第10話 オーガとの対峙
決意は、雷より速く。
剣の柄を握りしめたまま、俺は静かに息を吐いた。
林の向こうから迫ってくる気配は、確かに“そこ”にいる。
そして今、その存在が一歩、踏み出した。
音が消える。
空気が沈む。
あの異形の鬼神族──昼間、魔力反応として探知された“それ”が、ついに姿を現した。
その影は、月明かりの中でじわりと浮かび上がってくる。
巨体。
白く濁った瞳。
肥大化した右腕。
全身を這う黒い筋と、不自然に膨れた血管。
明らかに、ただの魔物ではない。
この空間に“居てはならない”存在だった。
俺の雷脈が疼いている。
ただの戦闘本能ではない。もっと深い、根源的な警鐘だ。
背後でエルムが動く気配。
彼女は無言で地面に魔法陣を描き、魔力を流し始めた。
風と土、二重の結界と補助術式──彼女の準備は、もう整っている。
「……俺が前に出る」
その言葉に、エルムはこくりと頷くだけだった。
無言の信頼。それだけで、充分だった。
俺は一歩、前に出る。
剣を抜き、構える。
雷脈が共鳴する。
熱が、刃に移っていく感覚。
力は、俺の意志に応じて応えてくれる。
(大丈夫だ。暴発じゃない──これは、“選んで使う”力だ)
オーガが、動いた。
咆哮もなく、ただ音もなく、土を踏みしめて一直線に踏み込んでくる。
「来い……!」
全神経を集中し、俺は初撃に備えた。
雷のように速く、正確に──
この一撃が、すべての始まりとなる。
重たい音とともに、オーガが地を蹴った。
その一歩で、足元の土がめり込み、飛び散った破片が空気を裂く。
巨体とは思えぬ速度で、一気に間合いを詰めてきた。
俺は咄嗟に腰を落とし、足をひねりながら剣を振り抜く。
右斜め下から左上へ──“斬り上げ”の一閃。
けれど、斬撃が肩をかすめる寸前、オーガが異様な反応速度で上体をひねった。
刃が滑るように外れた瞬間、逆にオーガの右拳が振り下ろされる。
あの巨腕──ただの打撃ではない。大地ごと叩き潰すつもりの重さ。
俺は剣を軌道修正して横に払い、防御に転じた。
だが、拳の質量が想像を超えていた。
(──ぐっ……重いッ!!)
剣がしなり、腹に圧が突き刺さる。
受けきれず、身体ごと吹き飛ばされた。
数メートル転がりながら、地面を蹴って体勢を立て直す。
肺が焼けるように苦しいが、まだ動ける──!
「大丈夫!?」
後方からエルムの声。
俺は荒い呼吸を整えながら、短く返す。
「ああ……さっきの一撃、骨に響いた。防御越しでもあの重さだ」
後方でエルムが杖を構え直し、地面へ魔力を流し込む。
「テラ・ヴェントゥス、調整……行くよ!」
風が巻き起こり、それに乗せて地面の土が柔らかく浮き上がる。
土の流れが渦を描くように俺の足元へ集中し、跳躍と着地の手助けをする形へ変わった。
その動きに合わせて、俺は地を蹴った。
風が背を押し、土が着地点を制御してくれる。
一気に接近──そして跳躍。
剣に雷脈の力をのせ、肩口を狙って振り下ろす。
剣先が風の流れを裂き、大気が一瞬静まったかと思った次の瞬間──
ズン、と確かな手応え。
血飛沫。
だが、オーガは倒れなかった。
斬り裂いたはずの肩口から、異常に盛り上がった筋肉が蠢き、わずかに再生の兆しすら見せる。
(……再生能力まであるのか!?)
しかも、その白目が、まっすぐこちらを捉えている。
ただの本能ではない──確かな“敵意”と、そこに宿る“学習”の気配。
オーガが俺の剣筋を読んで、わずかに構えを変えた。
(こいつ──戦いながら“覚えて”いる……!)
