安達泰盛
文永の役から一年後。
1275年10月23日(健治元年十月三日)。
――相模国、鎌倉。
鎌倉は周囲を山に囲まれた都でありながら城塞のような都市である。
まさに武士にとって要所ともいえる場所に鎌倉殿は存在する。
この鎌倉の甘縄神社のすぐ近くに安達「城九郎」泰盛が屋敷を構えていた。
屋敷といっても屋敷の周囲は空堀で囲まれ、さらに分厚い壁が侵略者を阻む砦といっていい屋敷である。
その砦の奥の間に屋敷の主である安達「城九郎」泰盛がいた。
彼は去年の異国合戦に関する恩賞奉行という役に就いて、御家人たちの恩賞を決める作業をしていた。
連日のように訪れる御家人一人一人の話を聞き、その訴えをどのように取りまとめ沙汰を下すか検討していた。
幕府の要人が一介の御家人の話を聞くのは不思議に思えるかもしれないが、御家人とはその全員が将軍の家臣という意味の家人である――そこから御家人となった。
つまり御家人とは全員が同格ということになる。
もし無下に扱おうものならそれこそ〈島国〉全土の不満を持つ御家人たちが反旗を翻すことすらあり得る。
安達城九郎はそのような事態を避けるためにも門を叩いたほぼすべての御家人に面会してその上訴した内容を聞き届けてきた。
日々多忙な生活から少々やつれているが、それでも若い頃より鍛えてきたので激務に耐えられた。
「――――書下し文に勲功が無かった故、勲功を認めてもらうためにはるばる鎌倉まで参りました」
城九郎の目の前で訴えている一人の御家人がいる。
名は竹崎「五郎」季長。普通の御家人である。
城九郎は目の前の御家人である五郎をまじまじと見た。
その面構えは激戦を戦い抜いた者が宿す風格がある。
その眼光は鋭く、死を恐れていない。
その体つきは恵まれた体躯に日々鍛錬に明け暮れ、鍛えぬかれているのが見て取れる。
だが同時に怪我もしているようだ。左足を少し引きずりながら部屋に入ってきたことからもそれがわかる。
話が一区切りついたところで城九郎が口を出した。
「それで話を聞く限り、先の合戦における恩賞に不備がある、そう申すのか?」
「はっ、去年の戦で上げた勲功があったにも関わらず勲功が漏れていることを訴えるために参りました」
「ふむ、そうなるとまだ決まってすらいない功績の内容を知っていたのか?」
あの合戦から一年。
未だに恩賞に関して決まっていなかった。
それにも関わらずこの五郎という男が訴えに来たと言うことは勲功が漏れていると知っていたことになる。道理に合わない。城九郎はそう感じた。
「いえ、私の戦績については少弐殿が上に詳しく聞いて、その意向にしたがい追って明記すると聞かされました。しかしその後にいただいた賞状にはその勲功が明記されていないので、漏れていると思い鎌倉まで参りました」
そう言って持ってきていた書類を手渡す。それを城九郎が確認する。
「戦の功である分捕り・討死の勲功はあるのか?」
「いえ、ございません」
「ふむ、それならこの書類に書かれている矢傷、手負いの功で十分ではないか。何が不満だというのだ?」
「はっ、『先懸の功』を立てているのに認められないのでは、何のための奉公か分からなくなります。この勲功を認めてもらうためにはるばる鎌倉まで参りました!」
「先懸の功だと?」
御家人たちが合戦をして恩賞が認められる功績は大まかに四つある。
手負いの功、
分捕りの功、
討死の功、
先懸の功である。
この四つの中で『先懸の功』は広く知れ渡っているが認められない勲功と言われている。
「五郎と言ったな、お主のように『先懸の功』を主張する輩は多い。だがそれを証明するのは難しく、それ故に嘘偽りの可能性があるので認められてこなかった。それはわかるな」
「わかっております。しかし誓って事実でございます。わたくしはなにも恩賞をもらいたいからと訴えているのではありません」
「ほぅ、恩賞のためではないと申すか」
恩賞のためじゃないと啖呵を切るか。恩賞が目的の他の御家人とは違いそうだな。
「はっ、『先懸』をしたか少弐様に尋ねて頂き、もし間違っていたのならこのクビを差し出しましょう」
――ははっ間違ってたら首を分捕れとは豪胆な男だ。面白い。
「しかし事実であるのなら、わたくしが仕える将軍様のお耳に入れていただきたいのです。わたくしが戦で忠勇を尽くし『命懸けの先鋒』を果たしたとお伝えください。そうでなければ鍛錬に生涯を捧げる武士の人生においてこれほど嘆かわしいことはないでしょう!」
それはただ純粋に将軍に仕える一人の武人としての譲れないもの――『武士の誉』を守るための訴えだった。
五郎の後ろで話を聞いていた安達の郎党たちもざわめく。
