第8話 集落跡に潜むもの
静けさの奥に、何かがいる。
午後の陽が、斜めに射しはじめていた。昼を回ったばかりだというのに、山の影が道の一部を早くも覆いはじめている。
俺たちはゾイルの案内で、村から東へ小一時間ほど歩いた場所にある「旧集落跡」を目指していた。その昔、開拓民が入植したが、土壌の問題や獣害、地脈の不安定さなどが重なって定住が断念された場所らしい。
「村の記録に残ってるわけじゃないけど、うちの爺さんが生前に話してくれたことがあって」
先を歩くゾイルが振り返る。
「“昔あそこに人が住もうとしたが、夜になると何かが来るって言ってた。で、次第に誰もいなくなった”って」
「地縛霊か、古代魔術の残響か……まあ、ろくなもんじゃないわね」
エルムが、乾いた笑みをこぼす。
とはいえ、彼女の指先には薄く魔力の探知網が張られている。
風の揺らぎや草の動きを“計測”するように、微細な気配の変化を拾い上げているのが伝わってきた。
俺は彼女の進路を外から囲むように位置をとり、ゾイルの後方とエルムの側面、双方を警戒するように歩く。
こうした三人での調査行動にも、ようやく少しずつ慣れてきた。
旧集落への道は踏みならされておらず、獣道のように草をかき分けながら進む必要があった。
ただし獣道にしては、足跡のような痕跡が多い。しかも──
「……蹄跡?」
しゃがみこんだエルムが、枯れ草を払って地面を露わにする。
「でも、奇妙だな。馬でも牛でもない……もっとこう、いびつ」
「獣臭がするな」
俺は鼻をしかめて言った。
この手の臭いには慣れている。けれど、これはただの野生獣のそれじゃない。魔物特有の、身体の内側から滲み出るような臭い。
「……先行してるやつがいるかもな」
俺は剣の柄にそっと手を置いた。まだ抜くには早い。
けれど、いつでも応じられるように。
この空気は──昨日の、あの白目の魔物が出た直前の気配とよく似ていた。
俺たちは、足元に気を配りながら慎重に進んだ。草の丈は次第に高くなり、道と呼べるものも完全に消えていた。
それでもゾイルは方角を見失うことなく、迷いのない足取りで前を進む。
「この辺り、以前に父と猟に来たことがあるんです。地図には載ってませんが、地形の感覚は覚えています」
ゾイルの言葉に、エルムが安心したように微笑んだ。
「頼もしい案内人だね」
「いえ、僕なんて……。でも、村のためなら何でもします」
言葉こそ控えめだが、その瞳には確かな意志が宿っていた。
やがて、木立の先に瓦礫のようなものが見えはじめた。
蔦に覆われた石積みの土台、半ば崩れかけた煉瓦の残骸。かつて人の手で築かれたであろうそれらが、草の海に埋もれるように散在している。
「……ここが、旧集落跡」
エルムが小さく呟く。
静まり返ったその場所には、鳥の声すらなかった。風が止まり、森全体が息を潜めているように感じられた。
俺たちは足を止め、しばし無言でその光景を見つめた。
「何かいる、とは思わない。でも、何かが“いた”痕跡は確実にある」
エルムが目を閉じ、探知に集中する。空気を撫でるように指先を滑らせ、微細な魔力の揺らぎを探る。
「魔力残留、かなり薄いけど……構造が複雑。これは自然に漏れたものじゃない」
「誰かが、何かを“試した”跡……ってことか」
「多分。でなきゃ、こんな歪んだ流れにならない」
俺はそっと剣の柄に再び触れた。
手に汗はない。ただ、皮膚の奥で静かに何かが騒ぎ出す感覚だけが残っている。
蔦に埋もれた石積みの遺構。そのすぐ脇に、崩れかけた石垣があった。
人の手で組まれたそれは、明らかに“作為”を感じさせる構造だった。
「ゾイル、これ……」
「はい。おそらく、以前は小さな倉庫か、祠のような建物だったと思います」
「残骸にしては保存状態が良すぎる」
俺は足元の瓦礫を一つひっくり返した。裏面には、焦げたような跡があった。
ただし、火によるものではない。熱ではなく、圧迫された何か──歪みのような力が加わった痕。
