第28話 記録されぬ地、名を持たぬ者たち
名前がなければ、縛られない。
記録されなければ、消されない。
だが、だからこそ――世界からも“見えなくなる”。
制度の目が届かぬ外縁で、雷は再びその意味を問われる。
王都の輪郭――そのもっとも外側にある、制度の視線が届きにくい区域。
人々はそこを“外縁区”と呼ぶ。
中心街からは魔導線も道路も外れ、地図すら不完全な区域。
貧困と古い因習、忘れられた施設。
そして最近は、消えた者の噂が広がっていた。
「この一帯で、ここ三週間で六人の失踪。いずれも共通点はなし。だが、誰も帰ってきていない」
ターコイズが、仮設の地図を前に報告する。
「制度側の記録では、いずれも“自主離脱”扱い。だが、実際は“記録が拒絶されている”可能性がある」
「……例の術式?」
コバルトが問うと、ターコイズは頷いた。
「記録を曖昧にし、名前も行動も“見えなくする”。制度の照合から除外された者を、“存在しないもの”として扱わせる」
「制度の影に紛れるってわけか」
トーガが腕を組む。
「だとすりゃ、敵が潜伏するには最適の土地だな。人目も、照合も、届かない」
「ええ。でも、そういう場所ほど……人の“気配”は鋭い」
エルムが周囲の様子を探るように目を細めた。
古い街路。壁に残された落書き。軒下に積もった魔導灰。
「明確な証拠は出てこない。でも、住民の反応が変。目をそらす。声が小さくなる。“そこには触れるな”って空気がある」
「つまり、誰かが何かを知っている。けれど、“言えない”ってことだな」
コバルトは鞘に手をかけた。
雷脈が、まだ反応はしていない。
けれど、空気が――重い。
「準備は整っている。君たちは非公式部隊として、この外縁区に潜む“実働部隊”を発見、制圧すること」
ターコイズが淡々と告げる。
「制度には届かない。だが、制度を崩されれば、中心も崩れる。だから……今、君たちが必要だ」
誰も、異を唱えなかった。
制度の記録には残らない。けれど、この行動が――王国を守る。
雷はまだ静かだ。だが、次に走るとき、きっとそれは“誰かのため”になる。
* * *
外縁区北端、かつて魔導器の簡易整備を担っていた旧工房跡。
そこに、術式感知魔導具の反応が集中していた。
「ここだな。妙な術式波……熱と干渉、両方ある」
エルムが魔導板を覗き込みながら呟く。
その反応は、生きた魔法陣でも、設置型の結界でもない。
「燃えてるな、何かが」
トーガが扉に手をかけ、重く錆びた扉を押し開ける。
中は暗く、埃の匂いと、わずかな鉄錆の臭い。
だがそれ以上に――焼けた魔導紙の焦げ臭さが、鼻をついた。
「これは……記録封の符紙か?」
床に落ちていたそれは、本来、魔導記録を封じて保管する“制度用の道具”だった。
それが破かれ、焼かれ、散乱している。
「制度に管理されていた記録を、意図的に壊している……?」
「いや、違う。“記録そのものを否定する”ために壊してる」
エルムの声が硬い。
魔術師として、これは許せない行為だった。
そのとき――奥から、気配。
「来たな」
トーガが拳を握り込むと同時に、壁の影から異形の魔物が飛び出した。
頭部は狼、体は鎧を纏ったように硬化し、片腕が異様に膨らんでいる。
魔物は雄叫びと共に突進してくる。
「分散! 俺は左!」
コバルトが跳躍。トーガとエルムが左右に散る。
工房内部の支柱を盾にしながら、三人は交戦を開始する。
魔物の動きは速い。だが、制御が甘い。
術式で増強されてはいるが、何かが“抜け落ちている”。
「……こいつ、自分の“名前”を持ってない」
雷脈がわずかに震える。
分類されない存在――だが、制御されてもいない。
「暴走型か。……だったら!」
トーガが踏み込み、闘気の奔流を拳に集める。
「沈めッ!」
一撃で魔物の顎を叩き落とし、エルムが土魔法で拘束をかける。
「コバルト、奥の通路が開いた! 後続がいるかも!」
「ああ、わかった!」
雷が、足へと流れ込む。
刹那、コバルトの姿が空間を裂くように走った。
敵の本拠は――この奥にある。
工房の奥は、複数の通路が入り組んだ迷路のような構造だった。
蒸気管と魔導線が露出した壁。壊れかけた足場。
だがその中に、明らかな“人の手が加えられた形跡”が残っていた。
改造された扉、再封印された制御盤、そして――待ち構える気配。
「包囲網か……!」
通路の四方から、複数の気配が同時に動く。
敵は、ここに誘い込んでから仕留めるつもりだった。
「だが――その程度の“包囲”、俺には届かない」
雷脈が閃く。
コバルトの足元に、白い稲妻の筋が奔る。
瞬間、彼の体が霞のように揺れたかと思えば――消えた。
次の瞬間、包囲の一角が吹き飛ぶ。
敵兵の一人が反応すらできずに倒れ、続く二人も空気を切り裂く斬撃で一掃される。
「動きが速すぎる……!」
「追えない……何だ、あの速さは――!」
敵の声が恐怖に濁る。
雷脈の加速。それは一瞬の踏み込みで、“存在の認識”そのものを抜ける動きを可能にする。
「……あそこか。中央に敵の術者反応……!」
霧がかった通路の向こう、敵の主力が術式障壁を張っているのが見えた。
後方からの声が届く。
