01 赤と青と黄色のコンポジション。俺はどれも目立ちそうでイヤだ。
「ぃちゃん……お兄ちゃん」
優しい手の感触が、そっと俺の肩を揺らす。ゆりかごにでも揺られているような感覚に、ようやく呼吸の仕方を思い出し、ゆるゆると全身の力が抜けていく。
このまま、眠ってしまいたい――
「あ、いまちょっと起きたでしょ。もっかい寝ようとしないでってば……」
つんつん、と。
うっすら開けたまぶたの隙間から、淡いピンク色の指先が俺の頬をつつくのが見えた。
「……今、何時だ」
寝起きのかすれた声を、喉奥からしぼり出す。今日も最悪の夢見だった。
「もうすぐお昼の二時だよ。今日は午前授業だから、みんな帰っちゃった。ずっとここで寝てると、風邪ひくよー?」
透き通るソプラノが、少しだけ呆れたような響きで鼓膜を揺らす。
その声に引き上げられるようにして、机に突っ伏していた身体を起こし、指先を組んでグイと伸びをする。気持ちの良いくらいにバキバキと骨が鳴って、肺の中に冷たい酸素が入り込んでくる。
全身に巡る血液と、脳天に突き抜けるような油絵具の独特な香り。まったりと舌に残るような油の匂い、それから軽いシンナー臭。そこに画材ひとつひとつが持つ仄かな香りが入り混じり、まさに『美術室の匂い』としか表現できないような空間を生み出している。
(……あとで、また換気しとかないとな)
指先に血液が行き渡ると、急に寒さを感じた。空調はいつでも効かせているはずなのに、いつの間にか切れてしまっている。事務の嫌がらせか、生徒の嫌がらせか。
少しずつクリアになってきた視界に、甘いチョコレート色の髪が昼下がりの太陽に透けている。綺麗だ。この髪だけでも、誰のものかすぐに分かる。やわらかな毛先を指先ですくって、いつものように遊んでいると、今度こそ呆れたような溜め息が落ちてきた。
「お兄ちゃん……私の髪で遊ぶのやめてって、いつも言ってるよね?」
「ああ、つい……ずいぶん伸びたな」
呟いて見上げると、少し頬を赤くしてご立腹の妹様が俺の顔を覗き込んでいた。きゅっと窄まった顎に、思わずつまみたくなるような尖る唇。少しだけ猫っぽいパチリとした瞳は、鮮やかなバーミリオンを溶かしたみたいに、優しい赤みを帯びた焦げ茶色。
とんでもない美少女、なんてのたまうほど盲目的なシスコンではないつもりだが、普通に可愛いとは思っている。背中の半分くらいまで伸びた髪は彼女のご自慢で、黒いベルベットのリボンでまとめ上げられたポニーテールは、眩しい白のセーラー服の背中を緩やかなウェーブを描いてすべり落ちていく。
「そろそろ、切った方がいいのかな」
スルリと俺の手から逃げながら、我が妹……灯は呟いた。
「整えるだけにしとけよ。もったいない」
「そっ、そう?じゃあ……そうしようかな」
何故か動揺したような顔をすると、灯はクルリと踵を返した。フワリと深いグリーンのプリーツスカートが広がり、折れそうに細い足首が描く軌跡を思わず目で追いかける。
「今日は先に帰るのか?」
灯が見張りをしていてくれれば、もう少し眠っている余裕がありそうなのに、と少し残念さが声に滲む。
「ううん、声楽の先生のとこ」
灯は教会の聖歌隊に属しているのだが、それとは別に週一で声楽を習いに行っている。本人としては特にプロになるつもりもないのに、と恐縮しているが才能を眠らせておくには惜しいという周囲の(主に俺の)強い勧めによるものであり、楽しいには楽しいらしいので辞めたいと灯が言い出さない限りは続けさせるつもりでいる。
「そうか。なら、飯は惣菜か弁当でも」
買うか、と続けるより先に、凄まじい剣幕で言葉を遮られる。
「ぜーったい、ダメ!そんなこと言って、すぐに不健康生活になっちゃうんだから。私が帰るまで、ちゃんと待ってて。あ、ご飯だけ炊いておいて!そうだ、これも買ってきて!」
その声に少し遅れて『ピコン』という微かな電子音と共に、視界の隅でメッセージアイコンが点滅する。基本的に灯以外から連絡が来ることなんてないし、そもそも俺達兄妹はほとんどの用事を会話で済ませてしまうので、うっかりすると自分がこんな機能を持っている『機械』を身に着けているんだってことを忘れてしまいそうになる。