「……これ、魔力じゃないな」
「うん。私の探知にもほとんど反応がない。でも、“感覚”は残ってる。不自然な空白っていうか……」
エルムは言いながら、そっと掌を土に当てる。
その目が、少し見開かれた。
「魔力の流れが、ここだけ不連続。まるで、何かを境に“分断”されてるみたい」
「……結界か?」
「古い型の可能性もある。あるいは、物理的に何かを封じ込めた痕跡かもしれない」
風が、微かに鳴った。
木々の隙間を抜けていったはずの風は、俺たちの足元で、なぜか巻き込まれるように沈黙した。
そのとき──
カチリ、と。音がした。
エルムがはっとして顔を上げる。
「今の、聞こえた?」
「……ああ。金属か、骨か……何かが“動いた”音だ」
ゾイルが周囲を見渡し、警戒の目を走らせる。
彼の手も、腰の短剣へと自然に添えられていた。
「反応は……ない。でも、魔力じゃない何かが、確かに近くにいる」
「姿を隠してる……あるいは、探知の網をすり抜けるタイプか」
俺は呼吸を整え、耳を澄ませる。
風の音。葉擦れ。鳥の気配──……ない。
昨日の放牧地と、同じ空気だった。
違うのは、ここが“何かを待っている”ような静けさを持っていることだ。
「……まずいな。帰り道、封じられたら面倒だ。ゾイル、来た道は覚えてるか?」
「はい。大丈夫です。視界が確保できれば、引き返せます」
「なら、今は深入りしない。気配を探りつつ、念のため周囲を一周して戻る」
俺は静かに剣の鯉口を切った。
今はまだ、斬る時ではない。けれど、何が起きてもおかしくはない。
俺たちは旧集落跡の外周を、時計回りにゆっくりと進みはじめた。
足取りは慎重に。音を立てぬよう、草を踏む角度まで意識して進む。
エルムは探知を続けていたが、魔力の反応はずっと一定だった。
変化はない。それが、逆に不気味だった。
ゾイルは手元の小型マップをこまめに確認しながら、ルートを記録していく。
“何かあった”ときに備えて、脱出経路を確保しておくためだ。
「このあたり、あまり人の手が入ってませんね……」
「この草の高さと土壌の乾き方、長年放置されてる証拠だ」
俺は足元の土をかき分けるようにして進みながら、視線だけは先に向けていた。
見た目には静かだが、昨日と同じ気配──それが、じわじわと背筋を伝ってくる。
そんな中、エルムがふと立ち止まる。
「……あった」
「何か見つけたのか?」
彼女は黙って頷き、足元の一角を指さす。
そこには、不自然に“崩された”痕跡があった。
草が踏みしだかれ、地面の表土が斜めに削がれている。
だが、それは動物の足取りというより、“何かを運んだ”痕に近い。
「形が残ってないけど、重さのかかった線状の痕跡が残ってる……荷物か、人か」
「……引きずった跡、かもしれないな」
俺は膝をつき、剣の柄尻で土を軽くならした。
そこに残っていたのは、小さな爪のような欠片。
鈍くくすんだ銀灰色──魔物の爪でも、獣のものでもない。
「これ……金属か?」
「違う、これは……生体硬化素材。甲殻系の魔物が、異常な進化を遂げたときに稀に見られるもの」
エルムが表情を引き締める。
「この成分、“あの個体”と同じ。昨日、村の外れで戦った……白目の魔物。間違いない、同じ系統のものだわ」
ゾイルが息を飲む音が聞こえた。
「じゃあ、あいつ……ここから来たんですか?」
「少なくとも、この近辺に滞在していた可能性が高い」
俺は立ち上がり、周囲を睨むように見渡した。
風は止んでいる。空は晴れている。なのに、空気が重い。
──ここには、何かがいる。
もしくは、何かを“置いていった”気配がある。
それが意図的なのか、偶発的なのか──まだ判断はつかない。
「引き返すか」
「……うん。これ以上深入りすると、引き返せなくなる」
俺たちは、足跡を戻るように歩き出した。
振り返った旧集落は、どこまでも静かだった。
だが、その静寂こそが“兆し”だった。
足音がしないからこそ、恐ろしい。