「コバルト、あの術式……強いわ! 気をつけて!」
エルムの魔導感知も反応していた。
「ここで止まってたら、後ろが危ない……突破する!」
雷が再び身体を走る。
今度は意識的に、力を“通す”のではなく“すり抜ける”。
術式干渉を拒む、雷の“制御されない特性”。
魔法障壁が、触れた瞬間に音もなく崩れる。
分類も予測もできない雷の動きは、術式に対して無防備な領域を突き破る。
「通った……!」
敵術者が目を見開いた刹那、コバルトの剣が肩口をなぞるように抜けた。
力ではなく、技術と速度。そして、制御。
術者の背後から、別の敵兵が叫ぶ。
「――撤退信号をっ……!」
だが間に合わない。後方からトーガとエルムが突入し、左右から残存兵を挟み込んだ。
「ナイスタイミングだぜ、兄弟!」
「すまん。ちょっと雷が走りすぎた」
背を預けるように、三人の陣形が整う。
敵の制圧は完了。
だがその中で、ただ一人――“生かされたまま拘束された敵幹部”がいた。
「……お前が、ここの責任者か」
コバルトの問いに、男は静かに頷いた。
「そして、“次の戦場”を知る者でもある」
捕らえた男は、静かに頭を垂れていた。
だが、その目だけは鋭く光っていた。
「お前たちは、“制度に守られた力”で戦っていると思っているのか」
口を開いた男の声は、どこか乾いていた。
怒りでも、嘲りでもない。
ただ、深い確信のようなものがその奥にあった。
「記録に名を刻まれた者は、制度に縛られ、やがて管理される。存在証明は、やがて命令への服従に変わる」
「……それが、あなた達の考えなの?」
エルムが警戒を緩めずに問い返す。
「我らは“名前を持たぬ者”だ。分類されず、記録もされず。制度に触れられぬまま、ただ在る者」
男の手が、懐から何かを取り出す。
――古びた魔導符。だが、そこに記された紋章は消され、名も読み取れない。
「これは、“かつて名を持っていた者”の象徴だ。王国は、不要になれば記録を消す。存在を、なかったことにする」
「……だからって、力ずくで壊せばいいのかよ」
トーガが吐き捨てるように言う。
「それがどんなに歪んでいようと、今の制度が“支え”になってる奴もいる。全部壊しゃいいってもんじゃねぇ」
男はそれに返さず、淡く笑った。
「名がなければ、縛られもしない。記録されなければ、消されることもない。君もそうだろう? “雷の男”。君の力もまた、制度の外にある」
その視線が、コバルトへと向けられる。
「……俺の雷は、分類されてない。けど、名がないわけじゃない。俺自身の、名で呼んでる」
コバルトの言葉に、男の目が細まる。
「俺はコバルト・ブルー。この剣も、雷も、全部含めて“俺”なんだ。制度に記されなくても、それで充分だろ」
雷脈が静かに反応する。
共鳴するように、剣にうっすらと白光が走る。
「……貴様のような者が現れることは誤算だった」
男はそう言い残し、口を閉ざした。
沈黙の中、ターコイズからの魔導通信が届く。
『そこまでで十分。敵幹部の確保は予定より早い。……ただし、確認すべきことがある』
通信の向こうで、ターコイズが静かに言った。
『“本隊はまだ動いていない”。この戦いは……“前哨戦”に過ぎなかった』
***
仮設拠点に戻ったのは日が落ちる頃だった。
外縁区の一角で捕らえた敵幹部は、すでにターコイズの特命観察室に引き渡されていた。
「連中の言葉を裏付ける記録は?」
コバルトの問いに、ターコイズは一枚の写しを差し出す。
それは照合室の防衛戦から間もなく発見された、新たな“改竄痕”を記した報告だった。
「照合層の深部、王都第三局の認証区画に、干渉の痕跡。……だが、どの部署にもアクセス記録は残っていない」
「記録に残らない侵入……ってことは、内側の誰かが“見えない手”を通した可能性が高いってことだな」
トーガが低く呟く。
「おそらく、王都周辺の五地点に敵の観測者が潜伏している。……その一部は制度側の人間と接触済みだ」
ターコイズの言葉に、一瞬だけ重い沈黙が降りる。
「……じゃあ、王国は……」
エルムが言いかけたそのとき、ターコイズは淡く笑った。
「崩れてはいない。だが、すでに包囲されている。それが現実だ」
仮設拠点の壁に広げられた地図に、淡い魔光が灯る。
それは“包囲網”をなぞるように、王都の外縁をなぞっていた。
「制度に守られぬ者が、制度を守るしかない。……皮肉だが、君たちにはその役目を担ってもらう」
ターコイズは地図から顔を上げ、まっすぐコバルトを見た。
「雷がその剣に宿る限り、次も前を斬ってもらう。異論は?」
「……ないよ、兄上」
コバルトは短く答えた。
制度が揺らいでいる。敵は名を捨て、記録を壊し、形すら曖昧にして侵攻してくる。
だが――それでも。
「俺の名は、コバルト・ブルー。制度に記されなくても、この剣と雷が証明してくれる」
雷脈が静かに響く。
その音は、遠くで始まりつつある戦いを告げていた。
記録されることが存在の証明となる王国で、
記録から外れた者たちが剣を振るう。
コバルトの雷は、誰の記録にも頼らず、それでも“今ここにある”。
その刃が向かう先は、制度の包囲網の中――王都の“真の境界”だ。




