11 印象・日の出 ⑩
ふと気付けば、ずっと手にしていたはずのエメラルドの花が、ほのかに輝くカンテラへと姿を変えていることに気付く。
『あなたが最初に手にしたものが、その道行きを照らしてくれるはずです』
再び神代の声が脳裏に蘇る。あの吸い込まれそうな黒曜の瞳は、いったい俺に何を伝えようとしてくれていたんだろう。いま、この瞬間、何を伝えようとしているんだろう。
手にした宝石のカンテラをかざすと、手元を照らすだけのささやかで頼りないものだったけれど、それでも光のない闇よりはずっと心が安らいだ。
(ん……?)
その瞬間、目の前の景色が揺らいだような気がして、ピタリと動きを止める。もう一度カンテラを揺らして見ると、今度は間違いなくその動きに合わせて空気がゆらりと揺れ動いた。ふと上を見上げれば、そこには仄かに青い闇が広がっていて、ここよりもほんの少しだけ暖かい場所のようにみえる。
ほぅ、と。吐き出した息が、細かい泡沫になって天へと昇っていく。
(ああ、そうか)
ここはただの闇なんかじゃない……このまとわりつくような黒は、神代の描いた『海の底』なんだ。雨の物語……その行き着く果ては、こんなにも孤独で寂しい場所なのか?
いいや、きっと、あいつらなら。
歩き回る時には、周囲にあるはずの机に触れながら。この旅に出る前に、来栖からもらった忠告を一つずつ丁寧に思い出しながら、そろそろと手探りで机を探す。こつり、と。想像していたよりも腰の低い位置で指先が机の角に触れて、俺は安堵と共にコポリと泡沫を吐き出しながら、一歩ずつ踏みしめるように歩を進めた。
ページの捲られる音は聞こえなかったが、歩みを進めるほどに少しずつ海の底から浮かび上がっていくのが分かる。最初こそは聴こえるか聴こえないかくらいにかすかだったけれど、数歩進むうちに灯の歌声が響くようになったからだ。上を見上げれば、青い闇の隙間から、ほんの一瞬だけれど細くたなびく光が差し込んできた気がして。
上へ。ただひたすら、上へ……光を、目指して。
(俺はどうして、こんなにも必死になっているんだろう)
別に、本当の意味で深海にいるわけじゃない。これはあくまで作品だし、来栖だって回転の時間は決まってると言っていたんだから、こうして歩き回らなくたって少し待てば自然と場面は切り替わって外に出れるんだろう。でも多分、それじゃダメなんだ。
この闇に、この旅路に、何を見出す?
それはきっと、俺が今なお未練がましく光を求め続けている理由だ。どうしてこんなにも、焦がれている?根源的な人の欲求だとか、祈りや願いに似たようなものだとか、そんな風に綺麗でまとまった言葉で片付けられるようなものじゃないことだけは、確かで。
分からない。分からなくて、筆を捨てようとして、それでも捨てられなくて。描く理由を心のどこかで、ずっと探し続けていた。届くはずもないと分かり切っているのに、それでも求めずにはいられないから、だから……何度でも。
(そうだ、こうしてずっと)
水底から光に焦がれる魚のように、光の昇る場所を目指して飛び続ける渡り鳥のように、太陽を目指して葉を広げ空を見上げる花達のように。焦がれて、手を伸ばして、どうか届けと。そうやって、歩き続けてきたんだ。
ずっと俺の旅に付き添ってくれていたカンテラの灯を掲げ、天から響く歌声を道しるべに一歩ずつ前に進む。やがて頼りない青で塗り込められていた闇の隙間を縫って、はっきりと分かるくらいに確かな光のベールが水底へと届いた。
俺は、今まで頼りにして掴んでいた机の縁を離し、ゆらめく青い光に手を伸ばした。
(掴んだ――)
そう、確信した瞬間、だった。
「っ……!」
ぐい、と。何かの力で引き上げられるような感覚がして、急速に変わり始めた潮の流れと色づき出した世界の圧力に、思わず強く目を閉じる。冷静に考えれば、レゾナンスはコンタクトレンズタイプのデバイスなんだから、目を閉じてしまうと何が起こっているのか何も察知できなくなってしまうんだが、どうも反射的にやっちゃうよな。ただ、それまで俺を導き続けていた灯の歌声がフツリと途切れて、俺は恐る恐る目を開いた。
風の音が、聴こえる。
広がるのは、眩しいくらいの白い世界。ここが空の上なのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。そっと足を踏み出せば、子供の頃に夢見たみたいに雲の上を歩いていた。楽しくなって歩き続けていると、不意にズボッと足が抜けて、悲鳴を挙げるヒマもなく雲の上から転がり落ちる。本当の身体はきちんと地を踏みしめたままのはずなのに、全身に感じる浮遊感に背筋がゾクゾクするのを感じた。
(これは確かに、心臓に悪いっ……!)
高所恐怖症の方はご遠慮ください、なんて文言がこんなところで回収されるなんて思いもしなかった。本当に空の中を漂ってるみたいな感覚は、慣れれば楽しくなってくるものの、こんな風に空に投げ出されると本当に落ちそうで怖い。




