第24話 記されざる雷、名を刻む場所へ
塔が崩れゆく中、彼らはまだ“記されぬ真実”を追っていた。
雷が応える。失われた名が、記録されるために――。
塔が、悲鳴をあげていた。
床に走った魔術痕が明滅を繰り返し、壁面の石材が音もなく崩れ落ち、生き残っていた敵ごと飲み込む。雷因子の共鳴と、塔内部の封印術式が相反して暴走を始めたのだ。
「魔術構造が限界を超えてる! 外部からの干渉で支えられていた回路が……もう、保てない!」
エルムの声に、俺は振り返りながら頷いた。塔の心臓部――おそらく、因子制御装置の核が破損した。もう長くはもたない。
「急ぐぞ。これ以上は、塔ごと飲まれる」
ターコイズが冷静に言い放ち、すでに崩れ始めた階段を軽やかに飛び越えていき、口元にはいつものように余裕の笑みが貼りついている。
「よく平然としていられるね……」
「焦る暇があれば考える。頭は帽子を乗せる台じゃないだろ?」
皮肉に返す余裕もなかった。俺は剣を納め、足元の瓦礫を蹴るようにして続いた。
塔内の通路はかつて整然としていたはずなのに、今は歪んでいた。石造りの壁が波打ち、魔力の余燼が空間をねじる。
エルムが先を走る。だが、ふと立ち止まり、天井を仰いだ。
「……あの魔力の渦、上じゃない……下に引き込まれてる?」
俺も足を止める。塔の奥、崩れかけた階段の先に、微かに魔力の震えが感じられた。
「なんだ……あれは」
塔の“地中”――本来なら閉ざされていたはずの空間から、ひとつの気配が昇ってきていた。まるで、今この瞬間にしか“開かれない”入口のように。
「コバルト、時間はないけど……行くなら、今しかない!」
エルムの目は真剣だった。
俺は一瞬だけ迷ったが、頷いた。
「兄上、下に何かある」
「……雷脈が反応しているのか?よし、付き合おう」
俺たちは崩れる塔の脇道にある、小さな隙間から身を滑り込ませた。
そこには、塔の表層とはまったく違う空気が広がっていた。
土と、金属と、魔力の焼けた匂い。
そして――沈黙の中に眠る、“記録”の気配があった。
地下空間は、塔の崩壊によって露出したものらしかった。
封印結界のようなものはすでに機能を失っていたが、空気には確かに“保存”されていた魔力の層が漂っている。慎重に足を踏み入れると、足元にきらめく粒子が舞った。記録の残骸。封じられていた時間が、少しずつ溶け出している。
「……これは……石板?」
エルムがしゃがみ込んで、黒ずんだ石の欠片を拾い上げた。幾何学模様の刻まれた断片。それは、塔の上層にあった“雷紋”と酷似している。
だが、その石の隅には――ひとつの名が、確かに刻まれていた。
『アジュール』
「アジュール……!」
声が漏れた。先祖返り。雷因子を宿していたという、かつての人物。名も記録も消された者の名が、ここにあった。
「見て、この文。おそらくこれは……記録ではなく、“手記”に近い」
エルムがそっと指で文字をなぞる。歪んだ筆跡、走り書きのような刻印――それは、記録者ではなく、誰か“当事者”の感情が刻まれた言葉だった。
> 『記されなかった雷は、いつか形を変えて戻る。
> その時、記録ではなく意思によって選ばれた者が現れるのだとしたら――
> 私の存在は、それへの布石に過ぎない。』
読めたのはそこまでだった。後は崩れた破片と、焼けた面が残るのみ。
だが、俺の胸の奥――雷脈が、また強く脈動した。
「コバルト……っ!」
エルムの声が届いたとき、俺の手に持った石板の破片が淡く光った。次の瞬間、雷が腕を駆け上がる。
「……ッ、くそ……!」
右腕に、雷紋が新たに浮かび上がった。先ほどとは異なる形状。まるで枝分かれするように、腕から肩口へと広がっていく。
「大丈夫か!?」
ターコイズが心配の声をかける。俺は苦しみを堪えながら、足を踏ん張る。
けれど、不思議だった。
痛みはあった。けれど、暴走ではなかった。
雷は――俺を壊そうとはしていなかった。
それはまるで、なにか“応答”するように、静かに宿り直している。
腕輪シアンの声を響く。
『ふむ、これは共鳴か。雷脈が記録に反応して、安定しておるかのようだ』
雷紋は、まるで生き物のように動いていた。
右腕から肩口、そして胸部へ――枝分かれするように走った線は、ただの痕跡ではなかった。内部を走る雷因子そのものが、新たな回路を構築し始めていた。
「皮膚じゃない……これは、“刻まれてる”んじゃない。……“生えて”きてる」
エルムが息を呑んで言った。
雷紋の色は、従来の青白い光ではなく、深い蒼と銀が混ざったような色を帯びていた。感覚が鋭くなり、周囲の空気の湿度や温度すら、皮膚を通じて伝わってくるような奇妙な感覚がある。
「……雷脈因子の進化。いや、個体との融合か?これは……」
ターコイズが低く呟く。
「コバルト。たぶん雷脈は、記録媒体や制御術式に依存せずに成長し始めている。これは危険でもあり、希望でもある」
「危険と……希望?」
「暴走を他者の術式で抑えることができないという意味では、制御困難だ。だが同時に、“記録”を経由せず自己安定化する因子は、王国でも発見例がない」
