第6話 襲撃と痕跡
兆しは、いつも戦いの中に。
あの異形の魔物を斬ってから、俺とエルムは調査を再開していた。
けれど、それはもう単なる“家畜被害の原因調査”ではなかった。
あの黒く異様な個体──
白目の瞳、骨が浮き出たような背中、呪術的な痕跡。そして、不自然なまでに痕跡を残さない動き。
(……誰かが、“仕込んで”いる)
そう考えざるを得なかった。
「……やっぱり、何かがおかしい」
エルムが探知魔法を展開したまま、眉間にしわを寄せる。
「魔力反応の分布が変。濃くなったかと思えば、次の瞬間には霧みたいに拡散して……探知の反応が絞りきれないの」
「魔物が撒いてるのか?」
「多分ね。少なくとも、意図的に“動いてる”って感じはする……」
エルムが指さす方向とは違う、別の一角。
俺はなぜか気になって、草地の端に視線を落とした。
そこだけ、地面の色がわずかに違って見える。草も、少し枯れていた。
エルムが察して振り返る。
「そっち、反応ないよ?」
エルムが振り返って言う。
けれど俺は、その言葉に首を横に振った。
「……魔力じゃない。“目”のほうが気になった」
彼女が探知魔法で追っていたのは“魔物の気配”だ。
けれど俺の違和感は、もっと別の、感覚に近い何かだった。
地面の一角──草がわずかに枯れている。
周囲よりも土の色がくすんで見える。誰も踏み入れていないのに、沈んだ跡。
しゃがみこみ、剣の柄尻で土を軽く掘る。
──出てきたのは、炭化した草の根と、白く焦げた石片。
「……焦げてる」
風の向きも、陽の加減も関係ない。
ここだけ、何かに焼かれた跡がある。
それは、炎でも、雷でも──ただ、“熱”というにはあまりにも不自然だった。
(……あれも)
数日前、王都近郊を発つ直前。
野営地での野良魔物との小競り合い。その斬撃のあと、確かに似たような焦げが残っていた。
けれどそのときは、「まぐれだ」と切り捨てた。
偶然だ。気のせいだ。そう思い込んで、深く考えなかった。
でも──
(あれも……俺の?)
『ふむ……ようやく、気づくか』
シアンの声が、バングルから静かに響く。
『主殿が初めて“雷脈”を動かしたのは、狼の時だけではない。兆しは、その前からすでに……』
「……なんで教えてくれなかった」
『気づこうとしなければ、教えたところで意味はない。
──“知らぬまま使う”ことが、どれほど危ういかを、身をもって知るがよい』
静かな語調。だが、優しさではなかった。
それは、剣を学び続けてきた自分が“目を背けてきた現実”への、淡々とした突きつけだった。
「コバルト、大丈夫……?」
再びエルムが声をかける。
気づけば、拳を強く握りすぎていた。指先が震えている。
「……ああ。平気だ。こっちは俺の勘違いだったみたいだ」
「そっか……。でも、無理はしないでね?」
その言葉に、俺は小さくうなずいた。
今はまだ、はっきりとは言えない。
けれど──俺の中に“何か”がある。その予感だけは、もう否定できなかった。
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午前の調査を終え、俺たちは一度、村長宅に戻ることになった。
気がつけば太陽は高く昇り、夏草の香りが鼻をくすぐっている。
エルムは地図と採取記録を突き合わせながら、探知範囲の整理をしていた。
その手際は、まるで王都魔法研究所そのままの精度だ。
「……午後は、この辺りを重点的に見たいな。反応が変だった範囲と、さっきの焦げ跡……」
「任せる。移動と護衛は俺の役目だ」
「ん。じゃあお昼食べて、再出発ね」
けれど──午後の調査は、予定通りにはいかなかった。
鐘の音が響いたのは、ちょうど昼食を終えた頃だった。
集会所に設置された半鐘が、強く、速く、警戒のリズムを打ち鳴らしていた。
「……来たか」
エルムも表情を引き締め、すぐさま詠唱に入った。
俺は剣を腰から引き抜き、鞘を背に回す。
扉を開け放ち、風を切るように外へ飛び出した。
