弘安の役 撤退会議の裏で・・・
六月十五日。
「もう一度言うぞ! すでに六月十五日、壱岐島にて主力である江南軍と合流する予定の日になっている。しかし未だに援軍の到着はしていない。で、あるならばここは一旦撤退するべきだ!」
洪茶丘が声を荒げて撤退を強く主張する。
〈帝国〉軍は志賀島から先へ進めない状態になってすでに五日経過している。
その間に疫病は多少改善したが、それでも軍全体の士気は低下している。
「………………」
洪茶丘の主張に対して金方慶は沈黙を回答として、議論が一切進まない状態になっていた。
「貴様っ! 何とか言ったらどうなんだ!」
「お前の軍は悪食が祟って疫病が蔓延したと聞いているが、存外元気そうだな」
金方慶はまったく興味なさそうに、淡々と意見を言う。
それを聞いて顔が真っ赤になり激昂した。
「ふざけるな!」
「まあまあ、洪茶丘さんも少し落ち着いてください」
クドゥンが二人の間に入って仲裁する。
この軍議には千人隊長以上、または重要な任務を帯びている兵長なども参加している。
その将校たちでも意見が二分している状態になっている。
「撤退か残留かどちらかを選ばなければなりませんが、今ある問題がいくつかあります」
そう言ってから王某の方を見る。
王某はその目配りに合わせるように言葉を引き継いだ。
「ハッ、主な問題は二点になります。一つは船が腐り始めている事、これは敵の矢が船の外装に刺さったことで引き起こされています。もう一つは兵糧が半分ほど尽きています」
そこで将校たちがざわめく。
口々に撤退をするべきだろうと言い始めるのだった。
「………………」
だが、またしても金方慶は黙して何も語らない。
そのやりとりの一部始終を見ていた張成は違和感を覚える。
前日には問題点を全て報告し、それでもクドゥンは撤退ではなく残留を前提とした兵站計画を練るように指示していた。
ところが今はそのクドゥンと洪茶丘の二人が撤退を強く支持しているのだ。
「……後で考えが変わったのか? それとも……何か別の意図があるのか? ……なんにせよ新しく完全撤退の計画を作ったほうがいいか……」
張成以外にも違和感を覚える者がいた。
それは李進という男だ。
彼もまたこの軍議での主張がオカシイと感じていた。
「へ、へんだな……確か昨日お会いしたときに金方慶将軍も船が腐り、疫病が蔓延し、これ以上の継戦は難しいと仰っていたはず。〈王国〉兵たちも撤退すべきと言ってたのに……」
――それがなぜ徹底抗戦になるんだ?
李進は軍議を開催しているゲルからそっと離れた。
そして同じ上級将校たちの駐屯所にある別のゲルへと入っていった。
中ではアラテムルが一人だけ書類の整理をしている。
「アラテムル様、今日の軍議も平行線をたどったまま物別れになりそうです」
「そうか……それにしてもよくもまあ、無意味な会議を永遠と続けられるな」
「はぁ、あのアラテムル様は参加なさらないのでしょうか」
「ああ、余はああいう書記に記録される会議には出ない方がいいのだよ」
アラテムルのような〈帝国〉貴族であると同時に人質という王族は非常に難しい立場にある。
何らかの発言をして問題が起きたとしても責任を追及できないし、だからと言って存在しないかのように扱うこともできない。
結局、軍議には参加せずに決まった方針に従う、という体になる。
「代わりに金方慶が余の代弁をするのだがな」
「なるほど」
それを聞いて李進も得心がいった。
金方慶はアラテムルの代理人であり、自らの考えを喋るつもりは最初からないのだ。
そして当のアラテムルはまったく動こうとしない。
――この御方が待っているとすれば江南軍の到着になるか。
ならば金方慶は時間稼ぎをしているだけになる。
「もっとも金方慶と洪茶丘では余の意向とは関係なく、いつまで経っても議論が終わることはないだろうがな」
「ああ、険悪ですからね、あの二人は……」
「くくく、李進よ。金方慶が首に赤い布を巻いているのはなぜか知っているか?」
「詳細は知りませんが横領……いや皇帝陛下がお許しになったので何ら落ち度が無いというか、なんというか……」
「いいや、合っているぞ」
「へ?」
「事の発端は七年前に兵の装備を横流ししてそれが露見したことにある――」
アラテムルは不敵に笑いながら続けて話す。
金方慶は着服した罪で〈王国〉の諸将に告発された。
その注進にかねてから敵対的だった洪茶丘が〈帝国〉将校として受理し、皇帝陛下への背信行為として動き出した。
「それが六年前の横領罪で捕まるまでの経緯だ」
「ええ、それは風の噂で聞いたことがありやす。たしかその後、引き回しの刑と鞭打ちの刑になったって今でも噂になってます」
