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06 見返り美人図 ③

 そもそも、ここ数日は何もかもが上手く行ってるような感じがしていた。それとも、そう思っていたのは俺だけで、見えないところで掛け違えられたボタンが沢山あったんだろうか。


 灯は、俺が粗末な夕食と共に謝罪した夜に『大丈夫』と宣言した通り、次の日にはちゃんと部活に顔を出したし、神代ともきちんと会話を交わして和解していた。それどころか、その日の話し合いでこんな提案をしてみせたのである。


「誰か一人のフィールドを奪い合うんじゃなくてさ、全員の得意分野をカンペキに融合させてみない?綺麗事じゃなくて、現実的に」


 しばらく灯の言葉を飲み込めていないかのように、ポカンと間の抜けた顔をしていた八神は(神代は相変わらずの無表情だった)珍しく慎重に言葉を選ぶような躊躇いを見せた。


「あの、さ……失礼なこと言うようだけど、センパイ達って人前に出せるレベルの特技があるワケ?」


 悩んだワリには、全く言葉が選べてないぞ、八神……


 その言い草にもかかわらず、灯は怒りもしないで頷いて胸を張った。



「結ちゃんは小説で……私は歌うわ」



「え?」



 戸惑う八神に微笑みかけると、灯は小さく息を吸い込んだ。



 空気が、変わる――



《Dies irae dies illa

 solvet saeclum in favilla:

 teste David cum Sibylla》



 グレゴリオ聖歌『Dies(ディエス) irae(イレ)』怒りの日……これはまた、ガチで来たなと思わず呟きそうになる。俺には音楽の詳しいことはよく分からないが、単音の連なったシンプルな旋律(せんりつ)でありながら、頭の奥に反響して消えない美しい響き。


 父親も母親も、もちろん俺も敬虔なクリスチャンなんかじゃないのに、灯は日曜になれば教会のミサに行くし、眠る前には神に祈り……本当は食事の前にも祈りたいらしいが、無宗教である俺のために我慢して心の中で祈っているらしい。そして教会では、毎週のようにこの澄んだ歌声を響かせている。


 神様を信じて、神様のために捧げる歌だ。その中でも、今ではそう頻繁に歌われることのないらしい、古典の楽曲を灯は得意としている。この『怒りの日』は俺でも知ってる、モーツァルトとかヴェルディみたいなクラシックを始めとして、現代でもちょくちょくCMとかで使われてるから、有名な部類に入ると思うけど。


 何だっけ、最後の審判の時の話、だったかな。絵画でも、ミケランジェロがバチカンのシスティーナ礼拝堂に描いたどデカイ壁画で有名な、キリスト教にとって大事な題材だ。どうして怒ってるんだっけ……確かキリストが、世界の終わりに全ての人間を天国行きか地獄行きか決める日が来て、堕落した人間に怒りをこめて地獄行きを言い渡す、みたいな。だから『怒りの日』……何て言うか途方もない話だとは思う。


 そんな題材のせいもあるのかどうなのか、普通に高校の制服を着た女の子が歌っているはずなのに、どこか遠い過去の世界に投げ出されてしまったような錯覚を感じる。



《Quantus tremor est futurus

 quando judex est venturus

 cuncta stricte discussurus……》



 荘厳な七色のステンドグラスから、差し込む光のきらめきが見える。細かに震える空気に、聞こえるはずのない沢山の『声』が重なって響く。たった一人の少女がそこに立ち歌っている、それだけの空間が音によって鮮やかに色を変え、塗り替えられる。灯を中心として、冷たく透徹とした(おごそ)かな領域が広がっていく。


 俺は正直言って神様ってものを信じてないけど、灯の歌声を聞く時だけは、人の力の及ばない神聖なものの存在を感じさせられるような気がする……いや、それはかつての俺がいつでも感じていたものだったのかもしれない。絵筆を握って、キャンバスに向かっている瞬間の、全てに。


 ともあれ、たった一週間に一度のミサと、不定期な声楽のレッスンを受けてるだけの高校二年生に、技術的な熟練度を求めるだけ酷なものがあるはずなのに、不思議と『それらしく』聞かせてしまうのが灯の恐ろしいところだと思っている。そのある種、天性のカンみたいなところは自由に歌っているからこそのアドバンテージなのかもしれないが、変なクセをつけても良くないから早々に専門的な教育を受けさせるべきだと、何故か俺が教会の神父さんやら声楽の先生から訴えられている。こればっかりは灯の意志の問題なので、俺には口の出しようもないんだが……と思いつつ、灯の歌声に改めて耳を澄ませる。


(……にしても)


 何かが、吹っ切れたか?


 歌声に大きな違いがあるようには思えないのに、どこか違うような音に聞こえるのは、きっと気の所為じゃなかった。灯の歌を初めて聞く八神も神代も、珍しく度肝(どぎも)を抜かれたような顔をして、完全に雰囲気に呑まれてしまっている。正直、しょっちゅう灯の歌を聞いているはずの俺も、いつになく驚かされていた。


 ほんの少し前まで、身内の贔屓目(ひいきめ)を抜きにすれば『結構上手いな』程度で、こんな凄みみたいなものはなかったはず。何が灯を変えたんだろう、なんて考えるまでもなく八神や神代の影響だろうってことは俺にだって想像がついた。灯を『変えてしまった』ことが正しいのか間違っているなんて、俺には判断のしようもなくて。




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