01 赤と青と黄色のコンポジション ④
「……仕事、すっか」
灯にああ言いはしたが、明日以降に回そうと思っていた多少の事務作業だの、明日から受け持つクラスの連中の顔を覚えておく、なんて言う珍しく教師らしい仕事もある。
そもそも、俺が担任なんてのを任せられることになったのも、間違いなくレゾナンスの所為……お陰なのであって。斜陽産業であった芸術が注目されたことで、日本でもにわかに『世界に通用する芸術家を』『広い間口の芸術教育を』と、プログラミング教育ブームの時を彷彿とさせる動きが起こった。
ここ、常磐学園では元より自由な教育プログラムで売っていたのを、本格的に『芸術科』なるものを設立し、時流に乗ろうと試みているワケなのであって。そこで白羽の矢が立ったのが、ヒマしてた俺だったのである……自業自得と言えばそうなんだが。
しかし、芸術特化の人間になりたいヤツはそう言う専門の学校に行くんだろうし、需要なんざあるのか?と言うのが正直な感想だが、蓋を開けてみれば想像の斜め上をいくトンデモな面子が揃っている。
「お前ら、普通に美術系の専門学校とか行けよ……」
思わずそんな事をボヤきたくなるような、そうそうたる顔触れ……しばらく芸術の世界を離れていた俺でも一度は名前を聞いたことのあるような、中高生にしてコンクール入賞常連だったり既に世間で名前の売れてるヤツばかりだ。明日から、こんなのが生徒になって、俺が教壇に立って講釈垂れなきゃならないのかと思うとボヤきたくもなるだろう。
ただ、そんな奴らでも新しい波に押し流されそうな不安を抱いている、ということなんだろうか。それこそ、こんな将来性の約束されていない、実験みたいなものに縋るしかなかったのかもしれない。
これまでの絵画や彫刻と言った概念が、崩れ始めている。これまでも数多くの者が頭を悩ませてきた、アートにおいて『平面』にこだわる必然性。本物の石や石膏と何ら遜色のない質感を与えてくる『仮想現実』と『本物』にどれだけの違いがあるのか。仮想世界が幅をきかせる現代だからこそ『本物』が持つ価値に目を向けよう、と誰もが口にするが……本当にその価値を認めてもらえるのは誰でも名前を知っているような古典作品だけだ。
そんな世界で、どうやって生き残っていくのか?この『ARART』が席巻する世界から、何を学びとり、何に活かせば良いのか?恐らく、全ての芸術家達が揺れ動いている。何しろ、いわゆる『素人』としか呼びようのない人間も、簡単に立派な『アート』を生み出せるような機能の充実している時代である。
世界は今、これまででは考えられなかった速度で、今この瞬間も『アート』によって繋がり続けている。それこそ、インターネット元年ほどの衝撃はなかったとしても『アート元年』と呼ばれたレゾナンス発売の年をターニングポイントとして、着実に世界が日常に侵食し始めている。それが、良いことなのかどうか、俺には分からない。ただ、少なくとも俺にとっては……
ピコン
いま、俺の空間として設定している(学内ネットワークの容量を借りてるから、本当は勝手にカスタマイズしたりするのダメなんだけど)美術室に誰かが足を踏み入れたことを示す通知が響く。普段は煩わしいから、放課後以外はオフにしてるんだが。
望んでいなくても強制的に他人と繋げられてしまう……イヤな時代になったな、なんてことを考える。灯がいれば『そんな後ろ向きな考え方するの、お兄ちゃんくらいだから!』なんてツッコミでも入りそうな気がするが、今日はあいにく不在だ。
誰だ俺の城に土足で踏み込む不届き者はと、それこそ不届きな事を考えながら振り返る。
「ぴゃっ」
別に睨んだつもりはなかったんだが、そんな悲鳴のような声をあげて訪問者は後ずさった。もちろんウチの……常磐の制服だが、こんな始業式の日から居残りの生徒がいるなんて思いもしなかったから少し驚く。
フワフワホワホワとした短いくせ毛の黒髪。スカートの裾から覗く細っこい脚の病的なまでの白さは、絶対にインドア派だと断言できるレベルだ。とろんとした丸みを帯びた瞳は、どこか緊張したように忙しなく彷徨っていて、背の低さとビクビクしてる感じも相まって、警戒心の高い小動物か何かみたいだと思う。
「……どうした、忘れ物か?」
俺にしては珍しく、なるべく怖がらせないようにという気遣いをこめて、穏やかな口調で話しかける。自分では無難な線を選んだつもりだったが、彼女はフルフルと慌てたように首を横に振った。
「あの、その、今日はそうじゃなくて……」
どこか泣きそうな感じに瞳をうるませる小動物、もとい女子高生に何か悪いことでもしてるかのような気にさせられる。
柔らかな淡い緑の芝生にそっと足をのせて、彼女は俺の世界へと踏み込んでくる……もっとも、この教室を彩る『アート』へのアクセス権限は基本的に生徒全般をブロックしてるから、彼女にはただ普通の美術室が見えているはずだった。
それなのに、その動作の全てに見えない生命に対する労りって言うか、とにかくそんな感じの優しさみたいなものを感じる。ちょっと地味な見た目の女子生徒なのに、何となく不思議な雰囲気があるな。
「えと、一年、じゃなかった……高等部二年B組になった来栖結、です」
その名前は聞いたことがあった、というか全てのクラスの美術を俺一人が担当しているのだから、絶対に知っているはずだった。昨年の記憶を探ってみれば、こんなホワホワ頭をした生徒が自由席のはずの美術室で、いつも隅っこに座っていたような気もする。
「ほ、ほほほほだか先生っ」
ドモりの所為で、何やら愉快なことになっている俺の名前を呼んで、頬を赤く染めた来栖がじっと俺の目を見つめる。ここでようやく俺は『その可能性』に思い至った……つまりは、そういうことなのか?教師をやっていれば一度や二度や三度は訪れるかもしれないという、あの『告白イベント』なるものが俺にもやって来たというのだろうか。
ど……どどどどうすればいい。いや、落ち着け。ここは大人の対応を見せるべき所だ、例え生まれてこのかた一度も女子から告白などされた事はなくとも、いやそんな事は断じて気にしてなんかいないし、俺はかつて芸術に生きる男だったのであって色恋なんぞにかまけている暇はなかったし、こんな告白なんてちっともこれっぽっちも嬉しくなんかないし、むしろこれから断らなければならない事を考えれば残念……いや迷惑なだけであって?
しかし俺はそんな素振りはチラとも見せることなく、真摯に彼女の想いを受け止めてあわよくば、ではなく誠実にお断り申し上げて彼女を栄えある未来へと送り出すのが、責任ある大人である俺の役目だろう。よし、心の準備はできた。
「……なんだ」
決まった。俺の一世一代の『なんだ』である。決してこの先の展開への期待など匂わせない、それでいて冷たくはなく優しささえ感じさせる渾身の出来栄えだった。
彼女は決意をこめて息を吸い込み、口を開いた。
さあ、来い。俺が受け止めてやろう……
「どうか、文芸部の顧問になってくれませんかっ」
「……え?」
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