05 博士たちと議論するキリスト ⑥
(守る、なんて嘘)
とっくの昔に、お兄ちゃんは絵が描けるようになってる。もちろん、今はレゾナンスの作り出す仮想空間の中でしか描いてないし、生み出した作品はすぐに消してしまうけど。後は『リアル』の筆と絵の具でキャンバスに向かうだけ……それだけで『光の魔術師』は復活する。それでも、そのことが、こんなにも怖い。
(私って、こんなに醜い人間だった……?)
分からない。でも、お兄ちゃんが絵を描けなくなった時、心の底から心配しながらもどこか安心していたのは確かだった。だって、お兄ちゃんが隣にいてくれる。私を置いて、知らない場所にいってしまわないで欲しいって、ずっと心にしまいこんでいた願いが叶った。いま、それがまた失われようとしてるから、私はこんなに焦っているんだ。
どうすれば、いいんだろう。どうするのが、正しいんだろう。
今まで安全だと信じ込んでいた足元が、ぐらりと揺らいだような気がして、胃がひっくり返るような感覚がする。制服のままベッドに倒れ込んで、詰まっていた息を吐き出した瞬間に眠気が襲ってきた。制服、シワになっちゃう……でも、どうでもいいや。
寒い。それでも、指一本動かす力すら忘れてしまった。このまま永遠に目覚めないままでいられたら、なんて。そこで、意識が途切れた。
*
誰かが、私の頭を撫でている。
大事な宝物を扱うみたいに、そっと。
その大きい手の平の感覚が、懐かしくてあたたかくて、ずっと撫でていて欲しいなんて思う。この手を、よく知っている。夢は願望を表すなんて嘘だと思ってたけど、これは本当にそうなのかもしれない……
「り……あかり」
囁くような声に、意識が浮上する。肺に吸い込まれる冷たい空気。冷え切ってギシギシと強ばる身体。乾いた涙でヒリヒリする頬の感覚。現実だ。
「っ、おにいちゃんっ?」
思わず飛び起きると、目の前にお兄ちゃんの顔があって息が止まる。それと同時にくらりと目覚めた瞬間、寝起き特有の目眩がして、慌てて自分で自分を支えた。
「何回か声かけたんだが、返事がなくて心配になってな……勝手に入って悪かった」
「え、ううん、別にそれはいいんだけど」
いや、よくないけど。とりあえず、これはどういう状況なのかを把握した私は、絶対に無惨な感じになってる顔をさり気なく逸らしながら、小さく息を吐き出した。
「その、メシできてるけど……食う?」
「え」
お兄ちゃんが、食事を作った?あの、生活能力皆無のお兄ちゃんが?
そんな、失礼すぎるけど本当のことを考えて、顔に出てしまったらしい。私の反応を見て、バツの悪そうな表情を浮かべたお兄ちゃんが、ボソボソと付け加える。
「はい、ちょっと見栄はりました。すみません。お茶漬けとインスタント味噌汁です……とにかく、ちょっと早いけどメシだメシ!」
私はそのラインナップを聞いてむしろ安心した。お兄ちゃんは、料理絡みで沢山の前科があって、この前なんかはホットケーキを作ろうとしただけでキッチンを爆発(限りなく事実に近い比喩)させてたりするから、料理なんて聞くと心配になってしまう。
ごまかすみたいに私の手をグイと引っ張って立ち上がらせると、ドスドスと音を立てて廊下に出る。いま、二人きりだ、なんて。いつものことなのに、妙に意識させられた。
リビングに行くと、テーブルの上で確かにお茶碗とお椀が、それぞれホカホカと湯気を立てていた。そのまま引き寄せられるように席に着こうとすると、何故かお兄ちゃんが仁王立ちして立ちふさがる。
「手を洗いなさい!」
思わずその言い草に吹き出してしまう。いつも私に言われていることを、言い返してみたくてたまらなかったらしい。めちゃくちゃ得意そうで満足そうな顔に、なんだか肩の力が抜けたような気になりながら、キッチンの流しで急いで手を洗ってくる。
「「いただきます」」
パンッと手と声を合わせて箸を持つ。お兄ちゃんは、スプーンだけど。お茶漬けにスプーン……食べやすいのは分かるけどね?
「……にがっ」
思わずボソリと呟いてしまう。お茶漬けが、とんでもなく苦い。なんか抹茶でもかけてるみたいに、渋くて苦い。これはたぶん、お茶漬けではない何かだ。
インスタントなのに、どうしてこうなるのだろうか。冷凍してとっておいた、昨日のご飯の残りをレンジでチンして、おいしいお茶漬けの元と一緒にお湯をかけるだけでいいはずなのに。
「お兄ちゃん……これお湯じゃなくてお茶使ったの?」
「いや、お前がいつも作ってくれる時、お茶淹れてやってたから……俺もたまにはそうしようかと思って。同じようにやったはず、なんだがな」
それは出来る限りお兄ちゃんにおいしいものを食べて欲しい、と思ってるからなのであって。お茶淹れてかけると、ちょっと高級感出るし、おいしい感じするし。
「お茶いれる時、時間はかった?」
「時間……?」
キョトン、とした顔をするお兄ちゃんに『あ、これダメなやつだ』と思う。お兄ちゃんは、何度言っても時間をはかるとか、分量をはかるとか、そういう概念を理解してくれたためしがない。
苦い、というかむしろマズいけど、せっかくお兄ちゃんが作って(?)くれたものだから、息を止めてズズズっと喉に流し込んでおく。おかげで味は良く分からなかったけど、胃の底から身体がジンワリとあったかくなってきた。
「あったかい……」
実際に口にすると、本当に心までじわじわ解けていくような気がした。料理が絶望的に苦手なお兄ちゃんが、私を元気づけようと思ってキッチンに立ってくれたんだ。そう思うだけで、なんだか涙と感謝がこみ上げてきて、ごまかすみたいにお味噌汁へと口をつけた。
「うすっ」
いま感謝しようと思った直後に、思わず口にしてしまう。インスタント味噌汁ってこんなに味薄かったっけ。いや、そんなはずないよね。
「お兄ちゃん、お湯の分量はかった?」
「いや?」
なんでそんな自信満々なの、お兄ちゃん……
しかも思ったけど、どっちも流動食だ……私は介護の必要なおばあちゃんか何かなの。色々とツッコミたい気持ちでいっぱいだけど、それよりもなんだか笑ってしまいそうで。それを必死に堪えて、一応ちゃんとお小言を言っておく。
「お兄ちゃん、インスタントくらいはちゃんと作れるようになろうね?」
「はい……」
シュンと肩を下げる姿を横目に、もう一回息を止めてズズズっとお味噌汁を喉に流し込む。ちなみにお兄ちゃんは猫舌だから、スプーンでちょっとずつお味噌汁をすくって呑んでいる。それを見ると、日本人としてちょっと……いや、かなり複雑な気分になるけど。
「でも、ありがと」
素直に言葉を口にすると、お兄ちゃんは目をパチクリさせた。
「ん」
頷いて、優しい笑顔を浮かべたお兄ちゃんに、ドキリと心臓が跳ねた。全身がブワリと熱くなって、血液の流れる音が痛いくらいに耳奥で響く。




