第15話 記されざる雷
封じられたはずの雷が、語られぬ記憶を揺り起こす。
静かな訪問者が遺したのは、かつて果たされなかった“誓い”だった。
彼女の足取りは、奇妙だった。危険を感じさせるものではない。けれど──
“雷を知る者”だけが持つ、あの、沈み込むような重みがそこにはあった。
「私は……“残された者”。」
少女は名ではなく、そう名乗った。
「あなたに──伝えきれなかったことがある」
俺は頷き、彼女を部屋へと招き入れる。
燭台に火を灯すと、彼女は静かにフードを下ろした。
顔立ちは幼く見えたが、瞳は年齢を感じさせなかった。
目の奥が深すぎる。知識ではなく、“記憶”を覗かせるような、そんな目だった。
「……お前は、何者だ?」
俺の問いに、彼女は短く──けれど確かに答えた。
「雷の器……?」
口にした瞬間、自分でもそれが何を意味するのか、うまく掴めていないことに気づく。
少女はそう言いながら、外套の内から小さな封筒を取り出した。
蝋印の残る古文書の断片──いや、魔術式の図案だ。
「この図形……」
「かつて“器”を作ろうとした場所にあった印。中心に描かれているのは、雷を閉じる“環式陣”……
本来は、暴走を抑えるための封印術式だった」
シアンが、腕の中でかすかに反応する。
『主殿。この式──断片ながら、雷脈の初期封印理論と酷似している。だがこれは……抑制ではない。“模倣”のための構造だ』
「模倣……?」
『雷脈に“似せた”魔力の流れを、術によって編み出す。それを生あるものに馴染ませる試み──』
シアンの声が、少しだけ低くなる。
『……雷脈を術によって宿そうとする試みが、かつて存在していた。』
少女は小さく頷いた。
「私は……その試みの最後に残された一人。“成功”も、“継承”もされなかった者。でも、“残った”。それだけが、私の意味」
その声音に、誇りも後悔もなかった。
ただ、“事実”として告げられていた。
少女は立ち上がり、フードをかぶり直す。
「伝えるべきことは、ここまで。もしあなたが雷に踏み込むなら──王都北の外れにある、古き魔導塔に向かって」
「それって……」
「地図にはもう載っていない。でも、“雷の器”を作ろうとした場所──記憶だけは、そこに残っている」
少女は扉の前で振り返る。
「雷脈を継いだ者、コバルト・ブルー。あなたがその器であるなら……“記されざる雷”の真実に辿りつけるはず」
そして、何も言わずに去っていった。
その足音すら、すぐに夜の闇に溶けて消えていった。
* * *
翌朝、俺は早くから支度を整え、宿を後にした。街道を王都北の方角へ進むと、街の外れで見慣れた姿が目に入った。
「あら、コバルト?」
エルムだ。幼馴染の魔法使いは、驚いた顔で俺を見ていた。
「こんな朝早く、どこへ行くつもり?」
俺は一瞬迷ったが、昨晩の出来事を簡単に説明した。エルムの表情が真剣なものに変わった。
「そんな大事なことなら、私も行くわ。一人で行かせるわけにはいかないもの」
エルムの言葉に少し安堵し、俺は頷いた。
「ありがとう。……けど、魔導塔までは、ちょっと距離がある」
俺たちは肩を並べて歩き出した。
* * *
魔導塔に着くころにはすっかり太陽がのぼり、真昼になっていた。
塔の入口にある扉は傷んでいたが、かつての荘厳さを残した重厚な作りで、今なお現役の魔術師が利用していることを感じさせた。
エルムがそっと扉に手を触れる。
「魔力がまだ流れているわ……それもかなり強い」
俺は頷き、扉を押し開ける。軋んだ音が響き、内部の空気が俺たちを包み込んだ。
塔の中は薄暗く、どこか湿った空気が漂っていたが、使われている形跡はあちこちにあった。壁際には書棚が並び、古びた魔術書や巻物が整然と収められている。
「誰かいるのか?」
俺が呼びかけると、階段の上からゆっくりと足音が降りてきた。
「よく来たな、“雷脈を継ぐ者”よ」
そこに現れたのは、年老いた魔術師の男だった。
年老いた魔術師は、俺とエルムをじっと見据えていた。
その眼差しにあったのは、敵意でも威圧でもない。
まるで“何かを託す者”が、その後継者を見定めるような静かな覚悟だった。
「ようやく……巡り着いたか。“雷の因果”の、続きへと」
「……その言葉の意味、詳しく聞かせてもらえるか?」
問いかける俺に、男は黙って塔の奥へと歩き出した。
俺とエルムは視線を交わし、小さくうなずいて後に続く。
* * *
螺旋階段を降りた先にあったのは、古びた魔術工房だった。
壁面には複雑な紋様と魔法陣が彫り込まれ、足元の床にも、風化しかけた術式が刻まれている。
棚には封蝋付きの文書、呪符、石板が並び、空気には微かに雷の気配すら漂っていた。
「ここは……?」
「かつて、“雷の器”を造ろうとした者たちの終着の場所。この塔はその試みのために築かれた、封印と再現の祭壇だった」
エルムが、目を見開く。
「まさか……雷脈の“再現”?」
「ああ。正確には、“雷因子”と呼ばれるものを術式によって編み直し、人の身に宿す。すなわち、血によらず、雷を宿す《器》を創ろうとしたのだ」
シアンが低くつぶやく。
『主殿。……それは、雷脈の“模倣”だ。かつて禁忌とされた、魂の座へ異なる流れを穿つ試み。真なる継承ではない。ただの“形”に過ぎぬ』
「だが、その形の中に──命を宿そうとした少女がいた」
