第19話 雷の隣を歩く・後編
小さな村の風車に巣くったのは、魔物か、不安か。
寄り道の先に、ほんの少し心が近づきます。
道中、三人は丘の中腹にある小さな村──ベルノへ立ち寄った。
王都への道のりの途中、補給と休息を兼ねての寄り道だったが、村の掲示板に貼られた一枚の依頼札が目に留まった。
「“風車の羽根が動かない。何かが巣くってる気がする”……って、これね」
エルムが紙を指さす。報酬は少額だが、素材提供の協力金もあり、気晴らしにはちょうどよさそうだった。風車は村の外れにぽつんと建っていた。木の羽根は止まり、回転の気配もない。
「……羽根の付け根、噛まれてる。咬み跡も古そう。しばらく居ついてるのかも」
エルムがしゃがみこみ、小枝で木材の染みをなぞる。淡く残った黒い跡と、小さな爪痕が風にさらされていた。コバルトは風車小屋の奥に視線を向けた。
風の流れに交じる、わずかな違和感。
「中にいる。数は……一、二。小型の魔物だ」
「ほう?……じゃあ俺から行くぜ」
トーガが背の竹かごを軽く叩きながら笑う。
中からはカラカラと干しキノコの音がした。
「風車に巣くうってんなら……小動物系だろ。鼠だったら慣れてんぜ、農家のせがれだからな」
「……援護する。連携は忘れるなよ」
コバルトが釘を刺すと、トーガは親指を立てた。
そして、そっと扉を押し開ける。
木が軋む音と同時に、ぴたりと空気が変わった。
低く、素早い何かが地を滑る。長い尾が覗いた。
──次の瞬間、暗がりから黒い塊が飛び出す。
「来るよ!」
エルムが詠唱に入り、足元に風が集まる。
煤けた毛並みに、異様に長い尾が二本。
四足歩行のはずが、跳ねるような奇怪な動き。
牙が伸びすぎて、口元が常に開き気味に歪んでいる。
「ツインテールラット!尻尾に毒、気をつけて!」
トーガが前に踊り出た。縄編みの籠手に包まれた拳が、微かに陽光を弾いていた。
──音もなく、天井から影が落ちる。
『上。構えるより、沈み込め』
シアンの声が響いた。
「あいよ!」
即座に膝を折り、しゃがみ込むような低い体勢で、下から拳を突き上げる。
打ち上げられた魔物の顎が跳ね上がり、鈍い衝撃音とともに、黒い塊が弧を描いて地面に叩きつけられた。
「いいタイミングだったな!」
『反応がいいな。案外、素直な性格かもしれん』
「ははっ、そういうとこ褒めてくれるの、お前くらいだぜ」
残る一体が横から跳ねる。足元の風がそれを巻き上げた。
「今!」
エルムの声に、コバルトが滑り込むように踏み込む。
剣の軌道はぶれず、空中で翻る魔物の首元を断ち割った。
一瞬の静寂。埃が舞い、魔物が沈黙した。
「……終わったな」
剣を振り、納める。気配は消えていた。
「ケガ、ないか?」
「こっちは平気。そっちは?」
「ちょっと汗をかいたぐらいだな」
トーガが肩を回す。エルムが息をつき、ふっと微笑んだ。
その隣で、シアンが短く光った。言葉はなかったが、どこか満足そうに揺れた気がした。
* * *
日が傾き、村の外れにある丘で三人は火を囲んでいた。
木々の間を渡る風は、夜を運び始めている。
コバルトは小さな焚き火の前で、火ばさみを動かしていた。火の粉がはぜ、ぱちりと音を立てる。
鍋の中では、トーガが持ち込んだ茸と野菜の雑炊がことことと湯気を上げている。
「ふう……いい香り。トーガって、ほんとに山の人なんだね」
エルムが火を見つめながら呟いた。トーガは竹かごを背後に立てかけ、笑った。
「生活が戦いと一体化してんのさ。鍋の中身で季節が分かる。今日のは春先仕様ってな」
「……トーガ」
焚き火を見つめながら、コバルトが声を落とした。
