第5話 青白い残像
違和感の正体は、まだ誰も知らない。
放牧地の外周部は予想以上に広く、しかも緩やかな丘や林が入り組んでいて、地形の把握だけでも一苦労だった。
「……さすが、王都の胃袋って呼ばれてるだけはあるな」
腰の革袋から水を一口飲み、ぐるりと見渡す。新芽を踏みしめる音がやけに大きく聞こえるほど、風は穏やかで静かだった。
後ろを振り返ると、エルムが両手を前に突き出し、集中した顔で探知魔法を維持している。
「魔力、まだ大丈夫か?」
「うん、今のところは平気。でも少しずつ反応が濃くなってきてる。何かいる……もしくは、いた形跡がある」
俺たちは村長から受け取った地図を頼りに、複数の家畜被害が集中していたエリアを中心に調査を行っていた。被害の傾向からして、どうやら一定のルートを通っている可能性が高かった。
だが、現時点では明確な痕跡が少ない。足跡も糞も見当たらず、明らかに“意図的に痕跡を消している”気配すらある。
(群れで動いているにしては……やけに周到だ)
俺は剣の柄に手をかけたまま、わずかに歩調を緩めた。
こういうときは、嫌なことが起きる。
──風が止まった。
足元の草がわずかに揺れる。……いや、揺れていない。風ではない。
何かが、こちらの動きを見計らっていたように──飛びかかってきた。
飛び出してきたのは、狼のような四足獣だった。だが、毛並みは異様なまでに黒く艶やかで、まるで闇そのものを身に纏っているようだった。
なにより異様だったのは、その瞳──完全な白目。感情も思考も宿していない、“命令されたまま動くだけの器”のような不気味さがあった。
さらに、その背中。毛皮の下から、一部だけ骨が浮き出るように変質しており、どこか呪術的な痕跡すら感じられた。
(これは……ただの魔物じゃない。どこかで、意図的に“作られた”ものだ)
一瞬でそう悟った。
しかも、速い。通常の狼種の倍以上の跳躍速度。剣を抜くより速いタイミングで、こちらの首を狙っていた。
「っ、来るぞ!」
「了解!」
俺は反射的に剣を抜き、身体を捻る。
──だが、斬る前に、何かが走った。
青白い何か。雷にも似た、光の尾を引く衝撃。
気づけば、剣はすでに振り抜かれていた。
魔物の身体は、俺の背後へ飛びすぎていた。
だが着地する前に、身体が二つに裂け、ずるりと音を立てて崩れた。
喉元から肩へ、斜めに深く斬られている。致命傷だった。
──速さに追いつけなかった。いや、視えなかったのだ。
攻撃を受けたことに、奴自身が気づいていないような斬撃だった。
その死骸の皮膚が、光に当たってわずかに“青白く燐光を発する”のが見えた。
(……雷属性の反応? いや、それとも……?)
風が戻る。鳥が鳴く。
エルムが駆け寄ってきて、信じられないものを見るような顔をしていた。
「……コバルト、今の……なに?」
「……わからない。気づいたら、もう斬ってた」
「斬ってたって……速すぎたよ。剣、いつ抜いたの?」
「……抜いてた。つもりだったけど、何か……違う。体が勝手に動いた感じがする」
剣士として鍛錬を積み、反射的な動きは身についている。だが、これはそれとも違う。
“剣を振った”のではない。もっと、“斬っていた”という方が正しい。
『──それが、“兆し”というものだ』
シアンの声がバングルから響いた。
『間違いない。これは、かつての英雄が纏っていた力──“英雄闘気”の、微細な発現だ』
「……それが、これ?」
『ああ。極めて不安定だが、主殿の体質がそれを呼び寄せた。』
「俺に……何が起きてる?」
『雷を纏う者よ──その問いに答えるには、まだ早い』
不安と興奮が、胸の奥で混ざり合っていた。
剣で斬ったのではない。雷のような速さで、光のように斬った──
それが、あの“残像”の正体なのかもしれない。
切り裂かれた魔物の死骸は、静かに沈黙していた。
だが、その皮膚表面に微かに残る“燐光”は、自然なものとは思えなかった。
俺は膝をつき、慎重に傷口を確認する。切り口は驚くほど滑らかで、皮膚・筋肉・骨が一瞬で断たれたようだった。
「これは……俺の剣の、威力じゃない」
技術でも、力でもない。あれは明らかに“何か別のもの”が加わっていた。
「エルム、あの青白い光、見えてたか?」
「うん。雷……みたいだった。でも、違う。雷魔法の痕跡とは波長が合わない」
彼女は慎重に魔力探知を行いながら、さらに続けた。
「……魔法反応が“発動点”じゃなくて、“通過点”に残ってるの。不自然すぎる」
「どういうことだ?」
「普通、魔法って“出た場所”に魔力の痕が残るの。なのに、これは斬撃の軌道上に帯状で痕跡がある。
まるで……魔力が“身体から放たれた”ってより、“身体そのものが魔力反応を起こした”みたい」
「……魔力を纏ってた、みたいに?」
「うん……それに近い。でも、魔法としての制御痕がない。感情の爆発みたいな揺れ方」
彼女の言葉に、背筋がすっと冷えた。
(あれは……俺の“身体”から出ていた……?)
『やはり、反応が出始めているようだな。』
シアンが静かに言う。
『主殿の肉体は、通常の魔力体質とも、闘気の素養とも異なる』
『それは──“蒼雷体”。古の雷を内に宿す、稀なる器だ』
「蒼雷……体?」
『かつてブルー家に現れた、雷を纏う剣士。その者もまた、己の身体から“雷そのもの”を発し、世界に衝撃を与えた。』
『主殿は、その血を色濃く引く“蒼雷返り”なのだろう』
初めて聞く言葉だった。
蒼雷体──魔力でも闘気でもなく、“雷の力”を内に抱えた身体。
魔法を拒み、闘気を弾くという異常性。その正体が、今ようやく繋がった。
「……それって、制御できるのか?」
『容易ではない。“雷脈”──血の奥底に脈打つその力は、感情に呼応しやすく、暴発することもある』
『だが、扱いこなせば──剣すら要らぬほどの瞬撃を可能とするだろう。』
「……今の俺には、まだ想像もつかないな」
『ならば鍛錬あるのみだ。剣士の道は、常に地を這うところから始まる』
ふ、とエルムが微笑む。
「大丈夫。私、素材採集に来たつもりだったけど、しばらく“修行パートナー”に付き合ってもいいかも」
「……助かる」
そう言いながら、俺は死骸の傍にしゃがみ、もう一度観察した。
白目の瞳。変質した骨。呪術のような刻印。
(あれは“作られた魔物”だ)
野生ではない。どこかに、意図を持って放った者がいる。
そして、奴らは“俺のような存在”を嗅ぎつけてきたのかもしれない──
青白い残像は、消えない。
これが、力の始まりなのだと──俺は、ようやく理解し始めていた。
次のプリンを考えながら、ちゃんと成果も出すのがエルムです。