第29話 名前を捨てなかった剣
制度に記されなければ、存在しない。
名を持たなければ、誰でもない。
――それでも、雷は走る。
これは、“記されなかった剣”が刻んだ、ただひとつの名の物語。
王都の空が、灰色に霞んでいた。
その朝、王都外縁の六つの監視塔が、一斉に沈黙した。
通信遮断、魔導波の乱れ、緊急照合の失敗――すべてが、静かに起きた。
だが、それは嵐の前触れだった。
「敵、本格的に動き出しましたね……」
報告を終えたエルムの声は、緊張を押し殺していた。
ターコイズは仮設本部の中心で地図を広げたまま、静かに頷く。
「外縁区から王都を取り囲む“包囲網”が、今まさに収束しようとしている。制圧の順ではない。“照合術式”に干渉し、制度の支柱そのものを崩す作戦だ」
地図上に描かれた光点が、次々に消えていく。
王都の防衛網が、音もなく切り裂かれていく様子が、そこには映っていた。
「……王国軍、動かないのか?」
コバルトの問いに、ターコイズは淡く笑った。
「動けない。敵は“記録そのもの”を乱している。軍令が認証されず、通達が通らない。“動いていない”のではなく、“動けていない”」
「だったら、やるしかねぇじゃねえか」
トーガが拳を鳴らす。
「俺らが動いて、敵の首を叩く。記録がどうとか関係ねぇだろ」
「いいえ。むしろ、それが必要よ」
エルムが、静かに言った。
「制度に守られない今だからこそ、“制度に記されない存在”が必要になる。誰にも命じられていない。誰の記録にも残らない。けど、動ける」
コバルトは雷脈の感覚を確かめるように、指先を握り込んだ。
雷は静かだ。だが、いつでも応じるように、体の奥で鳴っている。
「雷は――誰かに言われて走るもんじゃない。俺が走ろうと決めたときに、剣に宿ってくれればいい」
その言葉に、ターコイズが短く頷いた。
「照合中枢塔。敵はそこを“最終標的”に定めている。術式核を制圧されれば、王国は制度としての“座標”を失う」
そして一言、命令を下す。
「宰相直属・特務補佐官権限により、君たち非公式部隊に“最終命令”を通達する。――照合塔を奪還せよ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
制度に属さず、記録に残らず――それでも、雷は走る。
その雷が切り拓くのは、“名”を証すための最後の戦場だった。
* * *
王都の中心部――地図に載ることのない区画のさらに奥に、照合中枢塔はあった。
因子の分類、記録の保存、制度における存在認証。
この塔は、王国のすべての“正当性”を内側から支える最後の柱だった。
だが今、その塔は、静かに“内側”から蝕まれていた。
「正面の門が開いている……誰もいないのに、開いたまま……」
エルムの声に、コバルトが応じる。
「誘い込む気だ。だが、行くしかない」
三人は建物内に踏み込んだ。
塔内の階層は異様だった。
本来なら照明結晶が光を灯すはずの通路が、闇に沈んでいる。
「照合術式が止まってる……いや、“妨害されてる”か」
塔の中央に広がる記録階層。
そこには制御陣が乱れ、照合盤が魔導的に封じられていた。
そして――敵が待ち構えていた。
「来たな、名を持つ者たちよ」
敵の主力部隊。記録妨害術式を専門とする術者と、無記録化処理された魔物たち。
その姿は、人間としての形を保ちつつも、名前も分類も持たない“曖昧な存在”。
「この塔は、いずれお前たちのような“記録者”の手を離れ、我ら“名なき者”の自由の証となる」
「そうはさせるかよッ!」
トーガが前に出て、拳を振るう。
地脈を読み、重力を抑えた一撃で正面を突破。
「後方支援に回るわ! 術式妨害の位相を調べる!」
エルムが塔の中枢部へと急ぎ、妨害術式の解読にあたる。
「コバルト、最奥へ行って。核が止まれば、全部終わり!」
「了解!」
雷が走る。
暗闇の中で、ただひと筋の稲光が塔を貫く。
剣が、雷を引き連れ、誰より速く、最深部へ向かう。
その先には、王国の“存在そのもの”がかかっていた。
照合塔の最奥へと続く通路は、既に“現実”ではなかった。
床はあるのに踏みしめる感覚がなく、光はあるのに何も照らさない。
存在そのものが揺らいでいる――そんな空間。
「ここまで歪ませたか……!」
雷脈が警戒のように体内で鳴った。
術式が発しているのは、“遮断”でも“攻撃”でもない。
――分類不能なものを“認識させない”術式だった。
「だったら……」
コバルトは剣を抜く。
雷が、刃に沿って静かに走った。
「認識されないなら、それでいい。俺が、俺自身で在り続けるだけだ!」
一歩。
雷が通路を裂いた。
封印層が反応するが、コバルトを“認識できず”、ただ空気を震わせるだけに終わる。
二歩、三歩。
存在を拒まれながら、コバルトは進んだ。
