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第22話 記録の残響

古の塔に刻まれた“雷”の記録。

忘れられた名が、再び呼び起こされる――。

 塔の内部は、息を潜めたように静かだった。


 


 かつて魔導具や実験器具で埋め尽くされていた空間は、すでに廃墟と化し、床には砕けた硝子と焼け焦げた装置の残骸が散っている。光は、外から差し込むわずかな自然光のみ。窓などない塔の奥で、昼か夜かすら判別がつかなかった。


 


 俺とエルムは、慎重にその薄闇の中を進んでいく。空気はひどく乾いていたが、ところどころで雷脈が微かにざわめくのを感じる。まるでこの空間そのものが、俺の存在に反応しているかのように。


 


 「……ここが、最奥?」


 


 エルムが小声で問う。俺は頷き、足を止める。


 


 そこは塔の最も深い一室。中央には崩れかけた石の台座があり、その表面には、うっすらと雷紋――あの時、剣に浮かび上がった紋と酷似した模様が刻まれていた。


 


 「……感じる。雷が……応えてる」


 


 思わずそう呟いた瞬間、胸の奥――雷脈が脈動した。ゆっくりと、しかし確かに。その拍動が全身に伝わり、右手が微かに震える。


 


 「コバルト……手、震えてる」


 


 エルムが心配そうに声をかけたが、俺は首を横に振った。


 


 「違う。怖いんじゃない。これは……呼ばれてる感覚だ」


 


 石の台座に近づくにつれて、何かが“目を覚ます”ような空気が満ちていく。魔力ではない。もっと原始的で、もっと深く、もっと古い“力の残滓”のような何か。


 


 そして、台座の前で俺が一歩を踏み出した瞬間――


 


 カチ、と小さな音が鳴った。


 


 空間の中心に、淡く浮かぶような光の輪が出現した。音声ではなく、魔力の震えとともに始まる“記録”。塔の主――あの老人の声が、空気の振動として響きはじめた。


 


 「……この記録が起動されたということは、君がたどり着いたのだな、“継承者”よ」


 


 その声は確かに、あの時の――塔で出会った老人のものだった。


 


 エルムが息を呑み、俺は拳を握り締める。始まった。ここから、すべての答えが語られる。


 


 懐かしくも重たい声だった。実在の気配はもうここにはない。だがその語り口には、確かな“意志”があった。


 


 「私の名は、かつて“雷因子”と呼ばれた現象を研究していた者。名乗ることに意味はない。王都の記録から抹消された以上、私の名はもう、どこにも残ってはいないのだから」


 


 空気が震えていた。雷脈が、声に共鳴するように、静かに脈打つ。俺の体の奥――雷の因子が、彼の言葉に呼応している。


 


 「私は知っていた。“雷”とはただの属性魔法の変種ではない。“力”でもなければ、“術”でもない。雷は――“記録”そのものだ」


 


 記録。


 


 その言葉に、俺の脳裏に過ぎったのは、これまでに見た雷の痕跡、塔の文様、剣に刻まれた一瞬の光――それらがただの力ではなく、“痕跡を残すための現象”なのだという仮説。


 


 「……君は、“アジュール”という名を聞いたことがあるか?」


 


 その名に、俺とエルムが同時に顔を上げた。


 


 「かつて、王都に存在した“雷因子保持者”の名だ。だが彼の存在は、当時の政治的判断によって抹消された。研究も、記録も、すべて闇に葬られた」


 


 沈黙。だが、声は淡々と続く。


 


 「だが、血は消えなかった。彼の系譜は、幾重にも枝分かれしながら、どこかで密かに生き続けていた。そして、今――君に至った」


 


 「……つまり、俺が……“先祖返り”……?」


 


 震える声で問うた俺に、光の残響は答える。


 


 「そう確か、蒼雷返(そうらいがえ)りといったか。君の中に宿る雷脈はアジュールから連なった血が再び発現した結果だろう。王家も、内務調査局も蒼雷返りを恐れ、かつてはアジュールとともに記録を封じた。だが、因子は因子を求める。雷は、再び記されることを望んでいた」


 


 エルムが、信じられないというように俺を見つめている。けれど、その視線には恐れよりも――覚悟があった。


 


 「……だから、雷は俺を導いたのか。塔へ、石板へ……」


 


 「君に“記して”ほしかったのだ。雷とは、名を刻まれることで初めて存在が確定する。“名なき雷”は暴走し、“記録された雷”だけが真に継承される」


 


 光の声が、穏やかに語る。


 


