03 民衆を導く自由の女神 ⑤
「三年間よろしく頼むと言っておきながら、信頼関係を蔑ろにしようとしたことに対してだ。自分の言葉には、それから自分の人生には、確かに責任を持たなくてはいけないか」
俺の言葉に、教室の空気が痛いくらいに張り詰めるのを感じた。その言葉の重さを、例え高校生だとしても、こいつらにはイヤと言うほど分かっていると俺も理解した。
「八神と神代の言葉通り、俺は桜花賞で盗作騒ぎを起こした穂高燿だ」
突き刺すような静寂と沈黙の中で、誰一人として動揺していなかった。最初から、こいつらには覚悟なんか出来ていたのだと、誰もが俺を何者なのか……いいや、何者『だったのか』を知りながら、常磐の門を叩いた。俺は、俺の認識が甘すぎたことに、今更のように気付かされる。八神の言葉が耳の奥に響いた。
(名前の重さを自覚しろ、ね……)
俺は、とうの昔に忘れ去られた事件だと思っていた。俺の名前はとうの昔に世界から忘れ去られたものだと、縋るべきではない過去の栄光だと、そう思っていた。思い込もうとしていたのかもしれない。俺が活躍した頃なんて、こいつらは小さい子供だっただろうなんて思っていたが、その年の頃には俺だってとっくの昔に美術の世界でどっぷり浸かってた。
この教室の中で、きっと俺だけが理解していなかった。覚悟もできていなかった。今からその失態を取り返すのは難しいが、例え遅すぎたとしても示すべき誠意がある。
「俺は、あの一件以来は一度も油絵を描いてない」
今度こそ、空気がザワリと揺れるのを感じた。確かに、バリバリ毎日何枚も絵を描いて、アホみたいにキャンバスを消費していた全盛期の俺を記憶しているなら、その反応も無理はない。それでも本当に、一枚どころか一筆たりとも、油絵を描くことはなかった。
それが事実だと俺の雰囲気からか、それとも事実この世に一枚も俺の絵が出ていない客観的事実から理解したのか、どこか不安そうな表情で八神が声をあげる。
「どうして……どうして、やめてしまったんですか」
何かを恐れるように震える声に、彼女を天才と言う名の怪物として遠ざけようとしていた自分を恥じた。それでも彼女は、まだ高校生になりたての子供だっていうのに。こいつらには話しておかなくちゃいけない、と。俺は息を吸い込んで腹をくくった。
「描けないんだ」
空気が凍りつくのを、感じた。誰かが、小さく息を呑む音も。信じられないと、信じたくないとでも言うように、見開かれる瞳を。俺はどれも全部受け止めて、言葉を続けた。
「これをお前らに隠しておくのは誠実じゃないと思うし、芸術家相手に隠してもすぐバレると思うから言っておく。俺はもう、リアルの絵が描けない。この世に自分の作品を残すという行為に、耐えられない身体になってる。筆を持つと、手が震える。キャンバスに向かうと、吐き気がする。絵の具の散らばったパレットを見ると、呼吸ができなくなる。自分で持ってた作品は、妹に泣いて止められたけど……それでも耐えきれなくて全部燃やした」
八神が、何か酷い傷痕を見せつけられたかのような顔で、そっと目を逸らした。それでも、これが現実だ。かつては俺も輝かしく、こいつらにとっては英雄のような存在だった時があったのかもしれない。でも今は、何もこの手には残っていない……少なくとも、芸術家としては使い物にならないガラクタだ。
「見ての通り、俺はマトモに誰かに何かを教えられる人間じゃない。それでも美術教師としては何とかやって来た……別に『これ』を布教するわけじゃないが」
トントン、と耳のあたりのヘッドセットを指差すと、何人かがハッとしたような顔で気付く。そう言うことだ。レゾナンスが登場したお陰で、俺は絵筆を持たなくても、実際に絵を描いているのと同じ感覚で作業ができるようになった。ただ、リアルな手の感覚が存在しないだけ……そして、描き上がったものをすぐにこの世から消しされるという安心感。
「もちろん、レゾナンスを使って真面目に芸術をやってる人間はいる。そいつらを馬鹿にするつもりは全くないが、今の俺がやってることは、芸術でも何でもない。単なるお絵描きと一緒だ……芸術はきっと、誰かに見せて認められる過程が必要なものだから。だから、今の俺の絵は、今の俺にできることは、単なる自己満足に過ぎないのかもしれない」
俺は小さく息を吐いて、教室中を見渡した。どの顔も、俺にとっては見知った顔だ。もう他人とは思えないほどに、その顔写真と、作品とにらめっこしていた。入学式ではあれだけふてぶてしい面構えだったこいつらが、今はどこか見知らぬ異国の地に放り出されてしまったような、そんな戸惑いを必死に隠したような緊張を顔に浮かべている。
無理もない。入学早々に突きつける現実でもないだろう。それでも俺は、夢や希望をこいつらに語って、自分が信じてもいないバラ色の理想的な未来を見せる気はなかった。そんな場所は、とっくに通り過ぎて来たヤツらだ。その証拠に、誰もが動揺しても取り乱しはしない。
知っているはずだった。芸術家として成功できるのは、たった一握りなのだということを。この教室にいるうちの、一人二人でも一生涯芸術家として食べていけるなら良い方で、今その地位に最も近い場所にいるはずの八神と神代ですら、俺のような『失敗作』になってしまう危険性と常に隣り合わせの崖っぷちを走り続けているのだということを。
知っていて、でもそれは知識だけで、現実として目の前にあったワケではないはずだ。そういう人間は、とうの昔に彼らの進む道の上からは居なくなっていることが普通だから。だからこそ、俺は伝えなくちゃいけない。真実を、現実を。
「芸術家として食っていくのがどれだけ大変かなんて、耳にタコができるくらい聞いているだろうから俺から特に言うことはない。ただ、ここに三年間籍を置き続けることに、どれだけの意味があるのかは正直に言えば俺にも分からないし、お前達の未来を約束することもできない。俺の授業が役に立たないと思ったなら、悪いことは言わない。自分の人生のためにも、さっさとここを止めて良いトコの先生に弟子入りでも何でも身の振り方を考えろ」
誰一人、目を逸らさない……そうか、そんな覚悟は決めてきたか。それなら、俺から言えることは一つだけだ。
「もしここに残って三年間、俺に預けるって言うなら、最後まできっちり面倒は見る。俺は絶対の約束なんて言葉は嫌いだが、それだけは誓う。この三年、お前らの好きに使え。反骨精神?大いに結構……俺みたいな過去の遺物なんざに縋ってるヒマがあったら、その足で踏みにじって越えていけ。知識と技術は全部伝える。それ以上は、自分で探せ……芸術家なんだろう?」
俺の言葉で、それまで不安そうな色を浮かべていた生徒達の目に、思わず後ずさりしそうなほどの熱がこもる。ヤバい……煽るつもりはなかったんだが。だが、もう背負ってしまった。きっと今、目の前にいるこいつらの人生の岐路に、俺は立っている。
踏み出すしかない。お互いに……そもそも教える、なんて俺の性には合わない。これは芸術家同士の、個性のぶつけ合いだ。三年間の、長くて短い戦いの、幕開けだ。
*