門前に駆けつけると、そこにはすでに数名の村人が集まっていた。
その中心で、指示を飛ばしていたのはゾイルだった。
「柵は閉じろ! 羊は納屋に追い込んで、子供と年寄りは集会所へ! 走れ!」
力強い声が響く。村人たちは慣れた動きで配置につき、持ち場へ散っていく。
「ゾイル!」
俺が声をかけると、彼はこちらを振り返り、真剣な目でうなずいた。
「魔物の群れだ。丘の斜面から来る。俺たちで食い止める!」
「わかった。俺は南柵の補強に回る。コバルトさん、後は頼みます!」
「任せてくれ」
男たちが動く。それに合わせて俺も駆け出した。
村の北。放牧地と耕作地の境界にあたる斜面。
すでに見張りの村人が、狼煙を上げていた。
その向こうから、土煙とともに──気配が、来る。
「魔物、群れで来てるわ!」
エルムの声が背後から飛ぶ。
「どれくらい?」
「十数体……でも、また混じってる。“歪んだの”が」
エルムの声がわずかに震えている。
「前に見たやつ……あの、白目で、体の模様が変だった……あれが、またいる」
俺は返事の代わりに、剣を構えた。
呼吸を静かに整える。
この土地に慣れていない俺にとって、油断は即、死だ。
「私、後衛に回るね。地形と相性いいから、足止めに集中する!」
「助かる。前は俺が引きつける」
風が変わった。
土のにおいが濃くなる。
陽光を受けてチラつく影──魔物たちが、丘の斜面を駆け下りてくる。
その姿は、明らかにおかしかった。
全体的には狼のような体格だが、骨格が不自然に伸び、口元は泡を吹いている。
毛皮の一部は脱落し、肌には裂けたような紋様。
白目の浮き出た、意志の感じられない眼。
(……また、“あれ”か)
先頭の個体が咆哮を上げる──と思ったが、音はなかった。
ただ口を開き、音もなく駆ける。
それは本能や怒りではない。
命令を受けたかのような、無感情な突撃だった。
「来るぞ──!」
土の罠が起動する。
前足を取られた個体が一瞬よろける。
その隙を逃さず、俺は前へ踏み込み、斬る。
肉が裂け、骨が軋み、血飛沫が散る。
それでも、止まらない。次の個体が、すぐに駆けてくる。
(間に合わない──っ)
剣を振るう。
受け流し、切り返し、踏み込み、体捌き。
技術だけでどうにかなる相手じゃない。
一撃で倒れてくれない。連携してくる。
それでも下がらない。
村に入られたら、誰かが死ぬ。
ここで止める。俺が──
そのとき。
ふいに、視界の端が揺れた。
足元の地面が、ピリ……と、青白く光った。
音もなく、空気が弾けるような感覚。
皮膚の下を、細く光る“なにか”が這うような違和感が走る。
(またか──)
あのときと、同じ感覚。
狼を斬ったとき。
その直前に感じた、あの“内側から滲む雷の気配”。
再び──来る。
また、暴れる。
俺の中の、“あれ”が。
「っ……!」
剣を振る腕に、走るしびれ。
だが、今は──
(抑えろ……抑えろ、落ち着け)
後ろでは、エルムが魔力の制御に集中している。
彼女の魔法は精密だ。タイミングがすべて。
俺まで妙な力を迸らせたら──足を引っ張るだけだ。
それでも、身体の奥で何かがざわついていた。
皮膚の下、骨の内側を、光の脈が逆流するような感覚。
まるで、俺の意思とは関係なく──“何か”が走り始めている。
(……暴発──あれだけは避けなければ)
さっき、シアンが言っていた。
“雷脈”──感情に呼応して、力が自ら溢れ出すことがあると。
それを、暴発と呼ぶのだと。
(これが……そうなのか?)
握った剣の柄が、じわりと熱を帯びていく。
けれどそれは、握っている“手”が熱くなったのではなく、剣の奥に何かが注ぎ込まれていくような──異質な熱だった。
刃に流れる感覚が、いつもと違う。
剣を振っているのは自分のはずなのに、どこか、“別の何か”が一緒に動いている気がした。
力が、自分の中から勝手に流れ込んできている。まるで、脈拍と同じリズムで、“もう一つの血流”が流れ始めたように。
(今じゃない。ここじゃない……!)
