第21話 王都に戻りて・後編
雷が導くのは、力の真実か、それとも過去の残響か。
いま、扉の前に立つのは――変わりゆく“自分自身”。
2日後、王都を背にして俺とエルムは塔へ向かい、歩いていた。
土の匂いが、季節の変わり目を告げている。
整備された街道を外れ、草の覆う小道へと足を踏み入れるたび、空気が変わっていく。
湿り気を帯びた風、低く茂る草のささやき、鳥たちの羽音。そのすべてが、俺たちの歩みを静かに見守っているようだった。
……けれど、静かすぎた。
「こんなに音が少なかったかな、この道」
エルムがふと口にした。
前に塔へ向かったときよりも、森の気配が遠い。風の流れも鈍く、空は晴れているのに、どこか曇っているように感じる。
「いや……違う。感じてるのは、“俺たち”かもしれない」
答えながら、俺は無意識に左胸を押さえた。
そこに宿る、雷の因子――雷脈が、今もしずかにざわめいていた。
疼くわけじゃない。けれど、静かに、確かに脈を打っている。
まるで、呼ばれているように。
塔に。
そこにある何かに。
……あるいは、そこに“いた”誰かに。
エルムが足を止めた。
「コバルト……怖くは、ないの?」
その問いは、ふいに胸の深い場所を突かれたようだった。
彼女の表情には迷いはなかった。けれど、瞳の奥に、ほんの僅かな不安の影が揺れていた。
「……わからない」
俺は正直に答えた。
「怖い、のかもしれない。自分の中の“何か”が変わっていくのを感じるたび、それが俺のままでいられる保証なんて、どこにもない」
足元の小石をひとつ、つま先で跳ね飛ばす。
石は短く転がって、枯れ葉に飲まれて消えた。
「でも、それでも行く。……あの祠のこと、歪んだ魔物のこと、そして“俺自身”のことを、知らずに済ませたくないから」
エルムは静かに頷き、ほんの少しだけ歩幅を近づけてきた。
「……私も、怖いよ。でも、見たい。あなたの雷が、どういう力で、どんな意味を持ってるのか。それを一緒に見たいって思ってる」
その言葉に、雷脈がまた、脈打った。
穏やかに、だがはっきりと。
俺は深く息を吐いて、うなずいた。
「じゃあ、いこう。もうすぐ、見えるはずだ」
森の道を抜け、やがて、あの塔の輪郭が遠くに見え始めた。
薄曇りの空を背景に、古びた石造りの塔が、森の中で静かに立っている。
風が吹いた。
ただの自然の風ではなかった。
雷脈が、それに反応した。
塔が、俺の雷に応えている――いや、“共鳴”している。
その感覚が、背骨の奥からじわじわと広がる。
「エルム……感じるか?」
「うん。ここ、もう完全に“空気が閉じてる”。風も、土も、拒んでるわけじゃないの。ただ……すべてが静まり返ってるの」
塔は、待っている。
それは、人なのか、記録なのか、あるいは……何かの終わりか始まりか。
答えはわからない。
けれど、もう止まらない。
塔の入口まで、あとわずか。
そこから先は、きっと元には戻れない。
***
石造りの古塔は、以前と変わらぬ姿で森の奥にそびえていた。
けれど、そこから感じる“気配”は、前とはまるで別物だった。
扉は開かれている。
だが、誘うようでも拒むようでもない。
ただそこに、無音のまま存在している――
それだけのはずなのに、足が自然と止まった。
身体ではなく、心が引き返そうとする。
俺はそっと、胸に手を当てた。
雷脈が、じんわりと熱を帯びている。痛みではない。
だがそれは確かに“目覚め”に近い感覚だった。
「……何かが、変わってる」
ぽつりと漏れた声に、エルムも小さく頷いた。
「風が入っていかない。塔の中、完全に魔力が閉じてるの。誰かが結界を張ったわけじゃない……これ、多分、“死んでる”の」
“死んでる”。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
でも、そうだ。
塔の気配からは、あの老人の存在が消えている。
気配も、魔力の残滓すらも。
まるで最初から、誰もいなかったかのような“空虚”が、塔の石壁にこびりついていた。
俺の喉が、ごくりと鳴った。
「……エルム。もし、あの老人がもうここにいなかったとしても……それでも中に入る。いいか?」
「うん。だって私たちは、“聞きに来た”んでしょ。真実がここに残ってるなら、絶対に逃しちゃいけない」
真実。
誰のものでもない、“俺の雷”の真実。
それを掴むために、ここまで歩いてきたのだ。
剣の柄を握る。雷脈が、そこに応えるように脈打つ。
塔の空気に触れた瞬間、それがはっきりとわかった。
――雷が、目覚めかけている。
塔と、俺の雷脈が“共鳴”している。
心臓の鼓動が早くなる。思考が一瞬だけ、霞みそうになる。
だが、それでも手は止めなかった。
扉の縁に触れ、軋む石を押して開く。
中は、かつてよりもひどく静かだった。埃は増えている。
空気は澱んで、魔力の波も感じない。
だけど――だからこそ、“残された痕”が際立っていた。
奥の机。
積まれた書類。魔導具の残骸。そして、床に砕け散った……雷紋の彫られた石板。
「……これ」
エルムが目を見開いた。
雷脈に呼応する文様。
それを見た瞬間、雷が、明確に震えた。
(これだ。……これが、俺の力の、出処)
確信にも似た直感が、胸を貫いた。
塔の中にはもう誰もいない。
けれど、“記録”は残されている。
俺の雷は、それに呼ばれて目覚めかけている。
そしてこの先――誰かが、それを奪おうと動いている。
剣の柄を強く握った。
これは、ただの追跡や報告の旅じゃない。
“雷をどう生きるか”
その選択が、俺の目の前に置かれようとしていた。
「行こう、エルム。奥を確かめる」
「うん。……ここからは、本当の始まりだよ」
扉の前に立つと、ふと背後の風が静まった。
その一瞬に、なぜか心の奥で、誰かの視線を感じた気がした。
――あの老人は、何も言わずに去ったわけじゃない。
きっと“何か”を、残してくれている。
その想いを胸に、俺たちは扉を押し開いた。
軋んだ音が、静寂の中に広がる。
塔の中、雷脈の鼓動とともに、確かに新しい記録が綴られようとしていた。
誰かが残した“何か”に触れて、物語は動き始める。
これは、ただの発見じゃない。“雷をどう生きるか”という問いの始まりだ。