「そうだ。その時に針金を首に巻いて引き回されて――今は傷を隠すために赤い布を巻いている」
「ああ、そうだったんすね……ってそれじゃあ処刑されるんじゃないでしょうか?」
「そうだとも、拷問を受けた後に島流しになり、皇帝陛下直々に裁判を行うはずだった――」
李進はこの時、もう一つの黒い噂を思い出した。
裁判直前になり横領罪で告発した諸将が全員不審死して、証言者不在から無罪放免になった。
それは金方慶が牢の中で呪詛を吐き、呪い殺したと言われている。
「我らが忠烈王が、国のために汚職撲滅に動いた諸将を全員暗殺したのだよ」
「…………え?」
李進は一瞬何を言っているのか理解できなかった。
いや、理解できたがなぜそのような事を自分に打ち明けるのかが理解できなかった。
目の前のアラテムルが不敵に笑いながらもクドゥンと同じくその目はまったく笑っていない。
李進は気づいた。自分はいま試されている。
少しでも間違った答えを言えば自分自身も謀殺される。
――ウソだろ、マジかよ。
全身から汗が滝のように出て、服が一瞬で重くなる。
「お、王がそのような事を……えーーっと、お日柄もよろしく、本当に良き判断だと思います」
「くははははは、別に知ったところで如何こうしないから安心するがよい」
「は……ははは……」
李進は汗だくになりながらも内心、肝まで冷え切るのを感じた。
「け、けど何で横領を見逃して忠臣を謀殺するんで、しちゃいますですか?」
「なんだまだわからないか。横領を指示した人物が誰なのか。見当もつかないのか?」
「……ってまさか王――いえ、これっぽっちもわかりません」
「そうだ。忠烈王が自らの横領を露呈させないために暗殺を決行した。わが国は小さいがそれでも暗部は優秀でな――」
最初は金方慶を暗殺するために暗部を動かした。
当然のことながら拷問で何かを吐かれては困る。
しかし金方慶は王への忠誠を尽くし、横領の詳細は一切喋らなかった。
そこで野放しにすると厄介な清廉潔白な諸将を暗殺することにした。
「――つまり、我らが王の闇を覆い隠す者は必ず報われるということだ」
「お、〈王国〉の暗部ってそんなに優秀だったんですね……」
李進としては早くこの不安定の状況から逃げ出したかった。
「ああ、優秀だぞ。ちょうどお前の後ろにもいるだろ」
「――!?」
李進は恐る恐る後ろを振り返ると、そこには一般兵の姿でありながら仮面をつけた男が立っていた。
「ぎゃっ! いつの間に!!」
「ははは、最初から後ろに居たぞ。そいつは余が忠烈王に不利になることを言わないか、裏切らないか監視している男だ」
微動だにしない暗部を無視して、李進はアラテムルの方を向き直る。
「そして今日からはお前の監視も兼任する」
「はは、ははは……」
もはや笑うしかなかった。
李進の心中は金方慶と同じ道を辿る、将来の出世と地獄のような拷問が両方来るだろう、期待と不安がない交ぜとなった
「くくく、なに裏切らなければ必ずや王はお前を救って、そして忠を尽くした以上に報いてくださるだろう」
弘安の役以降、〈帝国〉軍が撤退したことから〈王国〉の多大な負担は軽減された。
汚職を嫌う諸将を暗殺し、金方慶が帰還してからこの王は動き出した。
彼は国中の美女を集め、さらにはかねてから案があった宮殿の建設に着手した。
この贅沢と享楽のために国民には多大な負担がのしかった。
その負担は弘安の役のために軍備増強を指示されるまで続いたという。
「あ、アラテムル様、この李進は貴方様と忠烈王様に忠誠を誓いましょう」
「くく、李進百人――いや千人隊長。お主には期待しておるぞ。なにせ汚職に手を出す無能は多くても、金方慶のように軍を動かせる有能かつ王のために横領ができる武官はほとんど見つからないからな」
「ハハァッ」
李進は深々と頭を下げ続けた。
「と、ところであの不毛な軍議はいつまで続けるのですか?」
李進としては出世街道を進めるのなら、もう戦争を続ける必要はなかった。
あとはいかにして無事〈王国〉に帰るかだけが気になっていた。
「ああ、そうだな。今日か明日には皇帝に宛てた手紙が届くだろう。クドゥンとの連名のそれが届き、返信が返って来るだろう二十五、六日まではこのままだ」
そう言ってゲルから出て遠く上都の方角を見る。
空は突き抜けるように青く澄み切っていた。
「皇帝が認めればついに動き出せる」
同じ青空の下、〈島国〉行省臣遣使が大海原を渡っていた。
彼は〈島国〉から七日間も高速艇に乗り、途中で水夫を交代しながら移動し続けていた。
そこから馬に乗り換えて、大都を横切り、夏の首都である上都へと移動した。
――六月十八日。
