる。

 強風の中、もたつきながらも船を移動させた。


「ぜえぜえ、何とか避難できたか」

「見ろ。海が見えなくなっておる」


 武士たちが博多湾を見る。

 その凄まじい雨量から志賀島どころかすぐ目の前すら見えない。

 ただ大波の影だけが辛うじて見ることができる。


「〈帝国〉の奴らがどうなったのかまるで分らんな」

「ああ、だが一つ言えることは――これはただじゃ済まないということだ」


 武士たちはただ嵐が過ぎ去るのを見る事しかできなかった。







 ――志賀島。


 クドゥンは鷹島での軍議を終えて、先に志賀島へと戻ってきていた。

 嵐の前に島に上陸することができたのは彼にとって幸いだった。

「これはいけませんね。王某さん状況を教えてください」

 今までになく真剣な面持ちで報告を促す。


「ハッ! 船団は嵐を考慮してそれなりの間隔があり、互いにぶつかることは無いと思われます。それから張成兵長の進言に従い、どの船にも重りを載せているので喫水線が上がって安定しているはずです」


「そうですか。ならいいのですが……」

「ただ、この島も各所で水害が起きています。予断を許さない状態には変わりありません」

「わかりました。それにしても、我らはもしかしたら天に見放されたのかもしれませんね」


「…………」


 王某はそれに対して何も言えなかった。

 前兆なく突然やってきた嵐に王某自身もそう感じてしまったのだ。



 志賀島に流れる川の水位は一気に上がり、どの道もふさがり孤立状態となる。

 そこへ更なる打撃が入った。


「崖が崩れるぞ!」

「逃げろ逃げろ!」

「う、うわぁぁ!!」


 各地でがけ崩れや崩落が起きたのだ。

 貂鈴が隠した石の箱が崩れた土砂によって地中深くへと埋もれる。

 金印は長い封印の時が訪れたのだ。


 この印が再び歴史の表舞台に姿を現すのは五百年後。

 とある百姓が農業開拓中に偶然見つけてからになる。


 後の世にこの謎多き金印は「漢委奴国王印」と呼ばれるようになる。




「おい耳を澄ませてみろ。海から救援の銅鑼が鳴っているぞ」

「あの方角はアラテムル副将軍の艦隊だ」

「ダメだ。ここからじゃ何も見えない。一体何が起きてるんだ!?」







 ――博多湾海上。


 アラテムルの〈王国〉船団は江南軍の大軍受け入れのために他の船団と距離を置いていた。

 そして夜襲を警戒して船を密集させていた。

 そのため船同士が激しい音を鳴り響かせながらぶつかり合う。


「きゃあ!!」


 貂鈴は浸水の恐怖から船室を抜け出して、屈強な兵たちが右往左往するなかを縫うように外に出た。

 彼女が見た光景は今まさにアラテムルが乗っていた旗艦が沈む姿だった。


「だれか副将軍が脱出したのを目撃したか!」

「いえ、確認できませんでした!」

「誰か次の、次の指示をくれ!!」


 船上で慌てふためく兵たちが狼狽する。


「何を手をこまねいてるのです。この船は沈みます。早く上陸用の船に乗り込みなさい!」