「ベルノ村に立ち寄る前、聞こうとしてたろ?“俺の力”のこと」
問いかけではなく、確認だった。トーガは黙って、雑炊の鍋を一度かき混ぜた。
「……あの灰外套の反応とか、お前の目の揺れ方とか。あれだけあれば、察するさ」
火に映った表情は変わらない。けれど声は、どこか柔らかかった。
「見ちゃいねぇけど……きっと、すげぇ力なんだろ。それがどんなものでも、怖いって思っていい。でもな」
ひと呼吸置いて、トーガは火を見つめる。
「その力で誰かを守れるなら、怖さごと引っさげて使えばいい。そんだけの話だと思うぜ、俺は」
風が、焚き火を少しだけ煽った。
エルムが、その隣で静かに口を開いた。
「私も、少し怖かったよ。……コバルトが変わっちゃうんじゃないかって。だけど──」
彼女は少し笑った。火の揺らぎがその目元を照らしていた。
「ちゃんと隠さずに向き合ってくれた。それが、私は一番嬉しかった」
コバルトは何も言わず、炎を見つめたままだった。
その手首で、シアンがかすかに光を帯びた。
『主殿よ。恐れるべきは、力ではなく、その力が向かう先……心の揺らぎよ。真に揺れるものにこそ、応じてしまうのが“異能”というものだ』
コバルトは目を伏せ、静かに息を吐いた。
「……ああ。まだ、自分でも掴みきれてない。けど……踏み出すくらいなら、できる気がする」
火がぱちりと鳴った。
火の揺れが、雷光の残滓のように見えた。
そして、ふと思い出したようにトーガが口を開く。
「──そういや、嬢ちゃん」
「ん?」
「今日の髪留め、春っぽくていいじゃねぇか。なあ、兄弟?」
エルムがぴくっと固まる。淡い桃色のリボンがついた小さな髪留め。
金のポニーテールをまとめるその飾りは、いつもの実用重視の紐とは明らかに違っていた。
コバルトは雑炊をすくっていた手を止めた。
「……ああ。よく似合ってる」
「っ……そ、そう? ありがと……」
エルムが湯気の向こうで少しだけ視線をそらす。頬が赤い。
シアンは無言で、光だけがゆらゆらと揺れていた。
焚き火は、まだ小さく燃えていた。
* * *
朝の光が丘を照らしていた。
霧は薄く、風は柔らかい。村の外れの分かれ道に、三人の影が並んでいた。
「……本当に、そっちに戻るの?」
エルムが尋ねる。トーガは竹かごの重みを背に感じながら、うなずいた。
「ああ。薬草もそれなりに集まったし、鍋の底も見えてきた。……頃合いだと思ってな」
言葉少なだが、迷いはなかった。
荷物の中には、山の幸と一緒に、短い時間で培った信頼と気配が詰まっている。
コバルトは静かに言った。
「……気をつけろ。谷を越えるなら、崩れやすい箇所がいくつかある」
「ああ、雪解け水の流れも見てきた。帰りは尾根を回るつもりだ」
トーガの声は、いつも通りだった。
「……また、どこかで会えたらいいな」
エルムがぽつりとこぼした。その言葉に、トーガは少しだけ間を置いてから答える。
「ああ、また会えるさ。世の中、思ったより狭いからな」
彼らしい、飾らない言葉だった。
コバルトは目を伏せ、そして手を伸ばす。
「……ありがとう。いろいろ助かった」
「こっちこそ。いい旅だった」
その言葉だけで、互いの距離は十分だった。
しっかりと握った手を放し、トーガは一歩踏み出す。
竹かごが軽く揺れて、草の音を連れていく。
背を見送りながら、エルムが呟いた。
「……行っちゃったね」
「ああ。でも、またすぐ会えるよ。……そんな気がする」
その答えに、風が一度だけ頷いた気がした。
焚き火の名残は、まだ地に暖かさを残していた。
春の光とともに、旅はまた続いていく。
別れは終わりじゃなくて、再会のはじまりかもしれません。




