13 パラソルをさす女 ⑧
「ううっ、ぐすっ……イヤだ……行きたくないよぉ」
「良い年こいたオッサンが、駄々こねてんじゃないわよ。恥ずかしいでしょうがっ」
ついに来てしまった……灯との別れの時。俺はまだ現実と向き合えず、抜け殻のように、というよりも幼児のように八神に引きずられていた。アット・ザ・エアポートである。
「大体ね、アンタがちゃんと話聞かないで早とちりして、半狂乱になって美術室半壊させて復旧させたの誰だと思ってんの?私達よ!これ以上、迷惑かけないでよねっ?」
「ううっ、ぐすんっ……」
「話聞いてないわ、このダメ教師。ダメさに拍車かかってる」
処置なし、とばかりに八神が肩をすくめるから、引きずられてる俺の頭はガッコンガッコン揺れるけど、それでも涙は止まってくれない。
生まれてこの方、灯と離れて暮らすなんて初めてのことだった。灯がフランスに行く、と言い出したのが『ついに愛想をつかしたから』とかではなく『声楽の勉強がしたいから』って理由だったのがせめてもの救いだが、リアルに灯が日本から……俺の元から長期間いなくなるのは事実だ。現実は、何も変わっていないのである。
「灯先輩……先生が今まで以上にどうしようもないポンコツへと成り下がっていらっしゃるのですが、どうか思いとどまって頂くことは出来ませんか」
「梓ちゃんって、意外とお兄ちゃんに対して辛辣だよね……うん、でも決めたことだから、ごめんね。みんなには迷惑かけちゃう、っていうか現在進行系で迷惑かけちゃってるけど……」
チラリと灯が後方で泣き崩れている俺を見る。不肖、この兄、一応忸怩たる思いではあるんだが、心の決壊は止められない。
「でも、何だかんだ言ってやれば出来る人だから。十年に一回くらいしかやる気出さないだけで」
「それはもう、やる気を使い切っていらっしゃる、ということでは」
「………」
「…………」
微妙な沈黙が落ちる。そんなに落ち込まないで欲しい、妹よ。原因は俺だけど。
「えっと、そのね!今はちょっと、遅れて再発したショックでおかしくなってるけど、昨夜はちゃんと笑顔で祝福してくれたんだよ!頑張って来いよって言ってたし、俺はちゃんとやるから心配するなって言ってたし。今はダメだけど」
「………」
灯のフォローになってないようなフォローに、神代が遠慮のないジト目を送る。
「でも、私との約束は絶対に守る人だから」
「その言葉は妙に信頼できるのが、この男のシスコンっぷりを如実に示してるわ……」
八神がイヤそうにしみじみと言葉を落として、神代がコクコクと頷き、灯は引きつった表情を浮かべた。
「うぅっ、くっ……そんなっ、たった一人の妹がっ、フランスなんて遠い国にっ、一人で行くなんてっ……さびしいに、きまってるよっ」
さっきから俺と並んで泣いている来栖が、しゃくりあげながら言葉を落とす。そうだな来栖、分かってくれるのはお前だけだ。
そんな風に泣きじゃくっている来栖と俺の間に、あの微妙な空気は微塵も残っていない ……と言えばウソにはなるが、少しずつかつての関係に戻り始めてはいる。桜花賞の発表が終わって、俺も芸術家として本格的に復帰しつつ教師も続ける覚悟を決めて、灯の留学騒動が一段落ついて、と来栖への返事(そもそも告白されてないけど)を先延ばしにしすぎてしまっていることに気付いた俺は、慌てて来栖を職権濫用で美術準備室に呼び出した。
*
『来栖、その……』
『学園祭の時の、ことですか?』
先回りして言われてしまった言葉に、どうしたらいいんだと慌てる俺を見て、来栖は妙に吹っ切れたような笑みを浮かべた。
『良いんです。お返事は下さらなくて……というよりも、なかったことにして下さって、構いません』
『そんな……なかったことには、できないだろ』
俺の身も蓋もない返事に、来栖はちょっと困ったような表情で首を傾げた。
『でも、あの時は私がルール違反をしてしまったので。先生が、もし気になさるようなら『そういうこと』に、してください』
そういうこと、がどういうことなのか、俺にはさっぱり分からなくて。でも、来栖は俺が何か決定的な言葉を言うことを、許しはしなかった。
『それに……先生が、そうやって真剣に考えて下さっただけでも嬉しいんです』
そう言って、本当に嬉しそうに来栖が笑うから、俺はそれ以上何も言うことができなかった。なんだか、この短い時間で、来栖が急に大人になってしまったみたいで……正直、戸惑う。
『私、実はみんなに内緒で願掛けしてたんです』
『願掛け……?』
唐突な話の展開に、ついていけなくて首をひねる。
『実は、小説をひとつ、賞に応募してみたんです』
『え、すごいじゃんか』
『結果は惨敗でしたけどね』
サラリと告げられた言葉に、絶句する。
『一次選考通ったら、好きな人に告白して、小説を書き続ける。通らなかったら、どっちも今は大学に合格するまでスッパリ諦めて、勉強に専念する……だから、告白できなくなっちゃいました』
そう言って笑う来栖の瞳には、自分で決めたことだから、と貫き通す意志が浮かんでいるようにみえた。
『ずっと、奏ちゃんとか……芸術部のみんなの『好き』と、私の『好き』は違うんじゃないかなって思ってて。一次選考、落ちたのは当たり前なんです。今まで一本もちゃんとした長編小説なんて書いたことなくて、後から読み返したらストーリーは書いた本人の私でも意味が分からなくて、字だっていっぱい間違ってました』
『でも、だからって』
『一回だけで、諦められちゃったんです。きっと、今の私が小説に持ってる『好き』は、一生これだけ続けていたいって『好き』じゃない。そう思ったから……これは、私の心の問題なんです。自分勝手で、ごめんなさい』
それはきっと、俺に対する気持ちの話とリンクしているに違いなかった。それが来栖の出した答えかと、それなら確かに、俺から言えることは何もないと、そう思った。
『私、先生みたいな教師になるって、決めました。それだって、一生続けられる『好き』じゃないかもしれないけど、今はそれに向かって頑張りたいと思います。いつかは小説だって、一生続けたくなるくらい好きになれるかもしれないし』
そう言って力強く笑った来栖に、俺は万感をこめて頷きながら、たまには人生の先輩らしく一つだけアドバイスを贈った。それはもう、真剣に。
『俺みたいになるのは、やめとこうか』
*