 「どうか、選んでくれ。“名を刻む者”として生きるか、それとも――“記されぬまま”力に呑まれるか」


 


 そこまで語ると、光はふっと弱まっていった。


 


 エルムが、そっと俺の手を取った。指先が少し、冷たかった。


 


 「……コバルト。私は、あなたが選ぶ道を一緒に見るって決めた。どんな過去でも、どんな力でも」


 


 彼女の言葉に、雷脈がまた、静かに震えた。




 残響の光がゆっくりと消えていく中で、俺は、台座に刻まれた雷紋から目を離せなかった。


 


 名を刻まれることで、雷は存在になる。


 名を与えられなければ、それはただの“暴れる因子”にすぎない。


 


 「……先祖返り、か」


 


 低く呟いた声が、広間の石壁に反響する。


 


 「俺の中にあるこの力は、“俺のもの”じゃなかったのかもしれない。……何百年も前の誰かの記憶が、俺という器に戻ってきた――それだけだとしたら……」


 


 言いかけた言葉を、喉の奥で止める。自分で言っていて、違うと分かっていた。


 


 力を否定したいわけじゃない。ただ、認めるには……重すぎる。


 


 「それでも、コバルトはその雷を選んできたじゃない。誰に強いられたわけでもなく、自分で向き合ってきた」


 


 隣で、エルムがしっかりと言った。彼女の視線は、迷いなく俺を見ている。


 


 「“蒼雷体”って、怖い響きだけど……私には、あなたの一部にしか思えない。ずっと一緒にいたからわかる。剣を振るうとき、あなたは“選んで”いた。あの力に、答えようとしていた」


 


 その言葉に、胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。


 


 そうだ。力を持っていたから選んだんじゃない。持ってしまったから、向き合ってきたんだ。


 


 「……ありがとう、エルム」


 


 自然と、声が出ていた。彼女が微笑む。


 


 その時だった。


 


 ゴォォォォォォォォン――。


 


 鈍い低音が、広間の奥から響いた。まるで空間そのものが震えるような、重く、乾いた音。


 


 「なに……今の音」


 


 エルムが身を寄せてくる。空気が、変わっていた。塔の壁が、わずかに軋んでいる。


 


 「雷脈が……応えてる。違う、これは――共鳴だ」


 


 俺の腕が、また微かに光を帯びていた。手の甲に、雷の紋様のような光が浮かんでは消える。胸の奥の雷脈が、それに同調して脈打つ。



 


 「記録が、俺を“継承者”として認めた……?」


 


 問いは誰にも向けたものではなかったが、エルムがはっとした顔をして小さく頷いた。


 


 「うん、間違いない。雷因子が、あなたの存在を通じて安定し始めてる。だからこの塔全体が――“動き出した”のかも」


 


 塔の空間が、静かにうねる。


 見えない雷の波が、石壁の内側で脈動しているのがわかった。


 


 「……なら、俺はこの力を、“俺のもの”として刻まなきゃならない」


 


 それが、記録されずに消えていった“雷の名”への、せめてもの弔いであり――


 これから先、俺が“どう生きるか”という選択でもあるのだ。


 塔の石壁がわずかに振動し、埃が舞った。


 だがそれは、崩壊の予兆ではなかった。もっと深く――まるで、この空間そのものが呼吸を始めたかのような、律動。


 


 「……雷脈が、周囲と同調してる」


 


 エルムが空間を見渡しながら呟いた。彼女の魔力感知に誤りはない。俺にも感じ取れた。


 塔の壁に張り巡らされた古い術式が、静かに活性化している。


 


 「記録が……生き返った?」


 


 俺の言葉に、エルムは頷いた。


 


 「この塔は、雷因子の器を“迎え入れる”ように作られていた。つまり、あなたがここに来ることを想定して設計されてたってこと」

 


