09 ヴァトーのピエロ ④
「芸術科クラス、大変そうだよね」
「うん。さっきね、放課後の美術室利用の件で、穂高先生にいつもの用事があって」
私の言葉に、なぜか灯ちゃんが驚いたような表情を見せる。
「それって、芸術部の活動のための利用申請?確かに規定ではその教室管理の先生に、申請出さなきゃならないけど……もしかして、これまで毎回出してたの?わざわざ?」
「それ、穂高先生にも言われたんだけど……でも、こういうのって、ちゃんとしておいた方がいいかなって思って。ほら、先生も活動記録だけはしっかりしなさい、って言ってたし……『なあなあ』にしてると、後々なにかあった時に大変だもの。そう言ったら、先生も納得して『来栖の好きにしていい』って」
先生は、私達が本格的に活動をするようになってから、たった一つだけ『活動記録を残すこと』だけは徹底的に守らせるようになった。その日に交わした議論は、音声なり文字なりで議事録を残すこと。落書きや下書き、構想やフレーズの一つでも、生み出した作品は写真や映像で記録すること。そして、それらをまとめて必ずその日のうちに生徒会へ送り、更に自分たちでもバックアップを取っておくこと。
最初こそは、ちょっと失礼なようだけれど、先生がここまで情報管理を徹底させるなんて意外すぎて、戸惑うことも多かった。でも今は、自分達が確実に進んでる方向も分かるし、それこそ何かあった時のためにも記録を残しておくことの重要性っていうのも、本格的に部長として動き始めてから少しずつ理解し始めてる。
「あの面倒くさがりのお兄ちゃんを、仕事を増やす方面で説得するって、結ちゃん何者なの。まあ、お兄ちゃんが記録にこだわる気持ちも分かるけどね……と、ごめんね話逸れちゃって。で、芸術科の方はどうだった?」
そうだった、その話をしてたの忘れちゃうトコだった、と慌てて頭の中を軌道修正。
「えっと……みんなね、何もない空間に向かって、ものすごく真剣な顔でにらめっこしてるの。ものすっごいスピードで、手をわちゃわちゃってして、バッて振り返って誰かと怒鳴り合って……みたいな。ごめん、よく分からないね?」
「ううん、むしろ良く分かった……お兄ちゃんもたまに似たようなことやってるし。何て言うか、シンクロの弊害だよね。外から見てると、何やってるのか全く分からないから、プライバシーは守られるんだけど……なんか、人間として大事なものがゴリゴリ削られてく感じかも」
灯ちゃんはそう言って、ちょっと複雑な表情で笑った。言いたいことは、なんとなく分かる……ちょっと、ううん、かなり異様な光景だったし。
「私達も芸術部の活動してる時って、あんな感じなのかな?」
ふと思いついてしまった可能性を口にすると、灯ちゃんはそこはかとなくイヤな顔をした。
「うわぁ……それはちょっと、想像したくないかも。でも、やってる本人は必死だから、忘れちゃうんだよね。こんなに美術室が外から見えない閉鎖空間で良かった、って思ったことないかも」
灯ちゃんの言い草に、思わずクスクス笑ってしまう。
「でも、最近は事務連絡くらいでしか先生とお話してなかったから、お元気そうで良かった」
「えっ……さっきのアレで、元気そう?うーん、でも、確かに最近楽しそうではあるかな」
灯ちゃんが、穂高先生のことを考える時の、少し優しい表情で頷く。
「でも、本当にいいのかな……当日まで先生に準備段階を一切見せない、とか」
そう、いま私達芸術部は、穂高先生を『はぶんちょ』(奏ちゃん言)(確か仲間はずれって意味)状態で学園祭の準備を進めている。途中までは先生にも参加して頂いてたんだけど、構想と具体的な方針が整って来てからは、みんなで話し合って先生には当日まで活動には参加しないで欲しい、とお願いすることになった。
先生は『面倒くさいから、仕事が減って万々歳』なんて言ってたけど、ちょっとだけ寂しそうな顔をしてた。今日も美術室の利用申請をしに行った時、何か言いたそうな顔をしてたのは、たぶん最近みんながどうしてるのか聞きたかったんじゃないかな、って今更のように気付く。そこで自分がクラス担任をしてる、奏ちゃんとか梓ちゃんには絶対に聞こうとしないあたりが、先生らしいなって思える程度には私も少し先生のことが分かってきたと思う。
でも、やっぱり灯ちゃんに比べたら……ううん、奏ちゃんや梓ちゃんに比べても、私は先生のことを知っているとは言えない。灯ちゃんは家族だから当然かもしれないけど、奏ちゃんと梓ちゃんの二人は口にしないだけで先生と深いところで理解し合ってるような気がする。私はどこまで行っても先生が顧問をしてる部活の部長、以上の存在じゃない。
他の生徒よりは、ほんのちょっとだけ近い存在にはなれたかもしれないけど……でも、それだけだ。ただ、最近はそれでもいいのかもしれない、って思い込もうとしてる自分がいる。私は高望みしすぎていたのかもしれない、なんて……今なら、先生を遠くに感じる、って灯ちゃんが言ってた理由が痛いくらいに分かるから。
*