シアンの宝玉が青白く明滅する。
『さすがは主殿、規格外の成長をしておるということだ』
その言葉が、胸の奥に重く響いた。
誰にも名を与えられず、ただ宿され、見捨てられ、暴走するしかなかった雷。
でも、俺は――違った。
自分で名を刻んだ。戦って、選んで、ここまできた。
「つまり……俺は“記録されなくてもいい雷”になったってことか」
「まだ断言はできん。だが、記録を超えた存在という意味では――そうなる可能性はある」
ターコイズが視線をそらし、わずかに呟いた。
「……まったく、人騒がせな弟だ」
言葉とは裏腹に、その声音には微かな安堵が滲んでいた。
エルムがそっと俺の手を取った。その手は、いつもよりも温かく感じた。
「行こう。ここも、もう長くはもたない」
塔の内部が、また大きく軋む音を立てた。天井の一部が崩れ、舞い上がる粉塵の中に夕日が差し込む。
俺たちは再び走り出した。
今度は、逃げるためではない。記すために――外の世界へ。
塔を出たとき、空はすでに夕暮れの色に染まり始めていた。
風が止んでいた。音もなかった。だが、空気に感じる圧だけは――明らかに、先ほどまでとは異質だった。
「……待ち構えてたか」
ターコイズが肩をすくめるように言った。
その視線の先、森の木立の間から現れたのは、王国軍制式の白い外套を羽織った十数名の兵士たちだった。前列に立つ一人だけが灰色の外套を身につけ、胸元には双頭蛇の紋章……内務調査局だ。
「特命観察室?……だけじゃないな、騎士団まで引き連れて来るとは」
「雷因子保持者、コバルト・ブルー。王国法に基づき、保護および制御のための収容を求める」
前に出た調査局員が、型通りの文言を読み上げる。だが、その背後の兵士たちは、すでに武器を構えていた。
「……保護、ね」
思わず吐き捨てるような声が漏れた。
これは“保護”なんかじゃない。“封じる”ための準備だ。
「待て」
静かな声が戦場のような空気を裂いた。
ターコイズ・ブルーが前に出た。上背のある男が、その場に立つだけで緊張が走る。
「この件は、私の管轄下にある。君たちが手を出す筋合いはない」
「……失礼ですが、どなたかな?確認の取れていない人物に、対応を引き継ぐわけには」
「ふむ。面倒だな」
ターコイズは内ポケットから、銀糸で縁取られた漆黒の紋章を取り出した。それを見た瞬間、調査局員の顔色が変わる。
「宰相直属・特務補佐官、ターコイズ・ブルーだ。すでに通達が出ている。そちらにも行っているはずだが?」
「……っ、それは……」
言葉に詰まる調査局員。その横で、兵士たちがゆっくりと武器を下ろす。
ターコイズはわずかに笑った。
「この件は、王国中枢直轄の“観察対象”に関する特殊案件だ。君たちは引き上げろ。責任を取りたくなければ、な」
その声音には、皮肉とも警告とも取れる柔らかさがあった。
調査局員は数秒だけ沈黙し、それから低く頭を下げた。
「了解。以後の対応は、特務補佐官に一任いたします」
そのまま、彼らは音もなく森の奥へと姿を消していった。
残されたのは、風と、沈黙と、そして――ターコイズの背中だけだった。
調査局の部隊が去った後、辺りには静寂だけが残った。
空はすっかり赤く染まり、塔の崩壊した残骸が、遠くに鈍い影を落としている。焼けた空気の中に、雷の匂いがまだかすかに残っていた。
俺は拳を握り、ゆっくりと右手を見下ろした。そこには、もう消えかけた雷紋が淡く光を帯びていた。自分の内側から生まれ、そして共鳴し、変化した“記録”。
「……コバルト」
ターコイズの声が背後から響いた。
その声は、冷たくもなく、優しくもなく。ただ、淡々と。
「おまえは、その力をどう使いたい?」
俺は答えを探すように、空を見上げた。
力を持ってしまった。
選んだわけじゃない。けれど、選ばなかったとも言えない。
「……誰かのために、とか。世界のために、とか。そんな立派な理由はない」
言葉にすることで、体の奥にあった何かがほどけていく気がした。
「でも……俺は、自分のためにこの力を使う。傷つけられたくないから。大切なものを奪われたくないから。守るために、振るう」
その言葉は、どこかでずっと怖くて言えなかったものだった。
けれど今は、はっきりとそう言える。
「それが、俺がこの雷を“記録する”理由だ」
沈黙。
やがてターコイズは、小さく鼻で笑った。
「……ああ、それでいい」
兄は踵を返すと、歩き出した。
「今の立場は何かと便利でな。仲良くしているだけで勝手に融通を利かせてくれる連中も多い。大したことはできんが、雑音くらいはどうにかしよう」
俺は、その背中を見つめていた。
その歩みは遠ざかっていくようで、けれど今までより温かく、近くなった気がした。
「……ねぇ、コバルト」
隣でエルムが微笑みながら、ぽつりと囁いた。
「お兄さん、やっぱり変わらないわね」
やわらかな風が吹いた。
雷が“生きた記録”になるとき、世界がそれを見逃すはずがなかった。
そして次に訪れるのは――《追跡者》たちの影か。