その瞬間、全身が総毛立った。
ただの魔物じゃない。
これは、“何か”が入っている。
この戦いは──普通じゃない。
だが、退くわけにはいかない。
村が、この先にあるのだから。
剣はどうにか通った。しかし、倒れない。再生する肉体、学習する動き。この鬼神族はただの魔物ではない。
異質な“何か”が、確実に混ざっている──。
次の瞬間、オーガが跳んだ。
巨体に不釣り合いな跳躍。目の前の視界が一瞬で埋まる。
俺は直感で横へ跳んだ。着地と同時、地面が陥没するように凹み、衝撃波が辺りを撫でた。
跳び蹴りのような形での着地。まともに受けていたら、即死だった。
この力はまるで──兵器だ。
「やば……っ、あの質量で動きが速すぎる……」
低く呻き、再度構えを取り直す。雷脈が疼く。全身を駆け巡るように小さな雷の粒子が走り、感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。
だがその力は、完全には制御できない。
放てば、周囲を巻き込む。
踏み込めば、暴発する危険がある。
コントロールできるラインを見極めながら、ギリギリの出力で戦わなければならなかった。
「エルム、避けろ!」
次の瞬間、オーガが地を蹴り、俺との間合いを再び詰めてくる。エルムの魔法で生まれた足場を踏みしめ、俺は真正面から迎え撃つ。
剣を振るう。
雷が迸る。
軌道をずらして打ち下ろしてきた拳に対し、刃を閃かせる。
ガキィン、と火花が散った。
衝撃。
右腕が痺れ、肩の奥で筋肉が軋む。
だが止まらない。止まれない。
「……っらああああッ!!」
叫びながら斬る。
今度は足を狙う。巨体の動きを封じなければ、勝機はない。
土の流れを利用し、足元を削るように斬り抜ける。
風が刃の動きを後押しする。
深くは斬れなかったが、一瞬オーガの動きが止まる。
そこを逃さず、連撃。
斬る。
引く。
斬る。
全身を使い、まるで舞うように剣を振るう。
雷脈が追従してくる。
電光が地を裂き、剣に軌跡を走らせる。
「今だ、止め──」
エルムの声と同時、オーガが咆哮した。
轟音。
その声が空気を裂き、思考を一瞬かき乱す。
(……!)
次の瞬間、オーガが左腕を大きく振るった。
風圧だけで全身が吹き飛びそうになる。
俺は足場を崩され、バランスを崩しながらも地面に剣を突き立てて耐える。
そのとき──
エルムが叫んだ。
「コバルト、もう一体いる!!」
何、だと──!?
視線を横に向けると、林の奥からもう一つ、白目の巨影が揺れていた。
まさか……。
これが“群れ”なのか!?
背筋に、冷たいものが走った。
時間がない。
一体目に手こずっている間に、次が来る。
それだけは避けなければならない。
雷脈が暴れ出す気配を見せていた。
出力制御の限界が近い。
だが、このままじゃ終わらない。
俺は、まだ──ここで終わるわけには、いかないんだ。
林の奥。
もう一体の異形が、確かにそこにいた。
白目のオーガ。
歪んだ輪郭。重心の低い構え。
その存在が、視界の隅で脈打つように揺れている。
俺の背筋を冷たい汗が伝った。
視線は目の前のオーガに向けたままだ。
動きを止めてはいけない──でも、意識の半分は、既に次の脅威に捕まっていた。
戦いながら、“次”を考えなければならない。
剣技の応酬の最中に、戦局の全体を読み、守るべきものを想像し続ける。
それが、こんなにも難しいとは思わなかった。
オーガが低く唸り、地を蹴る。
再び迫る巨体。
俺は振るった剣で迎え撃ち、雷脈の力を乗せる。
重い斬撃。
全身を揺らす反動。
だが──通らない。
動きが洗練されてきている。
鬼神族は確実に“進化”している。
戦いの最中に、技を、間合いを、殺しの手順を学んでいる。
(まずい……このままだと、持たない)
剣を弾かれ、再び後退する。
足場の土が崩れた。
風が巻き、エルムの支援がなければ立ち直れなかった。
「コバルト、大丈夫!?」
声が震えている。
エルムの魔力も、限界が近いはずだ。
彼女の術は、俺のために特化されている。
俺が戦えば戦うほど、彼女は消耗する。
「無理しなくていい、もう……っ」
「違う!」
短く、でも鋭い声が返ってきた。
「私は……コバルトが“守りたい”って思ったものを、守る側にいたいの!」
言葉が、胸を突いた。
戦っているのは、俺だけじゃない。
もう一体が、近づいてくる。
距離は遠い。けれど、確実に歩を進めていた。
時間がない。
雷脈が、暴れようとしていた。
筋肉がピリつく。視界がチカチカと光る。
内側から湧き出す力が、臓腑を熱く締め上げていた。
このままでは、制御が利かなくなる。
暴発すれば、エルムを、村を、巻き込む。
(だけど……使わなきゃ、勝てない)
あの皮膚は、雷を纏った剣でなければ貫けない。
あの動きは、雷の加速がなければ追いつけない。
恐怖があった。
でも、それ以上に、
(守れないことのほうが、ずっと怖い)
父のようにはなれない。
兄のようにもなれない。
俺には、雷しかない。
けれど──
