13 パラソルをさす女 ⑤
誰とも関わらず、誰も傷付けずになんて、そんな風に綺麗に生きていけるはずなんてなかった。だって今……こんなにも目の前の存在を、大事にしたいと思ってる。
「神代、ごめん」
「謝罪、など……聞きたくありません」
そうか。そう、だよな。
「お前が水上に立ち向かってくれたから、俺も……それから八神も、芸術科のクラスの奴らもみんな、名誉を損なわれずに済んだ。お前のおかげだ、神代。ありがとう」
「っ……はい」
どこかホッとしたような表情で、神代は笑った。それでもまだ、どこか怯えているみたいに揺らいでいる瞳の奥底は、きっとあの場所で見た感情の色がまだ焼き付いて離れないから。自分の芸術性を否定され、根底から世界を壊されてしまった人間の色は、あんなにも神代の手が震えて冷え切るほどに痛ましいものだったんだろう。
それでも、神代が傷付く必要なんてないんだと、お前は悪くないんだと……神代がこれ以上苦しまずに済むのなら、何度だってそう伝えたかった。
「あの男……水上は、棗一樹の弟子なのよ。今回の桜花賞に提出してるって分かってたから、私達も警戒してた。まさか本当にやらかすとは思ってなかったけど」
「そう、だったのか」
八神の言葉に、自分がこれまでどれだけ世界に対して無頓着だったのかを思い知らされる。孤高を気取ってるのは、本当に一人なら好きにやってりゃいいんだろうが、こんな風に大切な人達がいるなら、そろそろ俺も目を覚ますべき時だろう。むしろ、遅すぎたくらいだ。
「師匠に唆されたのか、自分で勝手に突っ走ったのか……どっちにしろ、あの男はまともに日本で芸術家としては食べていけないわね。あの実力差見せつけられたら、立ち直るのだって難しいでしょ。いっそ憐れなくらいね」
八神の言葉に、神代が俯く。その姿を見て、八神は小さく溜め息を吐いた。
「シケた面してんじゃないわよ。もっと誇りなさいよ!選んだんでしょ、アンタは。どこの馬の骨ともしれない他人の人生と自分の良心っていう綺麗事じゃなくて、今ここにいる私達を選んで守りきったじゃない。この朴念仁教師が、珍しく殊勝にアンタを褒めたんだから、ふんぞり返って笑ってりゃいいのよ。いいっ?」
八神がまくしたてる言葉に、ポカンとした表情を浮かべていた神代は、やがて強張っていた表情を緩めて苦笑した。
「私は、やはり良い友を持ちましたね」
神代の言葉に、いつもなら『気色悪い』だの『やかましい』だのと憎まれ口を叩く八神も、今日ばかりは苦い表情を浮かべてそっぽを向いただけだった。俺が言えた口じゃないが、こんな時まで素直じゃないヤツだと思う。
「アンタもよ、穂高燿」
「へっ……あ、はい」
完全に気が緩みまくっていた俺の返事に、八神が本日何度目とも知れない呆れ顔を浮かべた。
「さすがに、これで分かったでしょ。芸術家としてのアンタは、良かれ悪しかれ影響をまき散らしまくって生きてんの。あの棗一樹だって、アンタの盗作するとか、そうでもないと勝てる気がしなかったからでしょ?意識しまくってるじゃない。本っ当に、心底認めたくはないけど、アンタは凄い芸術家なの。本気出せばね!」
「お、おう」
八神が俺を褒めるとか天変地異すぎて、思わずキョドってしまう。そんな俺に腹が立ったのか、八神は俺の胸ぐらをつかんで引き寄せると、俺の心臓に叩き込むみたいに言葉をぶつけた。
「アンタがいつまでもそうやってフラフラしてると、弟子の私達が迷惑すんのよ。これから私達が世界の頂点に立った時に『でも、あいつらの師匠、あの鳩っぽいボンクラ教師だからな……』って言わせとくつもりなワケ?ふざっけんじゃないわよ!私はそんなの認めない」
相変わらず、傲慢で、上から目線……本当に、こいつは。
でも、どうしてか、いつだって怒る気になれない。言葉なんて、手段の一つに過ぎない……いつもこいつの瞳は、逸らしてしまいたくなるくらいに真っすぐで、光そのものみたいに瞬いていて。焼き尽くされそうなくらいに熱くても、それでも触れたいと思わせる。
伸ばされた手を、今なら掴める。例えその熱に焼かれて消えてしまっても、この芸術家の糧になれるなら本望だ。そう思えるほどに、八神が桜花賞に提出した人物画は最高の出来だった。モデルは……言わぬが花、ってもんだろう。
八神は、吐き出した言葉が触れ合うくらいの距離で叫んだ。
「アンタは頷いたんでしょ。私達を選んだんでしょ。なら、師匠は師匠らしく、いつだって私達の前歩いていなさいよ!いいかげん、こっち側に戻って来なさいよ、穂高燿っ――!」