13 パラソルをさす女 ⑨
あの時、俺を抱き締めて『おかえり』と言ってくれた来栖は、きっと来栖自身の心と引き換えに、俺をこの世界に引き留めてくれたんだと、今なら分かる。
あのまま独りきりで立ち尽くしていたら、俺は多分、何一つ迷わずに今この手にあるものを何もかも捨てて芸術家としての人生に舞い戻って、同じ過ちを繰り返していたと思う。
来栖が引き留めてくれたから、迷いが生まれた。人によってはそれを弱さと呼ぶのかもしれないけど、俺はいま、この手にあふれてしまった温もりを、全部まとめて大切にしたいと思うから。
(ホント、来栖に受けた恩は、一生かかっても返せないな……)
来栖は自分の恋心を二度も捨てて、俺に逃げ道をくれた……『今まで通りでいる』って逃げ道を。だから、俺に来栖の想いに対する答えを出させないで、なかったことにするなんて最低なことを許してくれた。
俺にはもったいなさすぎるくらいで、でもきっと、そんなことを言うのは来栖に対してもっと失礼だと思うから。
まだボヤケてる視界で、来栖と灯をそっと見守る。すっかり大人びてしまったと思っていた来栖も、ああやって泣いていると、まだ確かに年相応の子供に見えた。
「あーあー、結ちゃんそんなに泣かないでっ!一人で行くって言っても、母さんと父さんが住んでる家に居候させてもらう、って言い方もちょっとヘンかな……お兄ちゃんとじゃなくて、両親と暮らすことになっただけ!留学ってだけで、永住するんじゃないからちゃんと帰ってくるし。メッセも送りあおう?電話もするから」
「うん。それは嬉しいけど……先生にも、ちゃんと電話してあげてね?きっと灯ちゃんから連絡なかったら、さびしくて死んじゃうと思うし……」
「お兄ちゃんに対する、圧倒的な信頼のなさを噛み締めてるよ……」
来栖と言葉を交わすことで取り戻したと思われた灯の笑顔が、再び引きつってしまう。そうこうしている間に、俺達が入れるギリギリの出国手続きゲート手前まで来てしまった。
「ほら、いいかげんシャキっとしなさいよ。最後くらい、兄妹水入らずで話したいでしょ?」
珍しく気遣ってくれた八神と、スッとハンカチを差し出してくれた神代と、相変わらず泣いてる来栖から遠巻きに見守られて、俺は灯と向き合った。
「……本当に、日本に残るんで良かったの?」
おずおずと聞いてくる灯の不安そうな表情に、旅立つ間際まで妹にこんな顔をさせてる場合かと涙を拭う。
「ああ。俺はこっちで、まだやるべきことがあるから……桜花賞獲ったら、大手を振ってそっちに行くよ」
「その頃には、私の留学終わって日本に帰ってそうだけど」
冗談めかして言う灯に、俺は大真面目に考えて告げた。
「なら、俺も日本にいるよ」
「お兄ちゃん……あのね、何度も言ったよね?お兄ちゃんの人生なんだから、将来のことはちゃんと考えてって」
何度も聞かされたその言葉に、俺は笑って首を横に振って……それから、いつもなら言い訳をアレコレ並べるところを、今日だけは本音を告げた。
「どこだって良いんだ。お前がいるなら」
灯は、自分の耳を疑うかのように俺を見上げて……見開かれた、綺麗なバーミリオンの混じった瞳から、堪えきれなくなったように涙があふれた。
「そんな、のっ……妹離れ、できませんって、宣言してるみたいなもんじゃないっ……」
「そうだな」
「お兄ちゃんの、ばかっ……」
俺の胸を叩こうと、振り上げられた小さな手をつかまえて。小さい頃みたいに、この腕の中に灯を閉じ込めた。
離したくない。だって、ずっと一緒だったんだ。この大切な存在が、生まれたその時から、小さなその手を握って守り抜くと心に誓って。その半分も誓いは達成できなかったけれど、それでも何より大事な家族だ。