男は、棚の奥から一冊の革綴じの記録文書を取り出した。
表紙には、こう記されている。
《第七の器──雷因子共鳴の記録より》
「その少女は《ミーネ》と名付けられた。孤児のひとりで、雷の力に“耐える才”を持っていた。幾度となく術式を刻まれ、その身に雷の奔流を受け──それでも、壊れなかった」
エルムが眉をひそめた。
「それ……人にできることじゃない。術式を刻むたびに、魂と肉体は削れる。それを何度も……」
「彼女は“意志”で残った。決して完全ではなかったが、彼女の中の雷は、術式と共に生きようとしていた」
記録文の一節を、男が指でなぞる。
《──封雷の環式は崩壊。少女の肉体は失われ、術の中に意志が宿る。塔は封鎖、計画は凍結。だが、雷は残った──》
雷は、消えなかった。
ただ、術では制御できなかった。
「彼女の存在は……塔の奥に留まり続けた。封印を越え、形を持たぬ意志として、ずっと、“誰か”を待っていた」
「……それが、俺?」
「ああ。君の中に流れるものが、塔の眠りを揺り起こした。雷が雷を呼び、眠っていた記憶が目覚めたのだ」
昨夜、俺のもとを訪れた少女。
名を持たず、“残された者”と名乗った彼女。
──彼女はもう、この世にいなかった。
だが、魂の欠片が術の中に宿り、俺の雷に呼応して目を覚ました。
それが、昨夜の出会いの正体だった。
「これは……」
男が手渡してきたのは、蒼白い光を内包するコイン1枚ほどの小さな水晶。
「彼女が最後に遺した“意志の結晶”だ。雷の記憶を封じたもの。君のような存在としか、共鳴できぬように造られている」
俺がそれに触れた瞬間──
脳裏に、声が、届いた。
《……あなたが、“器”なのね》
それは、あの夜に聞いた少女の声だった。
優しく、どこか、懐かしい。
《私は“模倣”だった。でも、あなたは……本物。雷と歩める人。だから、託す。続きを──》
光が静かに揺れ、やがて収まっていく。
その余韻の中で、俺は気づいていた。
この雷は、ただの力ではない。
誰かの想いが、時を越えて宿った、“記憶”でもあったのだ。
俺は、水晶を握り締める。
(……ありがとう、ミーネ)
肩越しに、エルムが静かに言った。
「……これで、真実の一端には辿り着けた、のかな」
「ああ。でも、まだ……始まりに過ぎない」
そう答えたとき。
俺の指先に、ふと、蒼白い稲光が、微かに瞬いた。
風のない地下の祭壇で、俺はしばし目を閉じていた。
手の中で、雷の光を宿す水晶が、微かな温もりを残している。
「……ミーネ」
思わず、声に出ていた。
彼女の姿が、脳裏によぎる。
沈んだ瞳。深すぎる記憶。
あれは幻ではなかった。術でもない。
ただ一つの、“魂の声”だった。
「雷を……模倣し、宿し、そして壊れた器──」
魔術師が、そっと語る。
「だが、ミーネの中には術を越えたものがあった。“想い”だよ。己が滅びようとも、誰かが来たときのために、記録を残すという決意がな」
エルムが静かに息を吐く。
「……塔の結界が崩れかけていたのも、雷脈の波に揺れたから。ミーネはそれに乗じて、自身の意志を現したのね」
「一夜限りの、仮初めの来訪だ。魂を術式に残し、かつてここで交わされた“誓い”を、次に繋ぐために」
誓い。
それは、雷を扱う者としての責務か。
それとも──彼女が託した、希望そのものか。
『主殿』
シアンが、静かに呼びかける。
『雷脈とは、血の運びだけで目覚めるものではない。それは“響き合い”だ。意志と記憶、そして選ばれた導きの中に生まれる。ゆえに、主殿が彼女に選ばれたのだ』
「……俺に?」
『ああ。主殿は、雷の“再来”なのだ。封じられ、忘れられかけた力が──今、再び流れ始めている』
そのときだった。
水晶の光が、ふいに淡く脈打った。
その光が、塔の奥の魔法陣へと滲み、封じられていた古文書の一部が浮かび上がる。
「これは……!」
巻物の表面に、焼き刻まれた雷の紋章。
術式と見まがうそれは、明らかに“記録”だった。
「封印ではない。“語り”として残された……記録陣」
魔術師が目を細める。
かつてこの塔で交わされた雷の誓い──
暴走を抑えるための術ではなく、雷そのものと“共に在る”ための知。
それは“封じる”のではなく、“認める”ための構式だった。
『主殿。それは、器ではない。“継承の間”だ。記憶と雷が交わり、新たなる因果が編まれる……』
「……そうか。彼女は、俺を器にするためじゃなく……“継がせた”んだな」
俺の内にある雷が、静かにざわめく。
それは、暴れるものではない。
ただ──微かに寄り添うように、息づいていた。
* * *
塔を出たとき、空はもう深い群青に染まっていた。
星も雲もない。風すらなく、ただ静けさがあたりを包んでいた。
「……これから、どうする?」
エルムが問いかけてくる。
俺は答える。
「王都に戻ろう。記録を整えたい。この“雷”が何を示しているのか──整理して、動き出す準備をする」
「うん。それがいい」
エルムの声に、迷いはなかった。
俺たちは、夜の街道をゆっくりと歩き始めた。
遠く、雷のような鼓動が、まだ胸の奥に残っていた。
* * *
──そして、三日後。
朝食を終えた頃、俺が根城にしている安宿の扉が控えめに叩かれた。
名は“ミーネ”。
雷の奥に、彼女の意志が今も息づいている。