やがて、最奥の制御核が見えた――
そこに、ひとりの男がいた。
「ここまで来るか。名を持つ者……いや、“名を捨てなかった者”か」
敵幹部の一人。
顔に仮面をつけ、その表情すら曖昧な男だった。
「この術式を解けば、お前たちはまた“制度の檻”に戻ることになる。自由を名乗るには、名を捨てねばならん。それが“等しさ”だ」
「その自由に、誰がついてくる? “名のある者”が、名を守るために戦ってるんだ!」
雷が、跳ねた。
剣を構えたその瞬間、男が放つ術式が広がった。
“記録遮断術式・極”。
存在の情報を消し去る――それが敵の最終手段だった。
「お前は剣を振るうことすら忘れる。自分の動きすら認識できず、意識が霧散する――!」
しかし、雷は止まらなかった。
いや、止められなかった。
雷脈は分類されない。
認識の枠外にある力。
だからこそ、術式は“干渉すらできない”。
「……雷は、誰の言葉にも縛られない」
コバルトはそう言い、剣を振るった。
白雷が、闇の空間を真っ直ぐに貫いた。
術式が裂け、空間が砕け、制御核の封印が崩れる。
「っ……!」
男が膝をつき、歯を食いしばる。
「お前のような存在こそ……一番、恐ろしい……!」
コバルトは一言だけ、静かに呟いた。
「――覚えておけ。雷には名がある」
最奥部の制御核は、光と闇の境界のような空間に浮かんでいた。
破られた術式の残響が波紋のように広がり、空間が静かに崩れていく。
膝をついた男が、口を開いた。
「私は……記録を奪われた。王国の制度に不都合な者として、名を抹消された。……気づいたら、誰も私を知らなかった。私も、私が誰だったか忘れていた」
仮面が、床に転がる。
そこにあったのは、ただの“人”の顔だった。怒りも、誇りも、残っていない。
「だから、記録を壊そうとした。制度に名を与えられなければ存在できないなら、そんな仕組みはいらないと思った」
男の声は、どこまでも静かだった。
「だが……それでも君は、“名を捨てなかった”」
コバルトは答えた。
「名を持つことは、縛られることじゃない。俺は俺自身で決めた。“コバルト・ブルー”という名で、雷と共に在るって」
背後の剣が、小さく鳴った。
雷脈が共鳴し、空間を優しく照らす。
「名前があるから、失うこともある。奪われることもある。けど、それでも俺は……この名前を誇りに思ってる」
男は、崩れていく術式の中心で微笑んだ。
「その在り方を、かつての私が見られていたら……違う道もあったかもしれないな」
制御核の奥にあった照合術式が、再起動を始める。
光が空間を満たし、王都全域の記録系統が“安定”のサインを取り戻す。
「……そろそろ終わりにしよう」
コバルトが剣を納めると、雷の光がゆっくりと消えていった。
「制度に記されなくても、名がある。誰かに与えられなくても、自分で名乗れば、それで十分だ」
男は、目を閉じてうなずいた。
そして、術式の崩壊と共に、その姿も――静かに霧へと溶けていった。
***
戦いが終わった。
王都の照合塔は、静けさを取り戻していた。
術式核は再起動され、制度の照合系統も正常に戻っている。
王国の“存在証明”は守られた。
だが――その功績を記録する者は、どこにもいない。
コバルトたち非公式部隊の名は、照合記録には一行たりとも載っていなかった。
魔導報告にも、戦果一覧にも。
まるで最初から、“いなかった”かのように。
それでも、仲間たちは知っていた。
「制度は戻った。でも、記録されない雷がこの国を救ったってこと……私は忘れないわ」
エルムが呟き、コバルトに微笑む。
「おうよ。派手な花火も名前も残らねぇが、お前さんが“雷と共に戦った”ってことは、この目で見たからな」
トーガもまた、満足げに頷いた。
遠くで、ターコイズが淡く笑みを浮かべる。
「制度は、時として見落とす。だが、だからこそ……記録されない力にこそ意味があることもある」
夕暮れの王都。
空はどこまでも澄み渡り、戦いの痕跡すら風に洗われていく。
コバルトは、塔の高みから王都を見下ろしていた。
剣を、鞘に収める。
雷は、今は静かだ。けれど、いつでも応じるように、脈打っている。
「……記録には、残らなくていい」
誰に言うでもなく、呟くように言った。
「けど、俺は――俺自身の名で、戦ったんだ」
そう言って、コバルトは空を見上げる。
風が吹き抜ける。
その風に、ほんの一瞬――白い稲妻が、音もなく走ったように見えた。
「――雷よ、我が名と共に在れ」
それが、静かな雷鳴の終わりであり。
また、新たな“記されぬ物語”のはじまりだった。
──完──
雷は記録されず、名は分類されなかった。
けれど、それでも戦った。
制度の枠外から王国を守った、その力に、誰かが意味を見出すなら――
それは、もう“無名”ではない。