誰より幸せになって欲しいから。だから、今はこの手を離そう。
「電話してくれれば、深夜でも会議すっぽかしてでも絶対に出る。お前が呼べば、いつでも飛んでく。だから、安心して行って来い」
「うん……会議には、出てね……」
「………」
最後まで締まらない感じで、俺は気まずく視線を逸らした。
「呼ばないように、頑張るから」
「……そうか」
「……大好きだよ、お兄ちゃん」
そっと消えそうな声で呟かれた言葉を、灯ごと強く抱き締めた。
「俺も、お前が何より大切だ……この先、ずっと」
俺の言葉に、灯は泣きながら、それでも小さく笑った。
「行くね」
手の中の温もりが、名残惜しく離れて。クルリと背を向けた灯は、迷いのない足取りで真っすぐに歩いていく。いつもよりその背中が、ずっと大きく見えて、何度でも視界がボヤける。
「灯センパイっ」
「灯先輩」
「灯ちゃんっ!」
「灯っ――」
この瞬間のことだけは打ち合わせしそびれていたのに、俺達の声は自然と重なっていた。何事かと振り返る灯に、この後どうすれば良いんだ、と困り果てて横を見る。
八神が、神代が、来栖が。泣きながら、それでも力強い表情で俺の背中を押した。
俺は頷いて、灯に短いメッセを送った。それを見て、戸惑うような表情を浮かべた灯が、ふとその言葉を音にしようと口を開いた。
「「「「「シンクロ――!」」」」」
音が、言葉が、心がつながる。
もう一度だけ、あの奇跡の夜を。
《どぉぉおおんっ》
世界を震わせるような音で、光で、宙に大輪の花が咲く。
あの日、五人で指先をつないで、こんな風に空を見上げて。
確かに心の深くて柔らかい場所で、繋がり合っていた日々の象徴のように。誇り高く、力強く、帰り着く場所を示す『灯』のように、柔らかな和火が花開く。
そうして、あの忘れもしない学園祭と俺達芸術部の駆け抜けた日々、その彩りを一つずつ優しくなぞるように七色の華やかな花火の群れが、世界を照らす。
「行ってこい、灯っ!」
俺達にだけ聞こえている、この打ち上げ花火にかき消されないよう、叫んだ。
誰もが振り返る。でも、届くのは、たった一人だけでいい――
《いってきます》
その形に口が動いて、満面の笑みを浮かべた灯は、背を向けて二度と振り返らなかった。
最後の花火と共に、その背中がゲートの向こう側に消えても、俺達はしばらく立ち尽くしていた。それでももう、誰も泣かなかった。俺でさえも。
「……帰りましょう、先生」
来栖の、優しい声が降る。
いつの間にか座り込んでいた俺は、差し伸べられた手を少し迷った後に、そっと掴んで立ち上がった。
それを見た八神も神代も、安心したように笑みを浮かべると、先に立って歩き始めた。
覚束ない足取りで歩く俺の横を、当たり前のように歩幅を合わせて歩いてくれる来栖に気付き、ふと心にあふれた言葉を口にしていた。
「……ありがとな、来栖」
何のことだか分からない、という風に首を傾げた来栖に、俺は笑って首を横に振った。
「ちょっと、言いたくなっただけだ」
そう呟いて、前を見つめる。
何だかんだ、またしょーもない言い争いを勃発させながらも、仲良く歩いていく八神と神代の背中に、思わず笑みがこぼれた。
帰ろう、俺達の芸術部へ。
「シンクロ――」
今日もまた、その言葉が新しい世界の夜明けを告げる。
魔法の指先で、世界で一番美しい、この刹那を描き続けよう。
何度でも、この心で繋がり合うために――
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ハイファンタジー『塔の上の錬金術師と光の娘』も連載しています。