「――ッ!?」


 混乱する兵たちは彼女によって我に返る。


「そ、そうだ。早く船に乗りこめ!」

「いかん。船がぶつかるぞ!」


「きゃっ!?」


 貂鈴は海へと投げ出した。

 船がぶつかったからではない。

 何者かが後ろから押したのだ。


「おい、あんた今後ろから……」

「兵隊さん。私怖いの、どうかその船に乗せてくださいまし」

「きゃーたすけてー」

「あら、よく見るといい男ね」


 アラテムルの侍女たちが数少ない兵船に乗るために必死に男たちにすがりつく。

 そうしないと兵たちは船内にいる兵を乗せて、彼女らは沈みゆく船と運命を共にすることになるからだ。


「ぷはっ」


 貂鈴はたまたま浮いていた龍の彫られた机にしがみつく。


 草原を移動する遊牧民にとって軽い木材の家具は重宝する。

 積載量に上限のある輸送船ならなおのことだ。

 そのおかげで沈んだ船から家具が浮かんできた。


「はぁはぁ……いけない……」


 貂鈴は兵船に乗り込む兵と侍女たちを見る。

 他の兵を尽き落とす者、女を抱きかかえる者。

 生と性が入り交じる極限状態の縮図がそこにあった。


 その侍女のうちの一人が上陸船から貂を見つけ、今にも沈みそうな貂鈴を見て口元を抑えつつも笑う。

 そこには出自の違いによる劣等感と、沈みゆく彼女を見下せる優越感、その自身の卑劣感などがないまぜになっていた。


「おい、船がぶつかるぞ!」

「挟まった。誰か助け……」

「ぎゃあああ…………」


 その船は大型船の間に挟まり、轟音と共に押しつぶされる。

 貂鈴が目を見開いた時にはすべてが海の藻屑となった後である。


「そんな…………」


 嵐の中、彼女は何とか岸に上がる術を考えた。

 辺りを見渡すと一人、溺れている人を見つけた。


「こっちへ、この手に捕まって――」

「ぶはっ」


 海中から姿を現したのはアラテムルだった。

 彼は木の板にしがみつき、そして――。


「ジャマだオンナ! 離れろっ!!」

「きゃああっ!」


 アラテムルは貂鈴を引きはがした。

 彼女は海に投げ出され、そのまま荒波に飲まれる。



「はぁはぁ……余がこの程度で、まだ国を手に入れて無いのに、死んでなるものか……」


 周囲に展開していた船団はそのほとんどが海に沈んだ。

 全てを失った彼の前に大波が襲い掛かる。

 アラテムルは天を睨み、声高に叫ぶ。


「はははははっ! 天の試練か! いいだろう余がこの逆境を乗りこえた時こそ――」


 大波が崩れ波しぶきがアラテムルを洗い流す。


「ぐわああ…………」


 アラテムルは嵐の中で姿を消した。






 ――鷹島。


「張成兵站兵長殿! 東南方向からの風が激しく、船が揺れています!」

「大丈夫だ。このぐらいの嵐で沈んだりしないよ。ちゃんと船の距離は確保してあるし、重りもそれなりに積んでいる。それから管軍上百戸兵長な。まあ呼びやすいほうでいいけど、この辺しっかりしてないと王某将軍あたりにどやされるぞ」