この力が“俺のもの”ならば、
この剣に込められるならば、
今こそ使うべきだ。
誰かを傷つけないために。
守りたいもののために。
剣を握りしめた。
指先から、雷が漏れる。
腕輪が静かに、俺の腕で光を放った。
『主殿……ここから先は、お主の覚悟だ』
声は優しく、しかし厳かだった。
……わかっている。
俺は右足を引き、深く構えた。
雷脈の脈動が、今にもあふれそうな熱を帯びている。
(これが、俺の選んだ力だ)
次の瞬間──
“雷”が閃き、空気が弾けた。
雷光が、爆ぜるように全身を走る。
閃光──それは、俺の意志に応えた“雷脈”の咆哮だった。
蒼白い稲光が肌の表面にまとわりつく。
視界が一瞬、焼き切れるように眩しかった。
音が消えた。
世界が、静止する。
風が止まり、葉が凍りついたように揺れるのをやめた。
エルムの声も、遠くなった。
けれど──
俺の鼓動だけが、はっきりと聞こえていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
(これは、俺の力だ)
思考が明晰になる。
感覚が研ぎ澄まされる。
オーガの動きが、遅く見えた。
いや、俺の知覚が加速している。
身体が、雷と一体化するように軽くなる。
剣を構える。
刃が、雷を喰うように揺らめいた。
蒼雷を纏った、真の“俺の剣”。
踏み込む。
瞬間、景色が歪んだ。
足元が破裂したように土を跳ね上げ、身体が一瞬で十歩先へと移動する。
目の前のオーガ──一体目の個体の懐に、刹那で滑り込んだ。
斬る。
ただ、それだけの動作。
だが──
雷光が迸り、皮膚を貫通した。
蒼白い稲妻が肉を焼き、骨を断ち、巨体を打ち貫いた。
オーガの目が、初めて“驚き”を浮かべた。
その白目の奥に、確かな“理解”のようなものが宿った。
遅い。
もう、俺のほうが速い。
返しの一撃。
刃を反転させ、横一文字に薙ぎ払う。
空気が裂け、肉が裂け、血が飛ぶ。
オーガの身体がよろめく。
けれど、まだ倒れない。
背後──林の奥。
もう一体が、ゆっくりとこちらに迫っていた。
時間は、ない。
斬り結びながら、エルムの支援が視界に映る。
足元に生まれた浮き土、風圧の補助。
雷速に追いつけるはずのない彼女の魔法が、的確に俺の“予測位置”に合わせて術式を配置している。
(見えているのか、俺の動きが──)
理解する。
エルムの補助は、俺の動きを“追って”はいない。
“先に置いて”いる。
俺がどう動くかを読み切って、そこに風と土の支援を設置しているのだ。
そうだ。
彼女は王都魔法研究所の才女。
俺の戦い方を知り尽くしている、かけがえのない相棒だ。
信じろ──エルムを。
身体が、風に乗る。
加速。
跳躍。
空中で体を反転させ、雷光と共に突き刺す──三撃目。
それでも、鬼神族は吼えた。
最後のあがき。
左腕を振るう。
だが、もう遅い。
その動きすら、俺の身体は見切っていた。
雷脈がもたらす加速。
心と肉体が一致した“英雄の一閃”。
──最終の斬撃。
剣が肩口から腰まで、一気に叩き斬る。
蒼白い稲光が、裂け目に沿って迸る。
その瞬間、オーガの巨体が弛緩し、重力に従って崩れ落ちた。
……一体、沈黙。
だが、息をつく暇もなかった。
林の向こう。
二体目が、音もなく地を蹴った。
「来る……!」
膝が悲鳴を上げる。
さっきの一撃で、体力も、雷脈の反動も限界に近い。 未だ体内を駆け巡り、暴走こそしないものの、俺の器には重すぎる。
間合いが、瞬く間に詰まる。
刃を振る──が、重い。
次の一撃で倒せる保証は、ない。
けれど──
背後に、村がある。
あの笑顔たちがある。
守ると決めたのは、俺だ。
剣を振るう。
最後の気力を振り絞る。
雷脈が、俺の意志に応え、再び──
そのとき、
閃光が飛んだ。
風を纏った魔力の矢──エルムの射撃魔法が、オーガの横腹を抉る。
「今だ、コバルト!!」
エルム。
疲弊し、ふらつきながらも、俺の背を押す声。
目の前のオーガが、わずかに体勢を崩した。
チャンスは、今しかない。
──踏み込む。
雷光が奔る。
剣が閃く。
そして、二体目の鬼神族も──
斬り伏せられた。
すべてが、静かになった。
気を抜いた瞬間、膝が折れる。
剣を杖のように突いて、なんとか立つ。
視界の端で、エルムが駆け寄ってくるのが見えた。
「コバルト!! 大丈夫!?」
答えようとして、声が出なかった。
かわりに、ゆっくりと頷く。
「すごかった……今のあれ、完全に……」
彼女が言葉を詰まらせる。
その表情は、恐れでも畏敬でもなく──ただの、安心だった。
俺も、初めて自分の力が“恐ろしくない”と思えた。
この雷は、誰かを傷つけるためのものじゃない。
誰かを守るために、俺の中にあるものだ。
遠くで、風が吹いた。
木々がざわめき、ようやく世界が“動き始めた”ような気がした。
雷脈は、静かだった。
まるで満足したかのように、体内に沈んでいく。
俺は空を見上げて、小さく笑った。
──これが、俺の第一歩だ。
ようやく、第一歩だ。




