第17話 拳は語らずとも、背中で伝わる
鍋を囲んだ夜のあとに残るのは、火のぬくもりか、それとも拳の余熱か。
夜が明ける前、火はまだ小さく灯っていた。
鍋の中では、バルムクマの脂が音を立てて弾け、
茸と香草が、まるで森の息づかいのような香りを湯気に乗せていた。
その匂いに、身体の疲れが、少しずつほどけていく気がした。
「うん、うまっ……! なにこれ、ほろほろだし、全然臭みない!」
エルムが目を丸くしながら、二杯目をよそっている。
「ほらな? 血も抜かず、煮すぎもせず。香りは生きてるだろ?」
トーガは竹の箸を器用に操り、ゆっくりと肉と野菜を口に運んでいた。
豪快なようでいて、食べ方は静かだった。
骨に付いた身も、無駄にしない。草履を編むように、丁寧に。
――ああいう、落ち着いたまま強くあれる感じ……俺には、まだ遠い。
「……なんか、羨ましいな」
俺は、ぽつりとこぼしていた。
「なにが?」
トーガが笑いながら、鍋をかき回す。
「トーガ、何やっても慣れてて、強くて、笑ってて……なのに、偉ぶらないし、競ってこない。……ずるいよ、そういうの」
ずっと、“比べられること”が当たり前だった。
誰より速く。誰より強く。兄に追いつきたい、父に認められたい。
そんな世界で生きてきたから──
“誰とも競おうとせず、堂々とそこにいる”トーガが、眩しく見えた。
なのに、彼はそれを“誇ること”すらしない。
勝ちもしない。比べもしない。ただ、黙って隣に座っている。
……ずるいよ。そんなの。
トーガはしばらく黙ってから、「そうか?」とだけ返した。
少しの間だけ、焚き火と湯気の音だけが聞こえる。
やがて、彼は言った。
「よぉ兄弟。……おまえさん、自分と戦ってるような顔してるな」
トーガの言葉は、焚き火のはぜる音よりも静かで、
けれど不思議と、まっすぐ胸に届いた。
俺は、すぐに返せなかった。
戦ってる──
そうかもしれない。誰かと、じゃない。
きっと、自分の中にある“何か”と、だ。
雷脈。
制御しきれない力。
それに囚われる自分自身。
「…誰かに勝ちたくて強くなりたいんじゃないんだろ?」
トーガは続ける。
湯気に霞む顔は、笑っているようでいて、どこか遠くを見ていた。
「けど、勝てなきゃ追いつけねぇと思ってんだ。置いてかれるのが怖くて、自分を叩いて──力に飲まれそうになってる」
焚き火の中の薪が崩れ、パチ、と音を立てた。
「……なんで、そんなこと分かるんだよ」
「似たようなもんだからさ、俺も。七人きょうだいの長男ってのは、放っといても戦場だぜ。畑も家も弟妹も、みんな背負うんだ。自分が泣くヒマなんてねぇ」
そう言って笑う彼の声は、どこまでも軽くて、あたたかかった。
「それで、力に呑まれそうになることもあったか?」
そう聞くと、トーガはほんのわずかに間を置いた。
「ある。……だから今は、呑まれるくらいなら誰かの盾になってやるって決めてる。前に立つのは、そういう時のためだ。後ろの誰かが踏ん張れるなら、それで充分」
言葉に重さはないのに、
なぜか、その背中が、大きく見えた。
「……トーガってさ、体が大きいとかじゃなくて……“背中が大きい”って、言われない?」
思わず漏れた俺の言葉に、彼は一瞬だけ眉を上げたあと、ふっと笑った。
「実は俺、背中がでかいって言われるんだ。たぶん、気のせいじゃねぇと思う」
「それじゃ、ただの大男じゃないの!」
エルムが笑いながら、湯気越しにツッコミを入れた。
その声が、焚き火のはぜる音と混ざって、心地よく響いた。
薪をくべたトーガの動きに合わせて、炎がふっと高くなり、夜の闇を少しだけ押し返した。
その明かりの中で、左腕に巻かれたバングルが、微かに熱を帯びた。──シアンだ。
『……主殿。雷脈が、微かに反応しているぞ』
(……え?)