「兄者大変だ! 他の船からどんどん兵が降りて鷹島へと向かってるぜ!」

「なんだと!?」


 いくら嵐の対策をしていても船に乗るのは人である。

 激しく揺れる船に乗り続けることが限界に達する者が出てくる。

 一隻また一隻と島へと船を出せば、その後に皆が続くのは仕方のない事だ。


「おい、俺たちも島に避難したほうがいいんじゃないか!」

「そうだとも早く移動しよう!」


「バカ言うんじゃねぇ。そんなことしたら船が浮いて横風で簡単に横転しちまう。バカ言ってないで船内に入りやがれ!」

「そう言われても――こんな船の揺れに耐えられません!」

「おい、見ろ! 船が沈むぞ!」


 大勢の兵が一斉に降り、軽くなり重心が上にあがり、残りの兵も下船しようと片側に集まり、横風に煽られて横転する。

 まさに船が横転する原理が働いたのだ。


 そしてたった一隻でも船が沈めば、江南軍が制御不能に陥るのに十分だった。


「船が沈んだぞ!!」

「逃げろ! 鷹島へ避難するんだ!」


「バカ野郎、そんなこと許すわけないだろう。おい、翔! このバカ共を船倉に放り込め! 抵抗するならボコして構わん!」

「兄者さすがに仲間を殴るのは気が引けるぞ……」

「いいからやれ。船が沈んだら手遅れだ!」

「わかったぜ。それじゃあ、お前ら恨むなら兄者じゃなく俺を恨めよ」


 張翔は船上で暴れる兵たちを片っ端から船倉へと放り込んでいく。


「ぎゃあ! この張翔のバカが!」

「ダメだ……船と沈むんだ……」

「諦めるな全員であのバカを叩くぞ!」


「来るならこい。兄者の言うことを聞かんバカに負けたりはしないぜ」

「張翔殿、兵站兵長殿の命に従いご助力いたします」

「おっしゃ、俺たちも一暴れしてやる」


 船倉では張成派と下船派による大乱闘が始まった。



 張成は水夫を集めて次の指示を出す。


「いいか、お前らはこれから鷹島へ向かって兵たちを説得するんだ。ダメそうなら代わりに島にある物を片っ端から略奪してまだ助かりそうな船に乗せていけ。わかったな!」

「俺たちも水夫の端くれだ。荷のない船がどうなるかぐらい知っている。任せてくれ」

「よし、行け行け行け! 船さえ残っていれば何とでもなる」


 冷静で勇敢な水夫たちが鷹島へと向かう。

 彼らは他の水夫を説得し、兵を使い鷹島から石など持ち出せるものを運び出した。


 およそ目に付く運び出せる物を持ち出して、それをまだ救える船へと順に載せていく。





 十分な間隔をあけずに被害が増す船団もあった。


 マハマド将軍の妻である張氏の乗船する船がそうだ。

 隣の船とぶつかり、船内の側面――至る所から水が流れ込んできた。


「張氏様。この船はいつ沈んでもおかしくありません。すぐに避難を!」

「私はあの人を待ち続けます。何があろうと私はここで夫の帰りを待ち続けます」


「わかりました。失礼!」


 彼女の鋼の意志を理解し、しかし生き延びたい兵たちは彼女を置いて船を降りていった。

 一人船の中に残った彼女はマハマドから預かった総把印を大事に守り続けた。

 彼女は大丈夫、大丈夫だから、と心の中で祈り続ける。


「――ッ!?」


 そこへ二度目の激突が起こり、轟音と共に脆くなった船の中心から真っ二つに割れた。

 彼女は一瞬で海へと投げ出されるのだった。


「がはっ! ごぼ……ぼほ……」


 必死に手足を動かし、船の折れたマストにしがみつく。


「はぁ……はぁ……」


 その時見た光景はこの世のものとは思えない悲惨なものだった。


 その嵐によってできた波はまさに山の如き大波となる。

 船はことごとく破壊され海の藻屑となる。

 船に乗っていた兵士たちは海中へと飛び落ち、彼らは大声で叫ぶが波に何度も飲まれ、海中へと消えていく。






 ――玄界灘、海上。


 嵐を逃れた者もいた。最後の船団である江南軍の都元帥・嚢加歹ナンギャダイはまさに九州へと向かう途中だった。


「将軍、これより先は大嵐です。進めば嵐に巻き込まれて、我が船団は海の藻屑となります」

「…………」


 ナンギャダイは強風の中、遠く九州の地を見る。


 嵐だ。


 このまま進めばみすみす兵を死なすだけだと悟る。


「仕方ない。全船反転、帰還する」

「ハッ! 反転して帆を張れ!」


 ナンギャダイの船団は島へは至らず、本国へと帰還した。

 


 嵐は丸一日、〈帝国〉の船団を蹂躙した。

 大船を中心に千を越す船が被害を受ける。

 兵たちは皆茫然自失となったのは言うまでもない。


 閏七月一日、この日を期に戦争は急速に終結へと向かう。


船の沈没理由の通説は新旧合わせていろいろあります。

旧説は高麗王国の粗製乱造説で手抜き工事、突貫工事という説です。これには証拠がなく、しかも東路軍の被害が少ないという史料が存在する。さらに沈没船の調査結果からもほぼ間違いだと結論付けられています。


新説は老朽船だった、積載過剰だった。さらに船がぶつかり合うという史料の記述から、船は間隔が狭かったからと複数の要因による沈没説が提唱されています。



本小説では新説よりですが、さらに具体的な船の横転メカニズムをそのまま採用しています。つまり兵の移動で重心が上になった時に横風でコロリしたということにしました。

こうしないと鷹島に大量の兵が上陸しているのが説明つかないんですよね。


なお台風という明確な根拠が存在しないので一貫して嵐としています。

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