表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/104

05 博士たちと議論するキリスト ⑤

「……大丈夫か」

「はい」


 しっかりと頷いた神代に、俺も頷きを返す。


「先輩を、追いかけて下さい」

「ああ」


 俺は芸術家である以前に、灯の家族だから。追いかける理由なんて、きっとそれだけで十分だった。


「来栖」

「っ、はい」


 難しい顔をして俺達の話を聞いていた来栖が、ピンと背筋を伸ばして立ち上がる……本当に、こいつらは。俺はこんな敬意を受け取る資格なんて、あるはずもないダメ教師だってのに、自分がマトモな人間か何かみたいに勘違いでもしてしまいそうだ。


「後は、頼んだぞ」

「はいっ……灯ちゃんのこと、お願いします」


 来栖がいつものように、丁寧に頭を下げて俺を送り出す。なんて言うか、頭を下げるべきはこっちだよなと思いつつ「了解だ」と頷いて美術室を後にした。来栖になら、安心してあの二人を任せられる。そんな風に無条件に頼れる程度には、本当に良くやってくれていた。


 廊下を歩きながら、灯は今頃どうしているだろうかと考える。もしかしたら、一人で泣いているかもしれない。普段の灯だったら、泣き寝入りなんて考えられないような気の強さと言うか、芯の強さがある。ただ、今回の件に関しては話が別だ。


 灯は話が俺に絡むと、驚くほどメンタルが弱くなる。顔にも言葉にも出さないが、もしかすると芸術に対するトラウマは、俺より灯の方が強いかもしれないとすら思う。かつては美しいものが好きだった灯は、いつからかそれに触れることを躊躇(ためら)うようになった。どこか恐れるように目を背けて、俺が『そちら側』に近付くことを過剰なほど心配している。


 前は声楽のレッスンをもっと詰めて、本気で歌を歌って生きていくんだと、目を輝かせていた……そんな灯は、もうどこにもいない。


「俺が、殺した……」


 かすれた声が、喉奥から漏れる。もちろん、文字通りの意味じゃない。それでも誰より大事な人の未来を、俺は今この瞬間でさえ殺し続けている。

 灯にとって芸術とは、俺をズタズタに傷付けたもので、これ以上ないほどに俺を損なったもので、茫漠(ぼうばく)とした空白の時間と絶望を引き連れてきたもので、俺を灯から奪い続けたもので。そんな、おぞましく冷たい怪物なのだと、植え付けたのは間違いなく俺だった。


 自惚(うぬぼ)れでもなんでもなく、灯が自分の人生の中で、俺にまつわることを最優先項目として置いていることは間違いない。いつでも俺のことを気にかけて、俺の望みならどんなことでも文句も言わずに聞き届けて、俺が疲れ果ててどうしようもなく壊れてしまっていた時だって、こんなクソ兄貴を見捨てずに寄り添い続けて……


 ボロボロになって自分を見失っていた俺を、一番近くで見ていたのは灯だ。俺をそんな風にしてしまった芸術というものを、今でも心の奥底で恐れている。今日だっていつもならもっと早くに、もっと上手いやり方で仲裁に入っていたはずなのに、灯にしてはやり方をミスったのは、芸術なんてものを巡って発した言葉で誰かが傷付くことを恐れたからだ。


(……俺にとって、本当に大事なものって、なんだ)


 灯を……大切な人をあんなにも傷付けて、それでももう一度、芸術に関わる必要なんてあるのか?今ならまだ、引き返せる……いや、引き返すことはできないかもしれないが、教師としての職なんて捨ててしまえば、俺が後ろ指をさされるだけで済む。

 それなのにどうして、そんな選択肢があることを知っていて、それでも踏み出そうとした?どうして、神代の言葉を止めなかった?どうして、八神と神代の二人を受け入れた?どうして、来栖が芸術部を再興させることに、反対しなかった?


「……どうして俺は、ここにいる?」


 問いかけても、答えなんて返るはずがない。


 きっと俺は、既に正解を知っている。誰も傷付けずに、誰にも迷惑かけずに生きていければいい、なんて。



 そんな最低の嘘を吐き続けてきた、俺自身の心が抱える泥だらけの真実を。



 *



「どうして」



 涙を含んだ声が、みっともなく震えて耳をふさぐ。


 冷たい部屋に、冷たいベッド。いつもと同じ自分の部屋のはずなのに、この場所すら自分のものじゃないみたいに感じられて立ち尽くす。どうやってここまで、帰ってきたんだっけ。


(私は、間違ってない)


 どれだけ言い聞かせても、心が違うって叫んでる。あの痛いくらいの沈黙の中で、私だけが間違っていたんだと、誰よりも自分がよく分かってた。


 芸術家の庭に、土足で踏み込んだのは私だ。枯れた葉を摘み取り、植え替えるために花を引き抜き、成長に必要なだけの邪魔な枝を払っている人達に『庭を荒らさないで』と、何も知らない私が根を踏みつけて光を絶やして、何もかも台無しにしようとした。


(私、お兄ちゃんの顔に泥を塗ったんだ……)


 きっと、みんな呆れていた。お兄ちゃんだって、困った感じの顔してた。私は、こんなに長い間お兄ちゃんの……穂高燿の隣にいて、何一つ分かってなかった。

 ううん、分かっていて見えていないフリをしてた。みんな、言葉こそ荒かったけど、活き活きして楽しそうに議論してた。いつもは大人しくてニコニコしてみんなの話を聞いている結ちゃんだって、あれがどんな場なのかちゃんと理解して沢山話してた。それなのに私は、正しさを振りかざして、自分が見たくないものを遠ざけようとしただけ。最初から、私の方が異物だったんだから、私が立ち去るべきだったのに。


 芸術部は、変わった。今までみたいな緩くて、私とお兄ちゃんがダラダラ放課後を過ごすだけの場所じゃ、とっくになくなってる。変わっていくことに、ダダをこねてるのは私だけだ。別に、ダラダラしたいならどこだってできる……ううん、それでもまだ嘘を吐いてる。

 もっとシンプルに、お兄ちゃんの一番近い場所にいたかっただけ。お兄ちゃんのこと、一番分かってるのは私だなんて言いながら、本当にお兄ちゃんが望んでるものから必死に遠ざけようとしてるのは私。本当は、心の奥底では芸術の世界に戻りたいんだって、ずっと知ってた……でも、それにわざと気付かせないように振る舞って、穂高燿から芸術を奪い続けてた。


 世界のことなんてどうでもいい。お兄ちゃんが何を本当に望んでるかなんて、口にされたことないから知らない。だって芸術は、お兄ちゃんを私から連れていってしまう。どこか遠い場所へ、私の知らない、手の届かない世界の高みへ。

 お兄ちゃんは確かに生まれながらの天才じゃなかったけど、もうとっくの昔に天才達の領域に足を踏み入れてた。あのまま描き続けていれば、きっと今頃世界で活躍する芸術家になってた。邪魔してるのは、足を引っ張っているのは、私だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