07 洗礼者ヨハネ ③
「なん、で……」
呆然とした、信じたくないと言う風に首を振る八神に、お前も分かっていたんじゃないのかと虚しく思う。あとほんの一押しで泣いてしまいそうな八神を前にしても、俺はもう自分を止めることができなかった。
「あの時の『桜花賞』……そうは明言されてはいないけど、和洋混合で日本一の画家を決めるあの場所で、俺が提出したのは人物画だった。お前も見たことあるだろ。あれのモデルは小さい頃の灯だ」
まだ幼かった灯が、水浴びをしているシーンを描いた。天に手を掲げて、無邪気な笑顔を浮かべる灯を、題材としてはありきたりでも受賞できると、そう確信できるようなクオリティに仕上げるつもりでいた。
「最高傑作が描けると、その時は確信があったんだ。胸の奥から湧き上がる何か熱いものだけが、俺を突き動かしていた。この力さえあれば、何だってできるような気がして、疲れさえ感じなかった。今まで思いつきもしなかった構図。色彩。光源。誰かに評価されること以前に、俺が感じていたのは万能感だった。俺にだって、こんな風に素晴らしい絵が描けるんだ。これはきっと、歴史に残る。誰かの記憶に、残ってくれる。そう、信じ込んでいた」
そういう感覚には覚えがあるのか、八神は眉を寄せて息を潜めた。
「実際、俺は受賞直前まで行ったよ。誰もその順当な運びを疑ってなかった……だけど、その寸前で裏切られた。俺の親友だった……いや、親友だと思い込んでいた棗一樹に」
そういうことだったのか、と。その場にいた人間しか知らない真相に、八神は息を呑んで俺を見つめた。外から見ると、俺が盗作したから受賞を取り消された、みたいに思われているけど実際は違う。
「授賞の場でもある、桜花賞の展示場で……一樹が走り込んできて、俺を指差して『盗作』だと言ったんだ。もちろん、この話はオフレコにされたけどな。でも一樹が提示した盗作の証拠ってヤツを見て、そこにいた人間は納得した。だから、その年の桜花賞は『該当者なし』になったんだ」
「っ、なんで……それに、それって、あの棗一樹が盗作したってことっ?」
まあ、驚くのも無理はない、と思う。今や俺に代わって、その界隈じゃ確かな実力と実績をもってして、かなりの有名人になっているはずだ……そう、アイツは俺の盗作なんてしなくても、世間から評価されるだけの力を既に持っていた。それなのにどうしてあの時、わざわざ自分が逆に糾弾されるかもしれないリスクを犯して、桜花賞の舞台に踏み込んできたのか、今でも俺はその理由と向き合うことができずにいる。
「あの時、一樹はネットに挙げてた自分の作品を、俺が盗作したんだと言って抗議した。あの時はまだ、ネット上の作品の掲載時期なんて信憑性の欠片もないと思われてたし、実際に俺の作品の制作過程を知ってる人もいたから、俺が冤罪を着せられようとしてるんだと、その場にいた人達はすぐに分かった……だから、その証拠の正確さじゃなくて、純粋に芸術家としての力量に納得したんだよ」
そういう芸術家達の、傍から見れば冷たく見えるのかもしれない実力主義の考え方を、身にしみて良く分かっているのか八神も黙り込んだ。その反面、納得することはできないのか、表情がコロコロ変わって一人百面相みたいになっているのが、いけないとは分かっていても笑ってしまいそうになる。
なんでこいつは、俺以上に俺の作品のことを信じてくれているんだろう、と思う。神代もそうだけど、とうの昔に俺が捨ててしまったものを、大事に大事に拾い集めて抱き締めて、ここまで来た……そんな風に扱われるだけの価値なんて、あるはずもないのに。
「あの後、一樹もきっちり調べられたら自分が捕まるかもしれないってのは分かってるから、俺のことを訴えたりとかはしてこなかったし……俺が事を荒立てようとしなかったから、あの場にいた人達は暗黙の了解ってことで口をつぐんでくれた。まあ、掘り返そうとしたらとんでもない不祥事になりかねないからな。でも、もちろん対外的には『なかったこと』には出来なくて、色々勘ぐった奴らの間で俺が盗作者ってことになって広まった」
「そんな……それじゃ、アンタは何も悪くないんじゃない。なのに、なんで棗一樹が罪にも問われずに悠々と居座って、アンタが追い出されてんのよっ」
自分のことのように怒る八神に、俺は当時にだって一樹のことを軽蔑したり、責めたりすることさえできなかったと思い出す。
「言っただろ、俺は逃げたんだって」
何だか、疲れ果てた気分でポツリと口にする。その言葉の内容にか、それとも投げやりな口調に対してか、八神がハッとしたような表情を見せる。俺は語り始めてしまった手前、事の顛末を最後まで追わなければと、ほとんど義務感のようなもので口を動かしていた。
「俺が盗作だと世間から騒ぎ立てられた時、最後まで抵抗しなかったのは単に疲れたからじゃない……その絵を見た時、分かってしまったんだ。明らかに一樹の絵の方が、俺の絵よりも高いクオリティだった。斬新なタッチ、迷いのない筆運び、それでいて深みのある色使い。俺は絶対に、こんな風に上手く描くことはできないって、他でもない俺自身がそう思った」




