第一話
「ねえ真紀先輩」
それはいつも通りの静謐と化した図書館でのこと。
「な~に?」
対面に座っている真紀先輩は、読んでいた本をパタンと閉じて俺の方を向く。
その俺を捉える瞳は、先輩としての威厳のかけらも感じられないほどに幼く、黒曜石のような艶のあるショートボブヘアーには、本人曰くお気に入りのクマのヘアピンがついている。
身長は俺より少し低いくらい。
というのも、俺はそもそも身長がそこまで高くないので、真紀先輩とはそこまでの差はない。
「よだれ垂れてますよ」
「?」
「ほら、机見てください。いくら本を読んで集中していたからといってだらしないです」
その指摘でようやく机のよだれに気づき、顔を真っ赤にして慌ててハンカチで拭く。
確かに何か(主に読書とか)全力で集中しているときに、よだれが垂れてくるのもわからなくもないが、普通はすぐ気づくものだ。
だが、よだれが垂れていることに気づかず黙々と読書に勤しんでいる真紀先輩……。うん。それはそれでかわいいな。
「わわわ……!これは違くて!」
「シーッ、真紀先輩ここ図書館です」
急に声を荒るものだから、他の図書館にいた生徒の視線が一気にこちらを向く。
俺は軽く「すみません」と真紀先輩の代わりに周りの人たちに頭を下げた。
「ごめん……」
「いえ。いつものことじゃないですか、真紀先輩のドジは」
「ぐぬぬ……。後輩である結人が先輩である私に悪口とはいい度胸」
「ほら読書続けましょ」
とまあこんな風に、真紀先輩との日常も早三か月が経つのかぁと感慨深い気持ちになる。
それは、俺と真紀先輩が付き合い始めて三か月という意味にもとれる。
真紀先輩と付き合い始めてから俺は苦労しっぱなしだ。
ドジだから可愛いっていう面もあるが、それをすべて俺がフォローしなければいけない。
だからと言って付き合わなきゃよかったなんて絶対思わない。
俺は真紀先輩のそういうところ含めて好きだし、先輩も俺のことを好きでいてくれる。
そして何より可愛い。
学年のトップカーストみたいな超絶可愛いとかではなく、クラスとかでは静めで、あまり目立たない感じだけど、よく見れば可愛いみたいなそんな感じ。
「そろそろ帰りますか?」
「やだ~。外暑いじゃん」
「おいてきますね。それじゃあまた明日」
荷物をまとめて席を立ち、真紀先輩を置いていこうとすると、ワイシャツを掴まれる。
「一緒に帰ろう!」
「へいへい」
夏とはいえ、夕方になれば少しは涼しいんじゃないかと期待したが、クーラー天国からの急な気温差のせいで、涼しさは全然感じられなかった。
帰路の途中、隣を歩く真紀先輩が暑さにとろけそうになりながらもこんな提案をしてきた。
「結人~、アイス食べたい」
「じゃあコンビニでも寄っていきますか」
「けどお金がない」
なぜそう自信満々に言う。そして俺に奢らせようとする。
「お金がなきゃアイスは買えませんよ?」
「結人奢ってくれるでしょ?」
「奢ってくれるでしょ?じゃなくてですねぇ、俺の財布を何だと思ってるんですか?」
「私のATM~!……って、痛!」
俺は軽く真紀先輩の頭をチョップしてやった。
何が「私のATM~!」だ、まったく。
「なにをする!」
「そんなこと言う真紀先輩には奢りませんよ。俺はそうだな新発売のパリパリ君の……」
「あー!わかったからごめんなさい。んーじゃあ、チューさせてあげるから、奢って?」
そう言ってわざとらしく目を閉じて、唇をチューの形にする真紀先輩。
「ほらどうしたの?早く」
くそう!こういう時に真紀先輩はずるがしこいというかなんというか!
だがまんまとこのままキスをしてしまっては俺はこれからちょろい後輩彼氏として思われてしまう。
だけど真紀先輩とキスしたことないんだよ!したいよ!
我慢……。我慢……。
そう決意した俺はポケットからとあるものを取り出し、袋から一本を取って、依然チューを求めている先輩の口にそれを入れてやった。
「???」
「ポッキーでも一緒に食べながら帰りましょ」
先輩とのファーストキスの機会を逃してしまった帰り道であった。