この遣使が皇帝に謁見した。
そこでのやり取りは後の歴史書にも記載されている。
『対馬にて島人を捕まえ話を聞くことができました。曰く大宰府の西六十里に大軍有り、戦の準備を整えている。この軍は我らが虚を突いて壱岐島を叩くつもりです』
そう言い終えてから遣使はクドゥンの密書を皇帝に渡した。
それを読んで、内容を確認し、皇帝は深く考え込んでから、ゆっくりと意見を述べた。
『軍事に関しては卿に任せているが、よくよく権衡(事の重さを慎重に計る)して行動するように』
そう述べて謁見は終わることになる。
書記官はその密書の内容を知らされていないので、一体何について慎重に行動するように言ったのか分からなかった。
その密書にはこう書かれていた。
『敵の大軍が逆進攻作戦を行うようです。万を越す敵軍の上陸を阻止するために対馬および壱岐島にて次の作戦の承認をしていただきたい』
『二島に対する焦土作戦』
それは耶律楚材の思想の影響を受けて、略奪を禁止した皇帝の意に反する作戦だった。
だが不幸とは重なるものだ。
その侵攻の矢面に立たされる〈王国〉では不作が続き、満足な兵糧を集めることができない状態だった。
大軍を運用できない矢先に逆進攻をされては、更なる軍を編成して撃退することは不可能に近かった。
一度でも上陸を許せば、ほぼ勝ち目がない。
〈帝国〉四代目皇帝は国を治める為政者の決断として、焦土作戦を承認した。
だがこの時の皇帝もやはり違和感を覚える。
まるで人為的とも言える局所的な不作が起きて、焦土作戦をする以外の選択肢が無くなっていたのだ。
そのような事が有り得るのだろうか?
皇帝はただじっと玉座にて思案し続けるのだった。
遣使はそのまま王命を持ちかえるために一路〈島国〉へと向かった。
時を同じくして南にも伝令が走り、出発を開始した江南軍へもこのことが伝えられる。
しかし、ここでも奇妙な出来事が発生した。
〈帝国〉の総司令官である〈島国〉行省左丞相・阿剌罕が病に倒れたのだ。
そして後任として阿塔海という男が総司令官に就任した。
四代目皇帝と共に各地で戦い勝利し続けた老練な武将である。
「なるほどな。クドゥンの小僧が言っていた通りになりおったな」
「アタカイ様、それではやはり……」と腹心の部下である李庭が額の汗をふく。
「恐ろしいものだな〈王国〉の暗部と言う連中は。それでも来ると分かっていれば対処できるがな」
「う……ぐはっ……」
アタカイの目の前には仮面の男が血まみれで倒れていた。
「事前に教えてもらわなければ暗部が護衛の中に紛れ込んでいることに気がつきませんでした。またすでにアラカン様は病によって意識不明の状態とのことです。それから先ほどの伝令から焦土作戦も予想通りです」
「アラテムルの奴め、二島を使えなくして補給線を細くしてから〈島国〉を奪い取る。そして戦勝後にゆっくりと首脳陣を暗殺し江南軍を手中に収め、そこからすぐに〈帝国〉に対して独立戦争を引き起こす。さすれば補給ができない〈帝国〉は泣く泣く〈王国〉側と和議となり、条件の緩い朝貢国となる――と言った所か」
「ええ、朝貢国にさえなれば〈島国〉の残党も迂闊に手を出せないでしょう」
「ふん、どいつもこいつもアラカンより御しやすいと思って我のことを甘く見ておるな」
「しかし、そのおかげでアラカン様の後任に容易につけましたね」
アタカイは鼻息を荒くしながら次の手を考える。
「フンスーーッ。さて、化かし合いのお陰で総司令官の座が手に入ったのだ。ここはクドゥンの話に乗るか、それともアラテムルの国の簒奪を横から奪って、我が王となるか――ううむ……ハッ! 魚の利とは何とも贅沢でいいものだな!」
「ここは旧南宋の氾文虎将軍を前面に出して、我々は密かに〈島国〉へと上陸し、機を伺うのがよろしいかと」
「そうだな。クドゥンは〈島国〉の兵を過大に評価していたが、それが適切だった場合には独立国家樹立などと言う夢物語より〈王国〉を潰してアラテムルの首を持ちかえる方が皇帝陛下の忠臣としての地位が得られる――よし、そうと決まれば出陣せよ!」
「ハッ!」
「さてタヌキとキツネの化かし合いに我らトラも参加するとしよう。ぐっはっはっはっはっは!」
ここに弘安の役最大戦力である江南軍およそ十万の出陣となった。
そして〈帝国〉と〈王国〉による水面下の戦いは武士たちの予想外の動きによりさらに混迷を深めていく。
本作品世界では……ほんとに帝国と王国が好き勝手暴れてます。
もちろん通説ではこんなこと起きてません。
それでも金方慶の敵対勢力の不審死や、アラカンという司令官の病欠などちょうどいいタイミングでいろいろ起きるのが弘安の役の面白い所です。