奥歯を強く噛んだ。
視界の端で、歪んだ魔物が再び跳びかかってくるのが見えた。
次の瞬間──斬る。
青白い光が滲んでいたが、それでも、
剣を選んだのは、俺だ。
雷の力に任せることはできた。
でも、まだ……それは“俺の剣”じゃない。
自分で振るう刃こそ、俺の戦い方。
意志をもって選び、敵を斬る。
それが、俺の選択だ。
斬る。もう一体、また一体。
動きは遅い。けれど、歪んだ個体は──明らかに、頑丈だった。
刃が、すべる。
骨を断ったはずなのに、踏み止まってくる。
(おかしい。これは……“生きてる手応え”じゃない)
傷ついているのに、怯まない。
痛みを感じていない。
まるで、壊れるまで動く“何か”を相手にしているようだった。
「テラ・ヴェントゥス!」
エルムの声が風を切った瞬間、地面の一角から板状の土塊が三枚、浮かび上がった。
それらはふわりと風に乗り、まるで意志を持つかのように滑空する。
風のうねりが軌道を描き、盾のようなそれらは魔物の進行ルートを断つように次々と展開された。
魔物たちは勢いのまま突っ込むが、盾にぶつかった瞬間、ズリッ──! と姿勢を崩す。
突進の流れが狂い、隊列が乱れた。
「今だ!」
俺は隙を突き、乱れた魔物の群れに飛び込む。
一体、また一体──剣を振るい、振り返し、斬り裂いていく。
だが、そこでまた──きた。
空気が、ねじれるように揺れる。
剣を振った右腕から、微かに青白い閃光が漏れた。
その刹那、斬撃が閃光に包まれ、魔物の身体を雷鳴のように弾き飛ばす。
「く……!」
呼吸が詰まり、視界がチラついた。
指先がしびれ、剣の重みが一瞬遠のいたように感じる。
(また出た……!)
コントロールしていない。
意図していない。
なのに、力が──勝手に反応する。
怒りか。焦りか。恐怖か。
その全てに応じて、血の奥底から滲み出すように。
「抑えろ……今じゃない」
そう呟きながらも、力は抑えきれないほど近くにあった。
「コバルト、あと三体!」
エルムの声が届く。
彼女の盾が再び滑るように動き、魔物の突進を逸らした。
その一瞬を逃さず、俺は残る三体に向けて、踏み込んだ。
一体目の首筋に斬撃を滑らせ、
回転して、二体目の脚を断ち──
最後の一体を、正面から迎え討つ。
剣を振る。
雷が走る──が、今度は、意識がついていっていた。
刃が光を引き、敵を切り裂きながら、
俺はほんの僅かに、その力を“感じて”いた。
(……俺の中にある。間違いなく、“これ”が)
魔物がすべて倒れ、あたりに静寂が戻る。
ただ、空気はまだ、微かに焦げたにおいを残していた。
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風が止んだ。
まるで先ほどまでの激戦が幻だったかのように、
空気は静かで、乾いていた。
斬り伏せた魔物たちは皆、すでに動かない。
異様な白目、裂けた皮膚、異常に硬い骨。
どれを取っても、あれは、生き物の形をした“何か”だった。
その場に立ち尽くし、俺は小さく息をつく。
指先がまだ震えていた。
さっきの“斬撃”の感触──明らかに、自分のものじゃなかった。
俺の腕が、あんな光を纏うなんて。
それも、意図せずに。
(抑えたつもりだった……けど、無理だったか)
息を吐いて、剣をゆっくりと納める。
剣に付着した魔物の血が、わずかに蒸発していた。
――帯びていた熱。雷の名残。
そのとき、背後から足音がした。
「……見たよ」
振り返ると、エルムがこちらを見つめていた。
彼女の顔には、驚きと戸惑い、そして僅かな──痛みのような感情が滲んでいた。
「最後の……あれ。雷、でしょ? 斬ったとき、一瞬だけど」
「……」
「ねえコバルト、それ……魔法じゃ、ないよね?」
問いはやわらかかったが、核心を突いていた。
俺はしばらく答えられず、曖昧に口を閉じた。
「何か、起きてるの?」
エルムの声は静かだった。
でも、だからこそ──逃げられなかった。
「……多分、俺の中に……何かがある。けど、まだちゃんと分かってない」
素直に、そう言うのが精一杯だった。
「ううん、分かった。じゃあ、今はそれでいい」
エルムは微笑んだ。
「でもね、コバルト。何かあったら言ってよ。手遅れになる前に。」
「……ああ」
それ以上は何も聞かれなかった。
でも、彼女の目は、俺の中にある“何か”をもう見つけていた気がした。
遠くで、半鐘の音がもう一度鳴った。
今度は、穏やかで、短い──危機の終わりを告げる鐘。
俺たちは剣と魔法を納め、静かにその音を聞いた。
気づいてくれる誰かがいるって、強い。