01 赤と青と黄色のコンポジション ③
常磐学園……この、ちょっと名門校っぽい名前な(と俺は勝手に思っている)私立の中高一貫校が、俺の職場であり出身校でもある。
地元の高校かつ自由度が高い、というだけの理由で選んだ高校ではあるが、絵を描いてばかりで学校も休みがちだった俺がなんとか卒業して大学に進学し、こうして母校ではあるものの『マトモな』仕事に就けたのも、ここの先生達のおかげだとは思っている。
私立なだけあって、本人が望まない限りは教師の異動がなく、ここに骨を埋める先生も多いらしい……俺もそうなりそうだ、と思いながらフワリと欠伸が出た。眠い。
実際、灯に言った通り準備なんてもんは、あってないような感じだ。つまりは、暇だ。まあ、こんな暇を甘受してられるのも今日くらいで、明日からは怒涛の日々なんだろうがと考えるだけで鬱ではある。
「働きたくないでござる……」
教育熱心な先生にでも聞かれたら刺されそうな気もするが、俺はしがない美術教師だ。正直、小学生ならともかく高校生にとっての美術なんて、音楽の授業以上に休憩時間みたいなもんだろう。自由気ままに片手間に、粘土だの針金だの絵の具だのをこねくり回しながら、友人とくっちゃべるのが美術の時間で、教師が何かを教えるなんて事に意味はない。
まあ、給料分くらいは働けと散々に言われているから、作業はじめに有名作品を紹介したり技法を教えたりと一通りの事はこなしているが、熱心に美術に取り組んで質問してくる生徒がいるはずもなく、ゆるりとした授業風景をボンヤリ眺めている感じだ。
(ただ、なんか授業とは関係ないところで、やたら絡まれるよな……)
普通の数学とか英語の教師と比べれば、自分達と近いところにいる気がするのか、単に俺がナメられているのかは分からないけれど、生徒からは『よっちゃん』などと謎の呼び方をされている。穂高燿だから『よっちゃん』とのことだが、一文字しか合っていない上に駄菓子屋のイカばかりが頭をチラつく。ちなみに俺は海鮮が苦手だ。例え駄菓子であっても。
生徒達にとって、俺に親しみが湧きやすい理由には『ヘンに先生ぶってこないから』『いかにもアーティストっぽい格好だから』というのがあるらしい。前者は俺が教師らしく出来ていないだけなんだが、後者はよく分からん。どうにも、俺がいつも白衣を着て校内をフラフラしてるのが目につくらしいが、それに飛び散った絵の具が『アートっぽい』んだとか。
「アート、ねぇ」
俺にとっては単なる絵の具染みで、長年親しんだ作業着で仕事着だし、他の先生方からは『だらしなく見える』と不評なんだが、立場と世代間でこうも見え方ってもんは違うらしい。
でもまあ、俺自身もあまりカッチリしすぎてるのは嫌いだし、入学式と卒業式と葬式くらいでしかスーツなんてマトモに着てられる自信はないから、先生方から『いつまで経っても穂高は学生気分が抜けない』と文句を言われても仕方がないのかもしれない。
(実際、楽させてもらってるからな……)
教師と言えば担任としての生徒の監督や親への対応、授業以外の業務への拘束時間の長さ……テスト作成や授業準備に行事の準備、部活動の顧問を始めとして膨大な『雑務』に忙殺されるブラック職として有名らしいが、俺はそう言うものとは無縁な日々を送ってきた。
美術にいわゆるテストはないし、提出された作品の評価もよほど不真面目に取り組んでいたものでなければ大抵は最高評価。担任はもってないし授業に準備なんぞ必要ない。強いて言うなら不足している画材の補充くらいだが、そんなものは何が不足しているのか把握しておいて予算内で注文するだけ。俺にとっては慣れ切った作業なので、別に苦でもない。
そんなスチャラカなスクールライフも、今日でお別れかもしれないと思えば、やはり溜め息しか湧いてこない。どれもこれも、こいつの所為だ。
「……レゾナンス・コネクト」
ボソリと呟けば、世界が懐かしく柔らかな色へと塗り変えられていく。
それは、誰もが心のどこか大切な場所にしまってある、夕焼け色の記憶。窓を大きく取りながらも、光の入り込みにくい矛盾した構造の美術室と、外の裏庭とを隔てる無機質なガラス窓と柱が音もなく光の粒になって解けて消えた。
繋がる外と中の世界に、違和感を抱かせる木のタイル床の隙間から緑が芽吹く。小さくも力強い若葉を追いかけるように、次々と花開く春の世界。足元から柔らかな風の吹く錯覚すら感じさせるような生命感に、いつしか雑然とした椅子や机の群れも同化して、淡く輝き始める。
「ふぅ……」
いつの間にか止まっていた息を、ゆるゆると吐き出した。もうかれこれ数年の付き合いになるはずだが、未だにこの現実が『書き換えられる』瞬間には慣れない。
RESONANCE
複合現実……MR技術を真にリアルなものとする、そんな謳い文句で登場したコンタクトレンズタイプのMRデバイス。音声の入出力や諸々の機能を備えたヘッドセットを着けている姿は、発売から数年経った今は当たり前のものとなっている。
現実に仮想のレイヤーを何枚も上書きしていく感覚で、気軽にMRを利用できる。そういう触れ込みは伊達ではなく、現実世界と仮想世界の融合は、一般市民の手に託されることで加速度的に進んだ。
スマートフォンの機能拡張として発売された『レゾナンス』は、最初の頃はアプリケーションがかなり限られていて、中でも目玉として取り上げられたのが『ARART』だった。容量との相談にもなるが、例えば自分の部屋とか家など『自分の空間』として登録できる場所を自由にカスタマイズできるようになる。さっき俺がやったみたいに、レゾナンスを起動するだけで世界は簡単に塗り変えられてしまう。
だが、それ以上に注目するべきは間違いなく『シンクロ』機能だ。それは自分が作ったARARTを公開し、他者がそこへ自由にアクセスすることを可能にする。その作品をこちらに呼び出すだけでなく、作品の中へ入っていくことができる……それこそ多少のタイムラグはあっても、地球の裏側で生まれた作品世界とだって繋がれる。
それまで平面の世界では当たり前だったシェアが、3Dの世界にまで広がった。更に、今や時間制限や公序良俗の範囲内で、という規制はあるものの、基本的に自由なストリートアートが認められている。世界には瞬く間に小さな芸術が溢れるようになり、ARARTのことはただ『アート』と呼ばれて、人々を結びつけるコミュニケーションツールの一つとしての地位を確立したのである。