第9話 痕跡の先へ
静かな気配の中で、戦いの鼓動が高鳴る。
旧集落をあとにして村へ戻る道すがら、俺たちは言葉少なだった。
発見した痕跡は多く、得た情報も決して少なくはなかった。だが、“確かなもの”が何一つなかった。
白目の魔物の爪痕、封じられた魔力の分断、異質な金属片。
どれも、目の前にあるはずなのに、なぜか“つかみきれない”。
足取りは自然と遅くなっていた。
夕日が木々の間から差し込み、草の海が赤く染まってゆく。風はどこか湿り気を帯びていて、肌を這うたびにざわつくものを残していった。
沈黙を破ったのはゾイルだった。
「……あの魔物が、もしここを拠点にしてたなら。いつ、また現れるんでしょうか」
「わからない。ただ、そうならないようにするのが俺たちの仕事だ」
俺の言葉に、ゾイルは小さくうなずいた。彼の背中には、微かだが緊張と決意が入り混じっていた。
「明日、報告も兼ねてギルドに戻るつもりだ。あの魔物の痕跡と、集落跡の件を共有しないといけない」
「……それ、私も同行するよ」
エルムの声は落ち着いていたが、その目は何かを見据えるように強かった。
「今ある情報だけじゃ足りない。王都の記録庫か、研究所に行けば、類似事例が見つかるかもしれない。調べる時間が欲しい」
「了解。じゃあ、明日は午前のうちに出発しよう」
そのとき、ふと背後から風が吹いた。
木々のざわめき。振り返っても、そこには何もいない。
けれど、確かに“何か”が俺たちを見送っていた気がした。
村へ戻ったのは、夕闇が完全に森を覆う直前だった。
木々の影は長く伸び、空は茜色から群青に移り変わろうとしていた。
村の様子は一見、いつも通りの静けさだった。けれど、何かが違った。
空気が重い。
夜の気配が早すぎる気がした。
「……なんか変」
エルムがぽつりと呟いた。
村長宅に向かって歩く道すがら、すれ違う村人が誰も目を合わせようとしない。皆どこか早足で、扉や窓を慌てて閉めていく。夕飯時にしては、不自然な静けさだった。
「何かあったのかもしれない」
俺は歩調を速め、村長宅の門をくぐる。灯りの点いた家の中から、ゾイルの名を呼ぶ声が飛んできた。
「ゾイル、よかった……無事だったのね!」
駆け寄ってきたのは、村長夫人だった。顔には疲れと安堵が交錯している。
「何か……あったんですか?」
ゾイルが問いかけると、村長が奥から現れ、すぐに居間へ通された。
「実は……夕方になってから、家畜が騒ぎ始めてな。柵を壊して逃げ出す者まで出た。村の者たちは慌てて追いかけたが、妙に興奮してて、どうにも収まりが悪い」
「原因は?」
「わからん。ただ……何人かが“獣臭がした”と言っていてな」
その言葉に、俺とエルムが同時に顔を見合わせた。
「昨日、放牧地で魔物と交戦したときと、似たような臭いを感じた。……嫌な予感がする」
エルムが、ぎゅっと腕を組み、唇を引き結ぶ。
「念のため、探知をかける。広範囲には無理だけど、村の外縁部なら──」
エルムは背に結んでいた杖を解き、家の前の庭へ出る。
夜風がそっと髪を揺らす中、静かに目を閉じて呟いた。
「……アウラ・ベントゥス」
探知魔法が展開されると、空気の流れがわずかに変わった。
数秒、沈黙の後──
「……いた」
その声は、いつになく低く、はっきりしていた。
「村の東側、林の手前。……大きな反応が一つ。魔力は持ってない。けど、反応の“重さ”が、今までと違う」
俺は無意識に、背の剣に手をかけていた。
「来たか」
──その影が、ついに現れようとしていた。
村長は顔色を変えた。
「今すぐ鐘を鳴らす。ゾイル、お前は武器を。念のため、見張り台にも人を──」
「はい!」
ゾイルはすぐに駆け出していった。村長も奥へ引っ込み、家の中があわただしく動き始める。
俺はエルムに目配せをして、庭の柵を飛び越える。
「動くぞ。迎え撃つ」
「了解。コバルト、無理はしないで」
彼女は探知を維持しながら、俺の背を追う。
村の東端までは、徒歩で五分もかからない。
けれど、近づくにつれて空気の密度が変わっていくのがわかった。
重く、ねっとりと、肌に貼りつくような気配。
──異質だ。
これは普通の魔物じゃない。白目の変異個体とも違う。より原始的で、より“強い”。
「っ……く、これ……」
エルムが顔をしかめる。探知に微弱なノイズが走り、魔力の流れが撹乱されているのが分かる。
「魔力に反応してる。こっちの探知を嫌ってるみたい。けど、特定はできた」
彼女が指さしたのは、木立の隙間。
──そこに、いた。
巨体。
獣のような肩幅と、槌のような両腕。
脚は太く、地面を割るほどの踏み込みをするたび、鈍い震動が伝わってきた。
それは、明らかに“魔物”だった。
だが──
(違う。こいつは、ただの魔物じゃない)
俺の中で、血が騒ぐ。
皮膚の奥が、熱を帯びて、心臓の鼓動にあわせて共鳴している。
雷脈が、疼いていた。
まるで、迫りくる“それ”に共鳴するように──
だが今の俺は、暴発を恐れているわけではなかった。
英雄闘気
この“制御不能”の力を抱えたまま、誰かを守ることはできるのか。
それを、今こそ試さねばならないと思っていた。
恐怖はあった。けれど、それ以上に──
俺の中で、何かが静かに燃えていた。
視線の先、木々の間。
影が揺れた。
空気がわずかに震える。
耳鳴りがした。重く、低い音だった。
その気配を、俺の雷脈が“先に”捉えていた。
身体の芯が熱くなる。
血が、脈打つたびに皮膚の表面へ向かって雷のようなざわめきを走らせた。
(来る──!)
俺は息を整え、剣を構える。
エルムはすぐ後ろで、すでに土と風の術式を展開していた。
彼女の気配も、微かに震えている。だがその背筋は真っ直ぐに伸びていた。
彼女も、怖れていた。
でも、俺と同じように──それでも前を見ていた。
影が踏み出す。
月明かりに照らされ、姿を現した。
オーガ。
だが、明らかに“おかしい”。
白目。
巨大化した片腕。
皮膚に走る黒い筋と、不規則な呼吸。
魔力の気配はない。
だというのに、存在そのものが“圧”を放っていた。
あれは、自然界の存在ではない。
何かに“混ざった”異物。
「……止める」
俺はそう呟いた。誰に言ったのかもわからない。ただ、
この村に、誰も近づけさせたくなかった。
この家族たちの、穏やかな日常を奪わせたくなかった。
剣を、一歩前に出して構える。
それだけで、雷脈が応える。
疼きが、輪郭を持ちはじめる。
力が、流れ込んでくるのではなく──俺の内から“溢れ出す”ようだった。
(この力が、俺のものなら──)
(この剣に、宿ってくれるなら──)
「俺は、守る」
風が鳴いた。
土が震えた。
そして、敵が吼えた。
戦いが、始まろうとしていた。
決意は剣に宿り、雷は目覚める。