『明確な敵意でも、怒りでもない。“共鳴”に近い。この男の言葉に、何かが響いたようだ』
俺の中で、確かに何かが静かに波打っていた。
荒れるでもなく、膨れるでもなく。
ただ、ほんの少しだけ──揺れて、応えた。
* * *
あの夜の火は、まだほんのりと残っていた。
明け方、冷え込んだ森の空気の中で、俺たちは片付けと準備に入っていた。
焚き火跡に土をかぶせ、鍋を冷やし、残りの山菜や茸を竹かごに戻す。
「……不思議ね。昨日まであんなにピリピリしてたのに、今日は肌がやわらかい」
エルムが風の流れを読むように、そっと呟く。
「ああ。俺の中の雷も……昨日より静かだ。なんでか分からないけど」
『“なぜか”ではない。主殿の中の“抵抗”が、一時的に解けていた。雷脈は、拒絶されるよりも“受け止められる言葉”に反応しやすいのだ』
シアンの声は相変わらず淡々としているが、どこか納得したような響きがあった。
「……それにしても、トーガって変なやつよね。なんか……安心するっていうか」
俺はエルムの言葉に頷きかけたが、ふと、あたりを見渡す。
──トーガの姿が、ない。
ほんのさっきまで、鍋の蓋を洗っていたはずだ。
なのに、気配すら残っていない。
「……どこ行った? あいつ」
「かごもあるし、鍋もそのまま……ってことは置いてったってわけじゃないよね?」
辺りに足音も気配もない。風も止んでいる。
そのとき、シアンがぽつりと告げた。
『主殿。微弱な闘気の残滓が、北の小径に向かっている。恐らく──』
言い終わる前に、俺とエルムは同時に動いていた。
森の木々をかきわけ、小径へと出る。
そこはまだ朝靄に包まれていたが、霧の向こうに、人影が一つだけ──
「……トーガ?」
声をかけたその瞬間、
彼の右腕が、ゆっくりと上がる。
拳に、微かに闘気が集まり──
──ごうっ!
木々の隙間へと何かを殴り飛ばした。
霧の奥で、鈍い衝突音が響く。
次いで、低く唸るような声が、霧の中から漏れた。
「……なるほど。さすがに気づいていたか」
その声に、俺もエルムも、思わず足を止めた。
人のものとは思えない、どこか空っぽな声。
そして霧が裂け、
一人の男が、姿を現した──
霧の中から現れたその男は、どこか無機質な雰囲気をまとっていた。
灰のような外套。
金属の留め具に刻まれた、双頭の蛇の紋章──
内務調査局。
それも、ギルド連携の監視班ではなく、明らかに別系統の人間だった。
男は無表情のまま、トーガの正面に立ち、口を開く。
「初動観察において、想定以上の干渉を確認した。対象に関する行動傾向──および潜在因子の発露率、上昇。……拳闘士。君の介入は、予定には含まれていなかった」
言葉は平坦だったが、そこには“排除も辞さない”圧があった。
トーガは、鍋蓋のような拳を軽く回しながら、肩をすくめる。
「そりゃ悪かったな。でも──黙って見てりゃあ、兄弟が食われてたぞ?」
「干渉の是非を問うている。君の拳が、“自然な助力”と呼べる範疇かは……我々が判断する」
「判断なんざ、好きにすりゃあいいさ。俺は、目の前の飯がひっくり返るのが嫌だった。それだけだ」
あくまで笑顔のまま。だが、拳からは明らかに“力の膜”がにじんでいた。
エルムが、小声で俺に問う。
「……あれ、ただの監視じゃない。コバルト、あんた、狙われてる」
「……かもな」
俺の雷脈が、また、わずかに反応していた。
それは恐れでも怒りでもなく──
ごくごく、冷たい緊張。
『主殿。この男、常人ではない。術式を帯びた対魔装備と、精神遮断の補助具を確認。正面から交えれば、こちらに損耗が出る』
(……撤退、か?)
その判断を下そうとした瞬間、
前に出たのは、トーガだった。
彼は一歩だけ進み、まるで誰かのために立つように、足を止めた。
「おい、お役人さん。ここは森ン中だ。決まりだ、観察だ言いたいなら、火を囲んで話せ。無理を通すンなら──こっちも、そういう構えになるぜ?」
男は沈黙し、やがて一歩引いた。
「……交戦は本意ではない。記録は持ち帰る。君の存在は、報告対象に加える」
「好きにしな。俺はしがない農家のせがれだ。忘れてくれて構わねぇよ」
そう言って、トーガは背中を向けた。
拳にまとっていた闘気も、すでに消えていた。
男の姿も、霧の奥に溶けるように消えていく。
ただ、残されたのは、奇妙な緊張と、もう一つの確信。
──俺たちは、見られている。
ただ立っていただけなのに──あの背中は、妙に頼もしく見えた。