『すると活躍を認めてもらいたいがために遠路はるばる九州から鎌倉まで来たと』
『しかも恩賞をいらない……』
『……奇人じゃ、豪胆な奇人じゃ』
「ふ、ふふふ、ははは、わっはっはっはっはっは!」安達城九郎は大笑いした。
それを見て五郎と後ろで控えている安達氏の郎党たちも困惑した。
「ははは、よく言った。よくぞ言い切った。合戦でのことは承った。将軍の見参に入れられるように取り計らおう」
「なんとっ!?」郎党たちがさらにざわめいた。
「本当ですか! ありがたき幸せ――」
そこで「まあ待て」と言い、安達は話を進める。
「そこまで啖呵を切ったのだから恩賞については相違ないだろう。急いで国へ帰り、お主が述べる忠義を尽くすがよい」
それを聞いた五郎は少し困った顔になった。
「なんだ何か問題でもあるのか?」
「はっ、我が君に見参して頂けるのなら、仰せの通り帰国しましょう。しかしわたくしは本所に来るために一門から抜けた無足の身です。帰る国はございません」
御家人は平時は所領を守り開発するのが習わしである。
よほどの事がない限り土地の外へと出ることはない。
竹崎五郎は鎌倉まで直訴しに行くと一門の長である「じうゑの御房」に掛け合った際。
『どうしても行くのなら一門から抜けてもらう』
と言われた。
これはただでさえ兵をよこさなかったことで睨まれているのに厄介ごとを増やしたくないという一門の相違からだった。
「家来になるなら考えるという方々は多くいますが、しかしわたくしは一旗揚げようと思っております。そのような考えですのでわたくしを受け入れてくれる人は竹崎にはもういないのです」
五郎の後ろで話を聞いていた安達の郎党たちがさらにざわめく。
『つまり宿無しの根無し草か』
『名誉のために地位も国も捨てたということか』
『奇人じゃ。奇異の剛の者、竹崎季長じゃ』
「国のない身で一体どこで恩賞の沙汰を待てばいいかわかりません」
「ふむ、そういう事情の場合は山内殿へとすぐに報告するように言われている。そこで戦闘については更なる詳細を聞くことになるだろう」
「はい、わかりました」
この日、安達邸に一人の御家人が訪れた。
名は竹崎「五郎」季長。
そしてこの日から『奇異の剛の者』竹崎季長と呼ばれるようになった。
――――――――――
その日の夕方、安達泰盛は会合を開いた。
「今日会った竹崎季長は、恩賞は要らないと申していた。近頃では見なくなった奇異の強者であるな。しかし武功を将軍に伝えて何もなしというのは如何なものかと思う」
「それについてですが一つ考えがあります」
「ほう、まことか」
口を開いたのは玉村「馬太郎」泰清だった。
「はい、まず此度の〈帝国〉との合戦は恩賞は得られないと皆知っていました。そのせいでほとんど兵が集まらなかったと少弐景資殿が訴えております」
「うむ、確かにその通りだ。全くもって情けない話だ」城九郎はため息をついた。
北九州だけでも三万以上の兵を集められるはずだった。しかし実際はそのほとんどが自らの所領の近くの海岸を守る――という建前からほとんど兵を出さなかった。
「ならば恩賞より武功を第一と考えるあの者ならば次の合戦の際にも必ずや駆けつけてくれましょう」
「確かにそうだろうな」
「それに彼が恩賞にこだわらないのならば、どれほど武功をあげようとも恩賞沙汰が問題にならないということに他なりません」
それは二度目三度目の〈帝国〉との戦いが有り得るだろうということと、それに常についてくる恩賞問題という頭痛の種を考慮に入れなくていいということになる。
つまりそれほどまでに恩賞問題がこの鎌倉幕府の難題として立ちはだかっているのだった。
「ふむ、玉村。お主もあくどい男だな、くっくっく」
「いえいえ、私など御屋形様や少弐様の足元にも及びません。ふふふ」
「……ごほん、冗談はさておき領地を与えるのはいいとして、どこか都合のいい場所はあるのか」
「それでしたら肥後の国の海東郷の地頭職を与えるのがよろしいかと存じ上げます」
「海東郷か」
海東郷は肥後の国菊池一門の領域の外側である、南部のとある山間の郷になる。
「ええ、流石に菊池一門から少し離してやらねば酷というのものです」
「確かにそうだな」安達も頷いた。
「それから、無足であるのなら海東郷までの旅費も必要になるでしょう」
「おおそうだな。ならば後日ワシの馬を馬具一式を与えてやろう」
「それがよろしいかと存じます」
この日、竹崎五郎に恩賞として領地が与えられることが決まった。
しかしそれは後の合戦の際に他の御家人と比してありえないほどの無理難題が、五郎に降りかかる原因となるのだが、この時はまだ知る由もなかった。