 迎え入れる。


 まるで、戻るべき場所に帰ってきたかのような言葉だった。


 すると、懐かしい声が唐突に響いた。


『ふむ……随分と間が空いたな、主殿』


 腕に巻かれた銀の腕輪(バングル)――シアンが、久しぶりに声を発したのだ。


 「……シアン。ずっと、黙ってたじゃないか」


『はじめてではあるまい?必要なときには語ってきたであろうよ』


 口調は変わらないが、どこか……嬉しそうな気配すらある。


 王都に戻ってからというもの、シアンは不思議なほど口を閉ざしていた。

 問いかけても、答えは返ってこない。まるで、意図的に沈黙していたかのように。


 俺は剣を抜いた。雷の意志が、腕を伝って刀身へと移る。剣身がバチリ、と短く鳴いた。



 雷紋の台座に向けて、剣を静かにかざす。


 すると、その紋様が共鳴するように微かに発光し、床全体へと複雑な魔方陣が広がり始めた。



 「魔術回路……でも、今は誰も操作してない」


 「いや……“雷が、記してる”んだ」


 言ってから、自分で驚く。でも確かに、そうとしか思えなかった。

 バングルの宝玉が淡く明滅し、塔の回路の光に呼応するように、また声が響く。


『ほう……これはまた、随分と古い仕掛けだな。雷脈の記録とは、“こうも劇的なものか”。この塔は、“書庫”だったのだな。名もなき雷の記録保管所。……ふむ、実に趣がある』


 その声音には、どこか懐かしさすら混じっていた。


 雷は、俺の存在に反応して、魔術ではなく“痕跡”を走らせている。まるで、誰にも読まれなかった文書に、名前を書き足していくように。


 足元の光が、次第に天井へと伸び、塔の全体を包み始める。


 外の空が、ほんの一瞬だけ――雷雲のように、黒く脈動した。


「見て、コバルト……手の甲」



 エルムの声に目を落とすと、そこには雷の紋様が浮かび上がっていた。先ほどよりも、明確に、鮮やかに。


 中心から枝分かれするような、細やかな雷の痕。それはまるで、皮膚の下に根を張るように広がっていた。


「これが……俺の“名”?」


 呟いた瞬間、塔の光が一閃し、すべてが収束する。


 雷光は引き、広間は元の静けさを取り戻した。


 そして――


 台座の中心に、最後の残響が浮かび上がる。


 それは声ではなく、かすれたような囁きだった。



『名を記せ。さすれば雷は存在を示す――』

 

 それだけを言い残すと、残響は完全に消えた。


 魔力も、光も、塔の息遣いも――すべてが静止した。


 だが、俺の中の雷だけが……確かに、生きていた。


 広間は、深い静寂に包まれていた。


 魔術も雷脈の脈動も、先ほどまでの喧騒が嘘のように沈黙している。まるで、塔そのものが眠りについたかのような――いや、役目を終えた者のような落ち着きだった。


 「終わった……のかな」


 エルムがそっと口を開く。声は自然と抑えられた。


 俺は何も言わず、手の甲に浮かんだ雷の紋様を見つめる。皮膚の下で、まだかすかに光が点滅していた。


 記されたのだ。俺の中に。


 この塔に刻まれていた、消された名の“記録”が、今は俺の中に生きている。


 だが、達成感のようなものを味わう間もなく――その瞬間、エルムがぴたりと動きを止めた。


「……風の、流れが変わった」


 視線は塔の入り口方面に向けられている。俺もすぐに気づいた。


 外気の微かな渦巻きが、塔内へ侵入している。まるで、何かが風を押し込んできているように。


「……来たか」


 剣の柄に手をかける。雷脈が、わずかに反応した。


 外で、何かが踏みしめる音がする。


 乾いた砂利の上を、重たい足音が複数、慎重に――だが確実に近づいてくる。



 「コバルト。数……三。いや、もっと。足音だけじゃない。気配が複雑。人間じゃないものも混じってる」


 エルムの分析に、頷き返す。


 俺たちがここへたどり着くまでに、そう簡単に他者が塔の結界を破れるとは思えない。


 だが――来たのだ。

 


「こんなタイミングで…何を狙っている?」

 


 それが異形の魔物と関係するのか、調査局か、それとも別の“第三者”かはわからない。


 だが、どうやら俺がここで雷を記したことが何かのきっかけになっているらしい。


 


 「……もう逃げ場はないね」


 


 エルムが、杖を構える。先端の水晶に、うっすらと風の魔力が宿る。


 


 「逃げる気はないさ。ようやく手にしたものを、誰かに持っていかれるなんて――ごめんだ」


 


 俺は、剣を抜いた。雷がうすく全身を覆いはじめる。


 まるで喜んでいるかのように、力はしっかりと応えてくれる。


 


「ここで待とう。何者であれ、越えさせるわけにはいかない」


 


 塔の扉の向こうで、気配が止まる。


 一瞬の静寂ののち、ギギギ……と古びた扉がゆっくりと開きはじめた。


 


 強い風が、塔内へ吹き込む。


 


 そして――


 

 人影が現れ、雷脈がひときわ強く脈打った。

しかし雷が目覚めた今、静寂はもう続かない。

次に現れる“影”は、継承者を試す者か、それとも……?


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